第14話 第三章 邂逅⑤
「ぐううう。あの女!」
耳に届く風切り音によって、かなりの高速で自らが動いているのが分かる。
フヨウは、身体の向きを変え、進行方向を見やった。
フェンスがない剥き出しのコンクリート。あれは、隣のビルの屋上である。
「あそこに落ちるわね。……受け身を取れなかったら死ぬ。――けど」
フヨウとて、幼き日から戦いに明け暮れた戦士。この程度の死地、どれほど潜ってきただろう。
迫る屋上の地面。萎縮しそうになる筋肉を意思の力で脱力させ、足から着地する。フヨウが体現せし流水劫火は、後の先の武術だ。全ての攻撃を受け流す。それがたとえ死に直結するような一撃であろうとも。
何度も転がる。しかし、衝撃を上手く逃し続け、ついにはフェンスの間際でピタリと止まった。
「あら、あんた人間の女にしてはやるじゃない」
赤毛の超越種が、天から降り立ち、拍手を送る。最新ファッションに身を固めた姿は、フヨウの目から見ても魅力的だ。ミニスカートから伸びた足、大胆に開いた胸元から覗く大きな胸。男を貶める魔の肉体がそこにあった。
「気に食わない女」
そう言い放つフヨウは、舞うような動きで拳を構え、顎をくいっと動かした。
「かかって来いって? あんたこそ生意気よ」
イレーゼは、前髪をかき上げると息を吸い、歌い始める。派手な見た目にそぐわない、その歌声は、優しくどこか懐かしい。じんわりと耳から入って心を溶かし、ギュッと魂を鷲掴む。
「う、はああああああ!」
フヨウは、気迫を振り絞って叫ぶ。これは、危険な歌だ。微睡に意識が沈み、僅かでも気を緩めようものならば、身体は睡魔の手を握るだろう。
「こ、こんな程度? 効かないって」
「フフ、アハア」
イレーゼは、腹を押さえて笑う。赤髪を派手に揺らし、余裕の表情を崩さない。フヨウは、ギリギリと歯を鳴らし、「この女、マジで」と恨み言を放つ。
「よく我慢しました。私の歌声は女に対してはあまり効かないのよね。だから、こうよ」
指が鳴る。それは不愉快な劇が始まる合図だった。
建物内に通ずるドアが開き、そこから大勢の会社員たちが飛び出してきた。普段は、己が仕事に邁進する企業戦士だったのだろう。だが、瞳から仕事に対する熱意の光は消え去り、恍惚とした様子でイレーゼに熱い視線を送っている。
イレーゼは、彼らの顎を撫でていき、甘く囁いた。
「さあ、殺してみせて。私のために」
「はい、あなたのために、死の花束を」
目には殺意が灯り、心にはイレーゼへの偽りの愛を。己が意思を奪われし、哀れなマリオネットたちは、寒空の下、屋上を駆けた。
フヨウは、目を細め「今しばらくお待ちを」とだけ呟いた。
※
「妙だな」
境は、刀で雷撃を弾きながら目を細めた。
一見、ゼウの攻撃は轟音が鳴り響く、死なる一撃だが、どこか勢いに欠ける気がする。
「そら、そら、もっと踊って見せろ。喜劇は観客を笑わせることができなければ意味がない」
境の髪の毛が逆立ち、雷撃が上から左右から、時に真後ろから迫りくる。
しかし、雷撃は発射される刹那、パチリとした音が鳴るので、予想は難しくない。閃光には刃の閃光を。本日何度目かの雷撃を、斬って捨てた。
「相変わらず、刀の冴えはなかなかのもの。しかし、お前の能力はその程度か?」
「ハ、それはこっちの台詞だ。雷だけでそろそろ僕は飽きてきた。このポンコツ超越種」
ゼウは、歯を食いしばる。
「貴様、ポンコツといったか? ――よかろう。真髄を見せてやる」
「へ、楽しみだな」
軽口を返しながら、境は周囲に意識を油断なく向けた。どこか空気が変わったような気がする。水にあらゆる色を混ぜたような感触。
――ドオオン。
派手な音。だが、雷ではない。境は死の予感に手を引かれるように、後方へ飛んだ。
「フレア」
「な!」
タッチの差で、境が先ほどまでいた空間を焔が焦がした。
(炎だと? 雷帝が?)
