第15話 第四章 安らぎに微睡む者と戦場に酔いしれる者①

「ああ、クソクソクソ」


 ゼウは、ソファを蹴り飛ばした。


 ここは、以前ゼウたちがいた一室である。


 ウールの絨毯に、透明のテーブル、茶色いソファ。いつもゼウの憩いの場所として献身的に尽くしてきたソファは、見るも無残にひっくり返っていた。


「怒っているのね、あなたも。私も同じ気持ち。あの小娘が憎い。私のマリオネットを倒し、私さえも倒そうとしたあの不細工がぁ! この、この」


 イレーゼは、顔を引きつらせ、はしたなく下着が見えるのも構わずに、ひたすらにソファを蹴り飛ばした。何度も何度も執拗に繰り返される八つ当たり。それを眺めていたゼウは、徐々に落ち着きを取り戻していった。


「イレーゼ、その辺にしておけ」


「……そう、ね」


「本来の目的である敵情視察は終わった。狭間 境……恐ろしい力を持っている。俺の予想が正しければ、刀よりもあっちが厄介だ。調律者、とはよく言ったものだ。超越種の特権を根こそぎ剥ぎ取る暴挙だ」


「ほう、あなた様がそれほどやられるとは、此度の敵はなかなかに骨があるご様子」


 凛とした鈴のような女の声。これはイレーゼの声ではない。


 薄暗い部屋の四隅から、するりと無駄のない所作で女は進み出た。


 スラリとした体形で、長い黒髪を後ろに束ね流している。中性的な細い顔立ち、男物のブラックスーツ。それらのせいで、美しい男性に見えなくもないが、スーツ越しでも伺われる女性的なラインが明確に女であることを肯定していた。


 イレーゼは、その女を睨み、激しく歯を食いしばる。


「あんたに用はないわ、消えなさい、役立たず。今回の戦い、ずっと傍観者でいたわね」


「確かにいつもの小競り合いだと思って、静観していたとも。だが、此度の戦いは加わろう」


「ほう、ひまわり。それは、どういった風の吹きまわしだ?」


 興味深げにゼウは、ひまわりを眺めた。彼は、自らの背後で悔しそうに佇むイレーゼの姿に気付かない。


 ひまわりは、チラリとイレーゼを盗み見て、そっとため息を吐く。


「どうした?」


「いや、どうでもいいことさ。僕が戦いに加わる理由だったね。なに、簡単なことさ。僕は強者を求める戦人ってだけのこと。――ゼウ、イレーゼの両名は、卓越した存在だ。その両名でも倒せない人間は興味深い」


 楽しげにひまわりは笑う。何度も拳を握っては開きを繰り返し、まだ見ぬ敵へ想いを馳せた。


 ひまわりは、背を向け、靴音を鳴らし離れていく。


「行くのか」


「ああ、ゆっくり休むと良い。寝床と食べ物の用意はしてある。イレーゼと仲良くね」


「クク、妙なところが利く。面白い女だ」


 ゼウは不機嫌さが嘘だったかのように、にこやかに笑った。


「なぜ、なぜなの? どうしてこんなに尽くす私より、あの女へ笑いかけるの?」


「ん? どうしたイレーゼ」


「い、いえ」


 イレーゼは、ゼウに背を向けると、また歯を食いしばった。口から血が流れ、彼女の真っ赤な唇に更なる朱が加わる。


 ゼウは、イレーゼの様子に気付いた様子はなく、「お前も休め」とだけ声をかけ去っていく。


 イレーゼはコクリと頷き、いつまでもひまわりが去っていった通路を睨んでいた。 


 ※


 真昼の空から少しずつ雪が降っている。これからもっと本降りになると、予報では言っていた。


 境たちを乗せた古いビンテージセダンは、雪を切り裂き、街の中央を走っている国道を突き進む。エコカーがチラホラと増え始めた現代では、ゴーンの古い車は目立つ。だからだろう、信号待ちしていた時に、歩道を歩いていた子供が物珍しそうに眺めていた。


