第17話「合格発表」
卒業式は2月の末に行われるが、その数日前には小野寺にとって大きなイベントがある。大学の合否発表だ。
この大学に訪れるのは受験に訪れてからおよそ半月ぶりとなる。インターネットでも見ることはできたが、直接赴いて確認したかった。
構内の掲示板の前はすっかり人だかりができていた。人混みをかき分け、小野寺は掲示板に張り出されている合否の張り紙を見る。
「……あった」
手に持っている受験票に記載された番号と張り紙の数字を何度も確認する。見間違いなんかではない。じわじわと喜びの感情が身体からあふれてくる。試験は正直不安しかなかったけれど、無事に受かって良かった……。
ともかく連絡だ、と小野寺は人混みから抜け出すとすぐにスマートフォンを開く。しかし、最初に選んだ連絡先は、母親でも父親でもなく、松崎だった。中学の頃、初めてスマートフォンを手にした際、家族以外で最初に追加したアカウントだ。けれど、なぜか家族よりも彼女に伝えたいと思ってしまった。慌てて小野寺は画面を戻し、母親に電話をかけた。
「もしもし、母さん?」
『結果、どうだった?』
「受かってた」
『そう。じゃあ4月から一人暮らしになる訳ね』
母親からのその言葉で、一瞬小野寺の頭は真っ白になった。一人暮らし。それは当然だが地元を離れることを意味する。つまり、松崎とも別れることになる。親と離れることよりも、彼女と離れることが何よりも辛かった。通い詰めていたバッティングセンターにももう行けない。
突如、脳内にいろんな映像が流れ込んでくる。松崎にはいろんなことを教わった。打撃のコツ、守備の秘訣、その他メンタルケアなど様々。返したくても返せないくらい、彼女とあの場所には恩義と思い出がたくさん詰まっている。
あの店だけじゃない。一緒に練習したグラウンド、足しげく通った川沿いの道……数えるほどに少ないけれど、それでもあの町には松崎と一緒に過ごした時間がある。
「もしもし? 太陽? ねえ、聞いてるの?」
はっと我に返る。ごめん、と小野寺は返す。ああ、自分にとってあの人は、それだけ大きな存在だったんだ。そんなことを想いながら、小野寺は電話を切った。
帰りの電車の中、小野寺の頭の中はずっと黒いもやがかかっていた。大学に受かったのは嬉しい。だけど、だけど、それ以上に……ずっと描いていたのは、子供の頃から彼に見せてきた松崎の笑顔だった。
乗り換えの駅に降りる。小野寺は立ち止まり、鞄からスマートフォンを取り出した。開いたのは松崎の連絡先だ。通話ボタンに手を伸ばし、ピタリと彼の指が止まった。
「伝えてどうするんだ」
自嘲気味に小野寺は呟く。きっと彼女は喜んでくれる。ただ、それだけなのだ。それだけなのに、締め付けられるように心が苦しくなる。
気がついたら右手は勝手に通話ボタンを押していた。慌てて切ろうとするが、もう既に遅く、彼女の朗らかな声が聞こえる。
『もしもーし、君から電話かけてくるなんて珍しいじゃん。どうしたの?』
「あ、いや、その……」
あの図書館での一件以来彼女と会話するのも久しぶりだ。動揺が隠せず、小野寺は言葉を詰まらせてしまう。
「大学、受かったこと、松崎さんに報告しようと思って」
『すごいじゃん! おめでとう』
「どうも……」
やっぱりだ。彼女に喜ばれても、今は全然嬉しくない。
『でもちょっと遠いね。やっぱり通いは厳しそう?』
「そうですね。春からは一人暮らしになるかもです」
『そっか……ちょっと寂しくなるね』
寂しくなる。
彼女の言葉にほんの少し安堵する。やっぱりそうだよな、と共感する一方で、この現実が避けては通れないものだと知る。くしゃくしゃ、と小野寺は髪を掻き、引きつった笑みを浮かべた。電話越しで本当に良かったと思う。
「そうですね。ちょっと、寂しいです」
ホームに自分が乗る電車のアナウンスが響く。しかし小野寺の足は動かなかった。もう少し、この時間を噛みしめていたい。別に電話なんていつでもできるけど、今じゃないといけない気がした。
『大学でも野球するの?』
「多分、もうしないと思います。高校でもう燃え尽きちゃった」
『そうなんだ。なんかもったいないね』
「高校にソフトやめてマネージャーになった松崎さんには言われたくないですよ」
『あはは、それもそうだ』
電話の向こうで松崎は楽しそうに笑う。そんなやりとりもひょっとしたらもうできなくなるかもしれない。電話に距離は関係ないが、実際に離れているだけできっと心の距離も離れていってしまう気がした。
『頑張ってね。応援してる』
「はい、頑張ります」
『あ、ちゃんと私の宿題やってよね。それができるまで引っ越しは許さん』
「そんな無茶苦茶な」
それなら一生見つからないでほしいと思った。夢も、やりたいことも、ずっと見つからずにあの町で過ごしていたい。何も考えずに大学に行くくらいなら……だけどそれはできない。松崎に対する答えはもう見つかってしまったから。
「そろそろ帰るので、これで」
『気を付けてね』
通話が終わり、小野寺は近くの椅子に腰を下ろす。はあ、と重たい息が出た。
「俺、やっぱり……」
喉まで出た言葉を無理やり胸の奥に引っ込める。自覚はしたくなかった。だけど、認めざるを得ない。最寄り駅に向かう電車のアナウンスが再びホームに響き渡る。重たい腰を上げ、小野寺は電車に乗り込んだ。
家に帰ると母親はすっかり祝杯ムードで、そんな風に喜んでくれるのも少し辛くて、いつも通りを装った。嬉しいはずなのに、心から喜べない。自分の部屋に戻って、小野寺はベッドに顔を突っ伏した。
それからはもうあっという間の日々だった。進学の準備で忙しい、何をするにしてもやる気が起きない。感動的になるはずの卒業式もあまり覚えていなかった。後輩からいろいろ感謝されたような気がしているが、もはやどうでもいい。
3月になってから本当にすることがなくなった。他の同級生はこの期間にアルバイトを始めたり、免許を取得したりと有意義に春休みを過ごしていたが、スタートダッシュを出遅れてしまった小野寺にそんな猶予はもう残されていない。やるとするならば……己の心に決着をつけることだ。
「よし」
虚無感に抗い、小野寺は家を出る。あの日投げかけられた課題にケリをつけるために。
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