予期せぬ攻撃に、数瞬境の反応が遅れる。
「ウインドウ」
その隙を、風の刃が見逃さない。
「ぐう」
境の肩が脇腹が太ももが切り裂かれる。
鮮血が噴き出し、鉄臭い臭いと焼けるような痛みが境の顔を歪めた。
「お前、雷以外も使えるのか。いや、そうか」
「察したようだな。我が父ゼウスは、全知全能の存在。神雷を扱うものだが、全能であるならば他の属性も扱えるというもの。
いささか、雷よりは能力が下がるのがネックだが。お前のような未熟者の調律者を屠るくらいわけない。……フン、まさかこの程度とはな。少々高く買いかぶり過ぎていたか。このまま殺すのは簡単だが。なあ、どうだ? 俺様の下僕になるならば、生かしといてやろう。調律者の人生なぞつまらないだろう。ただひたすら定められた役割をこなすだけの人生になんの意味がある。この俺様が、お前の人生に意味をやろう」
「……確かに調律者の仕事はダリぃよ」
「ならば」
「けどな」
境は、目を閉じる。
こんな時だというのに、頭に浮かぶ苦い記憶。これはすぐにどこにでも境を放さない。
この苦い記憶がある限り、どこまで行っても境の答えは一つだ。
「僕の両親を殺した深紅の瞳を持つ超越種。あいつを殺さない限り、僕は役目を降りる気はない。そして、お前らに屈することはないだろう。――覚えておけ。大事な者が殺された痛みは、癒えない痛みだ。いつも怪我をするたびに思うよ、セピア色のあの痛みに比べれば笑い飛ばせるものだと」
頭に再生されたそれが、境にある決意を抱かせる。
調律者としての力。境はそのすべてを未だ使いこなせていない。未熟者であるがゆえに、大いなる力を扱う際は、御しきれぬリスクがある。――だが、その危険性を内包しても、なさねばならないことはある。
調節者は、静かに瞳を開けた。
ゼウの目が、興味深げに細められる。
境の瞳は墨を垂らしたような黒だ。しかし、今は朧げな金と銀のオッドアイに変じている。
「貴様、その瞳はなんだ?」
「……さあな」
気を抜けば、瞳から力が零れて暴走してしまいそうだった。ミクロの穴へか細い糸を通すような無茶な精密さを、境は要求されている。ふいによぎるフヨウの顔。境は心の中で、愛おしく彼女の頭に触れた。
頼む、恐ろしき僕の力よ。暴走すれば恐らく僕の身体は砕けるだろう。だが、否。それだけは断る。僕は、大事な人を残して消えたりはしない。
「行くぞ、超越種!」
想いを迸らせ、境の身体は躍動する。
【調律の瞳】
彼が調律者たるゆえんの能力。しかし、まだ不完全。なればこそ、この数秒に死力を尽くさなければならない。
「妙な力を隠し持っていたようだな。本当に貴様は忌々しいぞ。調律者ぁあああ」
空間に迸るゼウの焔。それを境は鋭く切り捨て、駆けた。ゼウは、手のひらを縦横無尽に動かし、次々と己が権能を振るう。
数多の水の弾丸が天から降り注ぐ。
岩が槍と成って地面から突きを放つ。
風の刃が不可視の攻撃として襲い掛かる。
未知なる攻撃を、境は悉く切り捨て躱す。
血が頬から流れ、鋭い激痛が脇腹に走る。だが、それはいつものこと。構うことはない。
違うとすれば、ここからだ。
「【調律の右】よ、【調律の左】よ。正常に世界を回したければ、過去の遺物を排除する力を僕に寄こせ。その力を使ってやるんだ。せいぜい役立ってくれ」
朧の金と銀が、ゼウを捉える。
咄嗟にゼウは、手をかざすが
「何だと?」
何も起きず、
「くそ、な!」
右へ飛ぼうとして失敗した。
無様に転ぶゼウの眼前に、死神の刃が迫る。
「う、ううおおおお」
刃がゼウの首筋に僅かに触れる。
――勝った。絶対の勝利を境は確信した。さあ、勝利の美酒を味わおうか。
しかし、地面から伸びた木が、境の手を叩く。
