第19話「最後のホームラン」
30球の打ち合いが始まった。カキン、カキン、と二人分の金属音だけが響く。お互い無言だった。ヒット性の当たりが何本か出るが、ホームランまではまだ程遠い。
「ねえ、小野寺くんは私のどこが好きなの?」
10球を超えたあたりで、ボールを打ちながら松崎は叫んだ。自分の好きなところを尋ねる、それも大声でなんて、恥ずかしくて死にそうだ。しかしいつもの声量だと打球音にかき消されて聞こえない。小野寺も打ち返しながら彼女の問いに答える。
「全部です」
「そんなの、答えになってない。ずるいよ。逃げてるのと一緒じゃん」
「逃げてないです」
「じゃあ、私の中で特に一番好きなとこ挙げてみてよ」
その質問と同時に小野寺は空振った。彼女に気を取られてテンポが遅れてしまった。次は打つ。そしてちゃんと答える。小野寺はキュッと脇を締める。神経をバットの先まで行き届かせ、小野寺はバットを構えた。
ボールが来た。ど真ん中ストレート、絶好球だ。小野寺は息を吸う。
「松崎さんと一緒にいると、すごく心が安らぐんです」
そう叫び終わるのと同時に小野寺はバットを振り切る。気持ちいいくらい爽快な金属音が響き渡った。大きな当たりだ。だけど、ホームランの的にはわずかに届かない。しかし落胆している時間などない。再び小野寺はバットを構える。
その後は、お互い何も言葉を出さなかった。2人分の放物線が次々に飛んでいく。今のところ小野寺のあの打球が一番ホームランに近く、対して松崎は今のところ目立った活躍はできていない。やはりブランクの差は大きい。
すごいな、小野寺くんは。
もはや勝ち負けは松崎にとってどうでもよかった。だって、絶対勝てっこない。それにもし打ち終わってホームランが出なかったとしても、きっと彼はまたボールを追加して挑戦するだろう。ホームランが出るまで、何度も何度も。
気が付けばラスト1球だ。ここまで何もいいところがないのは先輩として面子が立たない。松崎は全身全霊をかけてバットを振る。しかしボールが当たった感触はなかった。気持ちがいいくらいの空振り。いっそ清々しい。
「ははは、やっぱ全然ダメだ」
乾いた笑みがこぼれた。
その直後だった。先程の強い当たりとは比にならないくらい大きな金属音が鳴り響いたと同時に松崎は目を見開く。視線の先にはボールがスローモーションのようにぐんぐん大きく伸びていった。打球は高く、大きく、綺麗なアーチを描いていく。これは決まった、と松崎が確信した時にはボールはもうポスンと的に当たっていた。
「マジか……」
ホームランのファンファーレが鳴り響く。だけどそれ以外の音は松崎の、そして小野寺の耳には入ってこなかった。かける言葉が出てこない。「おめでとう」だとか「すごいじゃん」だとか、そんな単純な台詞さえ思い浮かばなかった。鉄網戸を開け、松崎はすぐ近くに置かれてある長椅子に座った。
ホームランバッターはまだしばらくバッターボックスで立ち尽くしたままだ。彼にとって人生で初めての、そして最後のホームラン。きっと身体中に駆け巡る喜びは今までのどの試合よりも大きいものだろう。しかし彼は喜ぶ様子は一切見せず、打球の先をただじっと見つめるだけだった。
数分ほど待ったら、小野寺もようやく打席から出てきた。大分冷静な思考を取り戻せたけれど、まだまともに彼の顔を見れない。松崎はそっぽを向いて、コツンコツン、と長椅子を叩いた。その音を聞いた小野寺は彼女の右側に座る。
「……小野寺くんが恋人になっちゃうのか」
「嫌、ですか」
「嫌じゃないけど……よくわかんない。誰かを好きになるなんて、今までなかったから」
ましてや小野寺が自分の彼氏になるなんて、つい先ほどまでの松崎には想像もつかなかった。自分が恋人と一緒にいるビジョンだって全く見えなかったし、きっとこの先もそういうことには無縁の人生を送るものだとばかり思っていた。だけど……。
「でも……小野寺くんが恋人だったら、きっと毎日が楽しいだろうなって、今はそう思う」
微笑みながら松崎は小野寺の方を向く。やっと彼の顔を見れた。思っていたよりもずっと男前で、カッコいい。
思い返せば、最初は、可愛い弟みたいなものだった。上の兄弟はいるけど下はいなかったからなおさら。一緒に野球をやっていって、チーム以外でも教えるようになって、だんだん彼に対して家族のような情を感じるようになっていった。
小野寺が上達していくのは嬉しくて、でもいつか追い越されてしまうんじゃないか、と思うと不安で、実際追い越されてしまうと自分と全然違う世界に住んでいるんじゃないかって思うようになって、でも小野寺はそんな様子もなく昔と同じように接してくれていた。
それに、いつもは不愛想な表情を浮かべる彼だが、たまに見せる笑顔はたまらない。おそらく知らず知らずのうちに彼のそんな笑顔に惚れてしまったのだろう。
そうか……私、知らないうちに好きになっていたんだ。
ようやく自分の想いに気付くことができた。考えてみれば、隙があればずっと彼のことを思い浮かべていた気がする。ちゃんと勉強しているだろうか、あの試合のことまだ引きずっていないだろうか、やりたいことは見つかっただろうか、などなど。世話焼きという性格を省いても少し小野寺に介入しすぎた気がする。それはきっと、彼への恋心が無意識のうちに形成されたからかもしれない。
「小野寺くん」
「はい」
緊張しているのか、少し上ずんだ声で小野寺は返答する。
「私のこと好き?」
「はい、大好きです。世界中の誰よりも」
「そっか……そっかあ」
うふふ、と言葉にできないような幸せが身体中から溢れてくる。ニヤニヤが止まらず、松崎は口元を両手で覆った。そんなすごいことをどうしてさらっと言えてしまえるんだろう。こんな恥ずかしい台詞、自分なら言えない。だけど実際に言われると恥ずかしいだけ出なくて、案外心に来るものがある。
まだ幸せの放射が止まらない。思わず身体がクネクネと左右に小さく揺れる。
「ありがと、好きになってくれて。すごく嬉しい」
今までで一番晴れやかな気分だ。多分、彼とならきっと幸せになっていけるだろうな。だって、今がこんなにも幸せなのだから。
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