第5話「進路」

 夏休みだというのに客が全く来ない。それはいつものことだから別にどうということではないが、本当に対処しなければならない問題は別にある。


 中学3年生になった松崎は店番をしながら受験勉強に励んでいた。つい先月までソフトボール部で活躍していたのだがそれも引退してしまい、今ではこうして父親が外出中の時に店番を手伝っている。誰もいない冷房の効いたカウンターで高校野球のラジオ中継を片耳に取り組む勉強は意外と捗る。いや、試合が大きく動いた時は勉強そっちのけでついつい叫んでしまうからやはり意味はないかもしれない。


 学校の課題にもなっている英語の問題集を解き終わったと同時に店のドアが開いた。客は誰かなんて顔を見なくてもわかる。


「いらっしゃい」


 相手はやはり小野寺だった。小学4年生になった彼はすっかりここの常連客だ。今日は平日なので少年野球の練習はなく、小野寺もTシャツにハーフパンツとカジュアルな格好だった。


 流れ作業のようにコインを購入し、打席へと向かう。一番右の席はすっかり小野寺の指定席となった。80キロまでなら打率が安定する。最近は90キロに挑戦しているらしい。カキン、カキンと金属音が響いた。


「随分上手くなったね」


 丁度打ち終わった小野寺に松崎は声をかける。彼は彼女とチラリと目を合わすと、持ってきたリュックサックに入っていたタオルで自分の顔を拭った。相変わらず彼の表情は滅多なことで綻びはしない。


「まだまだだよ。レギュラーじゃないし」

「それでも最初と比べたら結構上手くなってる。飲み込み早いんじゃない? 君」

「そうかな……どうだろう、わかんない」


 彼女とのやり取りをしながら、小野寺は追加のコインを購入する。売り上げに貢献してくれるのは嬉しいが、小学生にしては散財気味ではないか。松崎はなんのためらいもなく金をつぎ込む小野寺に少しだけ危機感のようなものを覚えた。複雑な感情だ。


「ちょっとお金使い過ぎじゃない? まあ商売になるからありがたいんだけど。君、他に欲しいものとかないの? ゲーム機とか。ほら、ポケモンも新作出たらしいじゃん」

「俺、ポケモンあんまり知らないから。興味ないし」

「そうなんだ……」


 会話が途切れ、小野寺は打席へと向かう。こういう不愛想で無表情で口数が少ないところは昔から変わっていない。


 打球の音が一定のリズムで響き渡る。その背中を松崎はじっと眺めていた。




 どうしてそんなに頑張れるのだろう、と。




「小野寺くんは、どうしてそんなに野球を頑張れるの?」


 再び追加のコインを購入する小野寺に松崎は尋ねる。彼は手を止め、しばらく沈黙した。


「……野球、上手くなりたいから?」


 自信なさげに小野寺は答える。自分でもよくわかっていなかったみたいだ。どうしてそんな質問したのだろう、と小野寺は松崎の方を不思議そうに見つめる。


「それだけ?」

「えっと……あと、野球が好きだから、だと思う」

「……そっか」


 ありがとう、と松崎は微笑んだ。しかしいつもの元気な笑顔ではない。そんな彼女の変化など知らず、小野寺はもう一度コインを購入した。再び金属音が一定のリズムで響き渡る。彼のバッティング練習を眺めながら、松崎は問題集に挟んでいたプリントを手にする。




 進路調査票。




 A4サイズのプリントには大きな文字でそう印刷されていた。しかし学校名を書く欄は未だに真っ白で、名前を書いて消した跡すら見当たらない。


「高校どうしよっかな」


 誰にも聞こえないくらいの小さな声で、松崎は溜息交じりに呟く。


「なんだ、まだ進路希望書いてなかったのか」


 背後に気配を感じ、ひっ、と松崎は肩をすぼめる。振り返ると、すぐ後ろに父親が立っていた。


「ちょっと、脅かさないでよ」

「ははは、悪いな」


 父親だった。彼本人は驚かすつもりはなかったのだろうが、心臓に悪いからやめてほしい。


「それで、高校は決まりそうか?」

「決まんないよ、全然。うーん、お兄ちゃんと一緒のところに行こうかな」


 松崎はペンをクルクルと回しながら自信なさげに答えた。口にした学校は、本気で進学したいところではない。


 彼女の3つ上の兄が通っている高校は何度も甲子園に出場経験のある私立の名門校で、兄も昨夏に甲子園出場を果たしている。しかしその学校に女子野球部はもちろん、ソフトボール部すら存在しない。つまりマネージャーでなければ野球と関われないのだ。


「もう店番は俺がやっておくから、茜は部屋に戻って勉強に集中してなさい。あとちゃんと進路考えておけよ。夏休み明け提出なんだろ?」

「わかってまーす」


 気の抜けたような返事をして、松崎は奥に戻った。そんな親子のやり取りも知らず、黙々と小野寺はバッティングを続ける。彼の放つ打球の音だけが、蝉の声と共に夏の空に響いた。


 ぼうっと練習を続ける彼を眺めていると、また来客を告げる足音が聞こえた。


「いらっしゃい……ああ、お兄ちゃん」


 松崎の兄は表情一つ変えずに彼女の方を見ると、コインを購入し一番左の打席に立った。最速150キロ出るコースには小野寺はもちろん、彼女も挑戦したことがない。が、彼は苦にすることもなく次々にボールを返していく。


 バッティングを終えた小野寺もしばらく打席から彼のフォームを眺めていた。松崎をそのまま男性化したように洗練されたフォームで打ち返す姿はやっぱり綺麗で目が離せない。


「すごいでしょ、うちのお兄ちゃん」


 さっきまでカウンターにいたはずの彼女が話しかけてきた。小野寺は彼女の方を振り向くと、コクリと頷いた。


「私もお兄ちゃんにいろいろ教わったんだ。よかったら今日いっぱい教えてもらいなよ」

「いいの?」

「あとで聞いてくる」


 彼女はすぐに兄の元へと走った。あとで、の定義とは一体何だろうと疑問に思ったが、間もなく彼女は小野寺の方へと戻ってくる。


「いいって。今グローブとかある?」


 松崎の問いに小野寺は首を振った。


「そっか。じゃあ私の貸してあげるから、お兄ちゃんのバッティングが終わるまで待っててね」


 まるで嵐のような人だ、と小野寺は思った。彼女はすぐにカウンターのテーブルに置かれていた参考書や問題集を抱え、自室に戻っていった。もちろん進路調査票も一緒だ。


 数分もしないうちに彼女の兄は打席から出てきた。小野寺の方を見ると、ピッ、と入口の方を指差す。それが「外で待っておけ」と解釈した小野寺は、その指示に従い外に出る。同時に彼女からグローブを借りた。フィットはしないが、あるだけマシだ。


「じゃあ行こっか」


 天真爛漫にはしゃぐ松崎に対し、彼女の兄はあまり口を開こうとしない。それ故に小野寺はいつものグラウンドに着くまで彼に対しての警戒心を解かなかった。


 しかしいざ練習が始まると、彼は懇切丁寧に小野寺に指導した。口数は少ないが低音の優しい口調で、やっぱり2人は兄妹なんだな、と小野寺は思った。


「君、飲みこみいいよ、センスあるかも」


 そう言われた時はお世辞だとしても嬉しかった。横から「お世辞言わないお兄ちゃんがここまで褒めるなんてすごいね」と彼女が言ってくるので、ますます高揚感は増していった。

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