「これは!」
「……助かったか。ぬううう、境、狭間 境。貴様、覚えろ、絶対に。貴様はこのつまらない娯楽施設の屋上で、俺に勝った。俺の矜持を踏みにじった。貴様は敵だ。それは、超越種と調律者という立場からくる敵対だけでない。俺とお前という存在が、すでに相容れないということだ」
悔しさに歪むゼウの顔。逃がしてなるものか。その顔を死に顔へと変えてやる。
境は刀を握り直し、大上段に構えた。しかし、コンマ数秒、ゼウの行動が早かった。
まるでスタングレネードだ。ゼウの全身から強烈な光が奔った。
境は咄嗟に顔を覆い、刀を振るったが感触はない。
目を開けた時、すでにゼウの姿はない。地面には、焦げた跡が残り、煙が紫煙のように揺らめいていた。
※
――ギイ、と錆にまみれたドアが開く。
境が、そのビルの屋上に足を踏み入れた時に感じたのは、ムワッとした熱気と血の臭いだった。
「これは派手にやったな」
曇天が去り、本来の景色を取り戻した空からは、夕日の最後の輝きが斜陽となって降り注ぐ。
茜色の空は分け隔てなく、戦場を照らしていた。
「よう、無事だったか」
「まあね」
口から血を流す者、身体をダイナミックに捻じっている者など、見るも無残なスーツ姿の男たちが横たわるが、誰も死んではいないようだ。
フヨウは、その死屍累々の景色の中で、女王のように座していた。
「敵は?」
「逃げたわ。たぶんだけど、あいつら偵察が目的だったと思う」
「だろうな。今思えば、こちらの能力を見極めたかったみたいだ。ちょっと熱くなって本気出してしまったがまずかったかな」
「馬鹿、と言いたいところだけど、私もよ。といっても、私の場合は装備が不十分だったから、現状での本気って意味だけど。あなたは目を使った?」
「ああ……おかげでフラフラだ。今日のところは帰ろう」
「あら、ありがとう」
境の手を握り立ち上がったフヨウは、少しだけ嬉しそうだった。
「何だよ?」
「私の敵が分かったわ。ファーストクラス、イレーゼ。彼女は、戦闘能力が優れているよりも、能力が優れている類のファーストだわ。私でもやりようはある」
「へ、お前、自分の表情わかってる?」
「え、不細工になってる?」
サッと表情を手で隠すフヨウ。境は、首を振りニヤリと笑った。
「いや、良い顔してるぜ?」
「本当? なら良かった」
手を払いのけた後に現れたフヨウの顔は、獲物を前にした狩人の笑みを浮かべていた。
冷酷で恐ろしく、それだけに頼もしい。
「でも、困ったわ。もっと慎重に動くと思っていたのに、敵のボスが直接乗り込んでくるなんて予想外よ」
「ああ、僕らは認識を改めないといけない。あいつらはただやみくもに僕らへ戦いを挑んでいるわけじゃない。これまでの敵は烏合の衆ばかりだった。
だが、ゼウ・リベは統率のとれた戦闘集団だと考えるべきだろう。明確に僕らを倒すビジョンがある。ならば、こちらも本腰を入れて対処しなければならない」
「具体的には?」
「僕らはゼウ・リベに対する情報が圧倒的に不足している。拠点を見つけて情報収集なんて、時間のかかる方法を選択していては勝てない可能性がある。敵は、僕ら人間を使って戦力を増強している。敵か僕らか、両者の勝因を分つは時間だ。ならばこそ、嫌なこともこなさないといけない」
フヨウは、目をぱちくりとした。
「あら、意外。彼女を頼るんだ」
「この際、仕方がないだろう。気に食わないけどね」
境は、渾身のため息を吐く。日は落ち、気温が下がった寒空の下、吐き出された息は白く煙って、風に飛んでいった。
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