第10話 第三章 邂逅①
今宵は月が綺麗だ。
ゼウ・リベのリーダー、ゼウは一人そう呟き、真っ赤なワインを飲み干した。
細やかな刺繍が施されたウールの絨毯、その上に透明のテーブルと茶色いソファが設置されており、ソファに対面する壁は一面がガラス張りである。
ソファに座るゼウは、夜空から視線を下に降ろしていき、街を眺めた。
街は夜の闇を否定するように、眩く光を放ち、電気を消耗している。ゼウは、苛立ちに目を細めた。
「夜くらい大人しくしておけば良いものを、あれだけ光を照らし活動するとは。夜を制し、神にでもなったつもりか人間ども。あまりに不敬。雷は俺のものだ」
勢いよくソファから立ち上がり、ロングコートを翻しながらガラスへと歩み寄る。
人間は嫌いだ。不完全で弱弱しく、そのくせどんな生き物よりも優れているという不遜さが、酷くカンに触る。
――なぜ父は人間なんかを見初めたのだろう。もし神同士の間に生まれていれば、完全なる神でいられたのに。
答えは見つからず、父は答えない。ゼウは、呻くような声と共に、拳をガラスに叩きこんだ。鋭い痛みが走り、金と赤が入り混じった血が、ウールの絨毯にポタリポタリと垂れた。
「あーら、ゼウ様ったらまた怒ってる」
甘い蕩けるような声。それは、ゼウの背後から聞こえた。
ゼウが後ろを振り返ると、長身の美女が立っている。
鮮やかな赤い長髪に、厚ぼったい唇、猫のような瞳。長い毛皮のロングコートに覆われた体に贅肉はなく、露出の激しい服装のせいで、大きな胸元と肉付きのよい太ももが、惜しげもなくあらわになっている。
「戻ったか」
「ええ、残念な報告しなくちゃ。拠点の一つが奴らに見つかった。あそこは大した情報がない拠点だったけど、データを破棄する前にあの子たち殺されちゃったから、多少は情報が洩れるわ」
「……クロ、とか言ったか。使えん男だ。イレーゼ、どうせ男をたぶらかすなら、もっと優秀な奴を見つけてこい」
「そんなこといったって簡単じゃないわよ。フフ」
イレーゼは、ゼウの胸元に飛び込み、フワリと背中に手を回した。
「ねえ、私頑張ってるでしょ? ご褒美ちょうだい」
「そうだな、どれがほしい。金か? 宝石か?」
「んもう。私が欲しいものが何か分かってるくせに」
イレーゼが目を瞑る。
だが、ゼウは彼女の唇に手を置き、そっと距離を取る。
「どうして?」
「男を堕落させる魔性の女よ。俺には成すことがある。お前に魅了されて、腑抜けになっては事を仕損じる」
イレーゼは、ダンと地面を踏み鳴らし、せっかくの麗しい赤髪をぐしゃぐしゃと両手でかき乱す。
「私は、あなたに対してそんなことはしない。他の男は遊びだけど、あなただけは、あなた様だけは違います」
「フン、どうだかな。とりあず、これで満足しておけ」
ゼウがイレーゼに一歩だけ近づき、額にキスをした。
その美貌によって数多の男を虜にした女は、ただそれだけのふれあいで、恍惚とした表情となった。宝石も金も、どれだけの色香を放つ男だろうが、もはやイレーゼにとって路傍の石に過ぎない。
彼女は恭しく、己が愛する男に頭を垂れた。
「……最高だわ。こんな遊びみたいなものでも、私の心は発火する」
「そうか。さて、動きを速める必要があるな」
「人間兵の増産を急がせるように指示しておくわ」
「いや、それだけでは足らんな。どれだけ数を増やしても狭間 境がいる限り、負けてしまうだろう。業腹だが、真っ向勝負では話にならん」
「なら、からめ手で行きましょう。私の歌で骨の髄まで蕩けさせてあげるわ」
「いや、それさえも効かないだろう。多少は効果があるかもしれんが、調律者とは俺たち超越種の天敵だ。あいつは体質上、いや骨の髄から魂の奥底に至るまで、俺らと戦えるようにできている」
「んもう、否定してばかり。いつからそんな情けない――」
「イレーゼ」
ゼウは凄まじい速度でイレーゼの首を掴み、指を食いこませた。
「が、ああ」
「俺様が何だって? 俺は偉大なるゼウスの血を引く男。人ごときに弱気になるなどありえん。そうだな?」
「は、はい。申し訳、ございません」
指が離れ、激しくイレーゼは咳をする。ゼウは彼女の眼前にしゃがみ込むと、そっと抱きしめた。
「済まなかったな。つい、カッとなってしまった」
「い、いいえ、違うの。私が悪かったわ」
イレーゼは、赤く顔を染め上げ、胸を上下させながら息を吸って吐く。その顔には、喜びの笑みが広がり、ゼウの背中に手を回す。