 境は、ヒラヒラとその子供に手を振り、「子供はいい気なもんだよな」とぼやく。隣に座っていたフヨウが、クスクスと笑い、ゴーンが肩をすくめる。


 車は国道から小道に入り、やがて車一台分しか駐車できない小さな駐車場に停まった。


「坊ちゃん、いきやしょうか」


 ゴーンの一言に、だるそうに返事をした境は、フヨウと一緒に車の外へ降り立った。


 そこは、とある孤児院の裏手にある駐車場だ。


 住宅と住宅の間に挟まるようにある小さな孤児院。


 ぐるりと建物の前に回ると、小さな庭に子供たちが走り回っていた。先ほど道で見かけた人間の子供とそう変わりない姿。だが、境は彼らが超越種だと知っている。


 境の表情が僅かに硬くなるが、それを振り払うように柔らかな笑みを浮かべ、声をかけた。


「こんにちはー、先生いるかな?」


「あ、こんにちは! お兄さん」


「馬鹿、こいつは調律者だ。俺たちの敵だぞ」


「あー、駄目なんだ。差別的な発言は、ミラ先生にお尻叩かれるよ」


 境は、めんどくせぇ、とため息交じりに言葉を吐く。そもそも子供は好きではない。彼は手をブンブンと振り回して、子供たちを退散させると、インターホンを押した。


 ――テロリン、とちょっと変わった音が鳴り、遅れて「はーい」と間の抜けた声が聞こえてくる。


「どちら様?」


「白々しい。あんたの聴覚なら呼び出す前から誰が来たかなんてわかりきったことだろう?」


 ウフフ、とした笑みの後に、ドアが開く。そこには、柔らかな瞳とふくよかな胸、緩く三つ編みにした金髪の女性が立っていた。


「あら、いらっしゃい。ゴーン君とフヨウさんもいるのね。ささ、どうぞ」


 女性は、境たちを中へと招き入れると、客間のテーブル席へと案内した。


「お茶とお菓子持ってくるから座って待っててください」


「いえ、お構いなく。僕らはすぐいなくなるんで。ほんと結構です。聞いてる?」


 女性は、台所へ引っ込むと、お湯を沸かし始めた。客間からでもその台所はよく見える。女性は、ベージュのタートルネックにピンクのエプロン、白のロングスカートという出で立ちだ。


 おもてなしをするのが楽しいのか、女性は鼻歌交じりにチィ―カップを並べる。


 境は、視線を台所から外へと向けた。暖かな室内と異なり、外は粉雪が降っていて寒々しい。まだ身体に冷たさが残留している境は、思わず二の腕をさすったが、外で遊ぶ子供たちには寒さなど意味をなさないらしい。無邪気な声ではしゃぎまわり、雪と戯れている。


 視線を今度は、客間の壁に向ける。壁には子供たちが書いたであろう誰かの似顔絵が展示されていた。


 平和、という文字がしっくりとくる場所。どこに危険があるというのだろう。だが、境たちの顔は、緊張に引き締まり、汗が額から流れていた。


「はーい、お待たせしました」


 ビクッとフヨウの肩が動いた。


 台所にいたエプロン姿の女性は、語尾にハートを付きそうな声音で「さあ、美味しいですよ」と言いながら、テキパキとティーカップとお茶菓子をテーブルへ並べていく。


 湯気が立つ紅茶からは、少し甘くフルーティーな匂いがした。冬にはありがたい飲み物だったが、誰一人として口を付けない。


 境は自らの隣に腰掛けたハルエに、感情を感じさせない言葉で問いかけた。


「ミラ・ハルエ。単刀直入に言う。ゼウ・リベの情報を僕たちに寄こせ」


「藪から棒に何ですの? えい」


「もがあ」


 麩菓子が、境の口にぶち込まれる。甘く優しい味が広がると同時に、かなりの量を押し込められたので呼吸がしづらい。バタバタと境の手足が苦しそうに動く。だが、ミラは喜んでいると勘違いしたのか、拍手を送る。


