第16話「課外授業」

 小野寺の問いに松崎はケロッとした様子で答える。


「全然。私には実際にプレーするよりマネージャーとして支える方が向いてるって思ったから。あ、念押ししていうけど後悔してないっていうのは本当だよ。そりゃ、当時はちょっと悔しいなーなんて思ってたけど、夏になる頃にはそんな気持ちどっか行っちゃったから」


 そういうものだろうか。小野寺は飲みかけのペットボトルに口をつける。もう炭酸はほとんど入っていない。ぬるいサイダーが口の中に広がって溶けた。


「今の職場に就いたのも頑張ってる人を応援したいって思ったからでさ。昔から世話焼きなんだよ、私。だからそういうのも入ってると思う」

「あー、確かに松崎さん少年野球の時いっつも俺らの面倒見てくれましたもんね。その節はどうもお世話になりました」

「いえいえとんでもない。好きでやってただけだし」


 松崎はそう謙遜するが、実際謙遜では収まりきれないくらい彼女の存在感は大きかった。小野寺も当時松崎の言葉で何度も救われた。「頑張れ」という単純な台詞でさえ、彼女が言えば魔法の呪文のように思えた。


「誰かが頑張っていると途端に応援したくなるし、それで結果が出たのなら私だって嬉しい。それが今の私の夢。頑張っている人を応援すること」


 そう語る松崎の目は、とてもキラキラと輝いていた。きっと彼女の言葉に嘘偽りはない。


「ではここで質問です。夢破れた小野寺くん、今の夢はなんですか?」

「夢、ですか……」


 返答に困った。甲子園に行く、という最大の夢はなくなり、今の小野寺には何も残っていない。受験する大学だってなんとなくで決めただけで、そこに本気で通いたいという大それた覚悟もない。


「俺は……わかんないです。この先、何がしたいのかも全然。多分きっと、何となく大学に行って、何となく仕事をして、何となく死んでいくんだと思います」

「それじゃつまんないじゃん。何かやりたいこと見つけないと、そのうち小野寺くん壊れちゃうよ。私、それが心配だな」

「でも……」


 見つからないものは見つからない。そう言いかけたところで松崎は小野寺の目の前に立ち、彼に向かって指を差した。


「じゃあ宿題。君が一番やりたいことを見つけなさい」

「はあ?」


 突然の宣告に理解がついて行けない。一瞬脳がフリーズしかけた。一体何を言ってるんだこの人は。小野寺が混乱しているのを気にも留めず、松崎は続けた。


「期限は君が卒業するまで。まあ少しくらいなら遅れてもいいかな。別に大学でやりたいことじゃなくていい。今すぐしたいことでもいいし、10年後、20年後のことでもいい。とにかく、君が一番叶えたい夢を見つけなさい。あ、受験で忙しかった、とかはナシだよ」


 無茶苦茶だ。驚きと呆れで声も出ない。そんなもの卒業までの残り数か月で見つかるはずがない。せめて何年か待てばヒントくらいはわかるかもしれないけれど。


「ま、やりたいこと見つかったらいつでもうちにおいで。受験勉強の息抜きで来てもたまになら怒らないからさ」


 反論する隙さえ与えず、松崎は小野寺にデコピンを一発食らわせてその場を立ち去った。相変わらず強烈な痛みが額を襲う。しばらく両手でおでこを抑えたまま動けなかった。


「じゃあ私先帰るけど、ちゃんと受験勉強やんなよ」


 うるせえ、と怒鳴りたかったが、そんな元気もなかった。胸につっかえたモヤモヤが小野寺の活力を吸い取ってしまう。




 君が一番叶えたい夢を見つけなさい。




 そんなこと言われたって、わからないものはわからない。漠然としない、けれど確かに存在する不安が心にまとわりつく。彼女のせいだ。


「夢、ねえ……」


 大それたことがしたい訳でもない。平々凡々に暮らしたい訳でもない。野球部の監督になってまで甲子園に行きたいとも思わない。何もない、空っぽの人間だ。そんな人間に、夢なんて見つかるのだろうか。


 今はとにかく目の前の受験勉強に集中しよう。小野寺はぱちんと頬を両手で叩くと、ゆっくり立ち上がった。びゅう、と強い北風が肌を刺激する。さむ、とつい口からこぼれてしまった。早く暖房の効いたところに戻ろう。小野寺は早足で館内へ向かった。


 幸いにも席は空いていた。しかし、当然だが隣に松崎はいなかった。


「1人で頑張るか……」


 自分を鼓舞するように小野寺は小さく呟く。午前中と比べて勉強は捗った。だけど、やっぱり少し寂しい。最近は長時間通話もなかったから、久しぶりに松崎と会話した。


「……やっぱ可愛いな、あの人」


 彼女の笑顔と共に、最後に言われた言葉を思い出す。一番叶えたい夢、なんてない。もう叶わない。きっとこの世界にはそういう人間の方が多いのではないだろうか、と屁理屈のようなことまで考えてしまう。


 気が付けば6時の時報が外から聞こえた。もうこの時期になるとこの時間帯は真夜中のように真っ暗だ。母親から「早く帰って来い」というメッセージを見て、帰ったら雷だな、と小野寺は思った。


「あれ、小野寺じゃん。久しぶりだな」


 図書館の駐輪所に向かう途中、柴山と出会った。中学卒業以降たまに電話で連絡するくらいで、こうやって直接喋ったのは久しぶりだ。髪は染めていないが、どこか垢抜けたような雰囲気だ。そもそも見慣れた丸坊主ではなかったので、一瞬誰かわからなかった。


「……柴山か。久しぶりだな」

「なんだよ、反応薄いな。あ、地区予選見たぜ。惜しいとこまで行ってんじゃんお前」

「……どうもな」


 この言葉が小野寺にとって地雷だったと柴山はすぐに理解した。ごめん、と返すも小野寺は気付いていないのか何も反応がない。


「ところで小野寺、お前進路どうすんの?」

「まあ、その辺の大学を受けるつもりだけど、お前は?」

「俺、東京の大学に行こうと思ってる。将来医者になりたくて」


 柴山が語る学校名は全国トップレベルで難関な国立大学だった。なんだか、何もない自分が惨めになってくる。


「すごいな、お前」


 弱々しく口にするのがやっとだった。今すぐにでも逃げ出してしまおうか。そんなことをずっと考えてしまう。


「俺、将来なりたいものとか全然なくてさ、大学だってここから近いからってだけで選んだだけだし、なんか尊敬する」

「別にいいんじゃね? まだ18なんだし。将来のことなんかわかるわけないだろ」


 思いつめた表情の小野寺に対し、柴山はやけにあっけらかんとしていた。他人事だから笑っていられるのか、と少しムッとしたが、そこは気持ちを静めた。


 でも彼の言葉で少し楽になった気がする。まだ18だ。ひょっとしたら大学でやりたいことが見つかるかもしれない。でもそういうことじゃないんだよ、松崎から出された宿題は。


「頑張れよ、受験」

「小野寺もな」


 柴山と別れた小野寺は駐輪所に向かい、自転車を漕ぐ。来た時に比べて冷え込んでいる。身体を震わせながら自転車を漕いだ。

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