「の、のおも」


「はーい、お茶でーす」


「熱あああああ」


 口に流し込まれた紅茶は、芳醇で美味しく、そして火傷するほど熱かった。


 ガタン、と境は派手に椅子からずれ落ちる。


 フヨウはやれやれと頭を振り、ゴーンは苦笑に顔を歪めた。


「あのー、ミラさん。うちの坊ちゃんをいじめるのはその辺で」


「まあ、いじめるだなんてとんでもない。おもてなしをしてるんですよ」


「……この人これで悪気がないのが困るのよね」


「あら、フヨウさんどうしました?」


「いえ、なにも。で、どうなんです?」


 ミラは、首を振った。


「ごめんなさい。お教えできません」


「それは、調律者に対する敵対行動になると、理解してのことか?」


 境は涙目になりながら、そう警告した。威厳も何もあったものではないが、境は仁王立ちになると、ミラを威嚇するように見下ろす。


 椅子に座ったままミラは俯いた。さらり、と金の前髪が彼女の目元を隠す。口元は口角が下がり、ギュッと拳が握られた。


「敵対など、悲しいことは言わないでください。ただ、私は中立でありたいだけなのです」


「中立だと? どうだかな。君が僕らの情報を売ってないという証拠はない」


「売っていません。私は確かに超越種ですが、別にあなたたちと敵対する気はありません。ほら、外をご覧になって」


 雪が降りしきる中、先ほどと同じように子供たちは寒さを蹴散らす明るさと熱心さで、遊びまわる。その姿は、どこにでもいる子供の姿であった。


「あの子たちは、超越種です。確かに常人よりも凄まじい能力を持っていますが、誰かを傷つけたことはありません。超越種であっても、ゼウたちのように争う者もいれば、平和に過ごそうと心がける者もいます。


 それは、人間とどう違うのでしょうか? 人間だって、銃を持って殺戮を繰り広げる者もいれば、争いを知らずに過ごす者もいるでしょう。危険かどうかは、持って生まれた力ではなく、それをどう扱うかという心で決まります」


「そんなことは綺麗ごとだ」


 冷えた声で、境はそう言い放った。


 ミラは、胸に手を当て、どこか苦しそうに言う。


「あなたのご両親のことは知っています。そのような非道を行った者は、決して許してはなりません。……許してはなりませんが、狂気に飲まれる超越種がいるのは、ある意味仕方ないことでもあります。


私たち超越種は、故郷のない難民なんです。この新しい世界で自らの居場所を勝ち取るために、ゼウたちのように暴力を訴える者もいる。私は正しいとは思えませんが、同時にその気持ちは痛いほど分かる。


 だからこそ、前世界で竜の神として崇められた私の力をどの陣営にも貸さず、あくまで自営のみで使うことにしているのです。脅すようで悪いですが、ゼウたちの情報は渡さない。その結果、敵対するというならば、私は己の力を全て開放して、あの子たちを守るために、あなた方を討ちます」


 ゴクリ、と誰かの喉が鳴った。


 ゴーンは、額の汗を拭い、それから真摯な瞳で訴える。


「そういう考えをお持ちならば、少しくらいは協力していただきたい。知っていますかな? ゼウたちがいまやっていることを」


 首を傾げるミラに、ゴーンは説明する。彼らは今、汚染兵なる絶望を生み出していると。


「そ、んな。それは、命を軽んじる最低な行いです。性根は真っすぐな子だと思っていたのに、いや、真っすぐだったからこそ、過ちに手を伸ばしてしまったのね」


「へ、何が真っすぐだ。アイツの攻撃なんて、どれも性根が曲がったもんばっかりだ。性根が真っすぐじゃないから、雷撃だってグネグネ曲がっちまうんだ。アホなことは言わないでほしいね」


 境は、舌打ちをした。汚染兵のこと、フヨウのこと。ゼウと関わって起きた出来事が、境の頭を掠めていく。あんな存在が、真っすぐだっただと? 認めない。ミラの発言は、まるで理解ができない。


 境は怒りを隠さず、ミラを睨んだ。しかし、彼女は何を考えてのことか、女神の如く柔らかく慈しむように微笑んだ。


「辛くても、あなたは立ち向かえるのですね。ああ、あの子も、あなたほど強い心があれば、どんなに良かったでしょう。……まあ、仕方ありません。もう、引き返せない茨の道へ足を踏み込んだのならば、擁護しても栓無きこと。ならば、少しばかり情報をお渡ししましょう。ただし、ゼウもあまり私とかかわりたがらないので、大した情報はありません」


「それで構いません。ご協力ありがとうございます。ほら、境もお礼」


「あざーす。あた!」


「すいません」


「いいえ、仲が良いことは素晴らしいですわ」


 そう楽しげに言った彼女は、表情を引き締め語りだす。ゼウ・リベの規模やゼウたち四人の幹部の能力、それから最近どうも動きが慌ただしいことなどを。


 話を聞き終えた頃には、外の雪は本降りになり、街は漂白されたように白に塗りつぶされていた。


「じゃあな。痛い、すいません。お邪魔しました」


 脇腹を押さえた境は、二人を伴って孤児院を後にした。


 雪は地面を覆いつくし、このままでは足首さえも埋まるほど降り積もるだろう。


 境たちは、駐車場に停めたセダンの前で、首を傾げた。ゴーンの愛車のタイヤは、スノータイヤではあるが、しばらく交換していない。タイヤの表面は、すり減っており、雪が積もった道路を走れば、どこまでも滑っていきそうだ。


「なあ、これ帰れるのか?」


「むう、スリップが怖いですな。ちょっと、タイヤチェーンを装着する時間をください。ほら、お小遣い。フヨウと一緒に、コーヒーでも飲んできなさい」


 五千円札が、風に乗ってはためく。境は、遠慮なくゴーンから金を受け取り、その場を任せた。


「ちょっと、手伝ったら」


「そうしたいのはやまやまだが、車は門外漢だ。いるとかえって邪魔になる。……それにだるい」


 最後の台詞は小声だった。


 ザクザクと雪を踏みしめながら、近場にあるカフェに向かう。


 吐く息は白く、骨身まで染みる寒さは、ダウンジャケットを着ていても防げそうにない。


 境は、ポケットに手を突っ込み、肩をすくめながら思考に没頭する。


 人間を攫って兵士にする、といった手段を取っている以上、ゼウ・リベの規模は大きくないと踏んでいたがその通りだった。


 ゼウ・リベの構成員は、いまや三十人にも満たないらしい。そして、それらの大部分がサードクラスということから考えても、主戦力は幹部四人のファーストクラスのみと判断しても良いだろう。


 その気になれば、日本中の警察や自衛隊も動かせる調律者側に比べると、消えかけのろうそくのように頼りない。


 それでも最近動きが活発になっているのは、やけくそなのか、それとも勝つ可能性があるからなのか。


 境は、風が通り過ぎるのを待ってからフヨウへ問いかけた。


「……なあ、ゼウ・リベは僕らに勝つつもりだと思うか」


「当然でしょ。でないと、あんな強気に動けないわ」


「だよな。確かに幹部四人の能力は強力だ。全知全能の神ゼウスの血を引くゼウとセイレーンの娘イレーゼは、もちろんのこと、残り二人も厄介だぞ。恐らくだが、僕がゼウに止めを刺すのを阻止したのは、ダイダラボッチの化身だ。自然を自在に操り、自らに有利の環境を作れる。おまけに、巨大化もできると来たもんだ」


「そうね。常に私たちに対してアドバンテージを取れるのは最悪ね。おまけにもう一人も最悪よ。まさか、アマテラスの超越種がいるなんて」


 アマテラスは、太陽の神であり、女神であるといわれている。天の岩戸に引きこもった神として知られる一方で、男装し弓を持って戦った勇ましい神だ。


「まったく、冗談じゃねえぞ。めんどくさいランキングの順位が変動しそうだ」


「そのランキング意味あるの?」


「そりゃそうだ。ランキング上位ほど、僕のやる気がなくなる」


「……ランキング下位でもやる気ないでしょ」


 まったく、と呟いたフヨウは、目を擦った。


 眼前に、何かが現れた気がしたからだ。雪が風に揺れ惑い、視界を覆い隠していたが、やがて人の姿があらわになった。

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