「俺にだって考えはある。イレーゼ、戦いとは情報だ。情報を多く制した方が勝つ。例の計画が成功したとしても、調律者の力を見誤れば敗北するかもしれん。ならばこそ、敵情視察をする必要がある。ただ、普通にやっても面白くないからな。楽しくやろうではないか」
「?」
ポカン、とするイレーゼの頭をゼウは優しい手つきで撫でた。
※
「ふざけんじゃねえぞ」
境の叫びが、会議室に響く。ブラウンの壁に囲まれた広い部屋の中央には、長方形の丸みを帯びたテーブルが設置されている。そのテーブルの席に、境と御三家の各代表が座り、一つの議題について話し合っていた。
「坊ちゃん……」
悲しさを含んだ声音で、主の名前を呼ぶゴーン。そのすぐ横で、千波家当主、千波 千尋は、くしゃくしゃの顔で笑った。
「ホホ、剛殿の決断は仕方なかろう。よいですか境様。我らの役目は、過去の存在を消し、現世界がきちんと滅びを迎える時まで見守り、次の世界に託すこと。そんな我らが、過去の世界に蔓延った神の血を体内に注入されたとあっては、恥であり穢れでありますじゃ」
「知ったことかよ。神の血は僕の刀で除去した。それは、検査によって証明されたはず。なのに、フヨウを処刑するだと。お前、それでもフヨウのオヤジかよ」
境は、憤怒の焔を宿した瞳で、灯火 剛を睨む。
人外の者共を震えさせる調律者の怒りは凄まじい。されど、相対する男は、固い表情をより強固に硬め、およそ感情の灯っていない瞳で境の姿を映した。
「……我ら御三家は、あなた様お一人のために存在する。世界に数十人しかいない調律者。そのお一人であるあなた様が、ご活躍できるように身を捧ぐが我ら御三家の使命なれば。そんな我らにとって、親子の情など無用。
古き神や異形なる者どもを断罪する我らが、神の血に侵されるなど一時であったとしてもあってはならぬ。なればこそ、死罪こそが相応しい。安心なされよ、フヨウの代わりはいくらでもおります」
「そんなことを言ってるんじゃない」
派手な音が鳴った。テーブルはぐしゃりとへし折れ、境の拳が宙で震えている。
「お前は、父親失格だ。そして、人間としても失格だ。……調律者側の考えとして正しい面はあるかもしれないが」
「ホホ、境様、分かっておるじゃありませんか。境様が良くとも、御三家の中には敵に汚染されたフヨウに対し、敵意を抱く者がおります。それほどまでに、我らと超越種との溝は深い。それは、超越種を一度は信じ、ご両親を死なせてしまったあなた様ご自身が痛感していることでは?」
千尋は、腰の曲がった背中を反らせ、数本しか残っていない歯を見せびらかすように大声で笑った。
カッと、頭に血が上った境は、老婆の顔面を殴り飛ばそうとする。――だが、ゴーンがスキットルに入ったコーラを彼女の顔面にぶちまける方が速かった。
「これは、一体なにを?」
「千尋のばあ様よ、それは言っちゃならねえな。たとえ御三家の長とはいえ、あまりにも頭に乗り過ぎだ。
皆、頭を冷やせ。ようはだ、このままフヨウを許してしまえば、納得いかねえ連中と内輪もめになってしまうってことだろ。だったら、話は簡単だ。フヨウが、今回の失態のことをチャラにするほどの手柄をあげれば良いんだろうが」
甘いコーラの匂いが満ちた室内に、野太い笑い声が響き渡った。
「冗談も休み休み言ってもらおう。ゴーン、貴様はいつもそうだ。良い年して夢みたいなことばかり言う」
「ハ、だが夢ばかりのことを言って達成したことは多かろう。ワシはな、口だけの男じゃねえぜ」
「……ぬ。ああ、確かにそうだ。では、どんな功績を残せば、フヨウが助かる道があるというのだ?」
「それは、これから考える」
「――いいや、ゴーン。考えるまでもないよ。聞け、お前ら。当主代行として発言する。フヨウにファーストクラスの単独撃破を命じる」
境が漏らしたその呟きは、御三家の面々をギョッとさせた。
それもそのはず。超越種は、強さや能力に応じてファーストからフォースまでのクラスがある。ファーストクラスは、ただ一個体で街一つ、もしくはそれ以上の規模を破壊できる存在だ。
調律者であっても、倒すのは容易ではなく、ましてや調律者でもない人間が倒すなど、言語道断といえた。
「坊ちゃん、提案しといてなんですが、それはいくらなんでも、無茶ってもんでさ。ファーストクラスを単独で倒せるのは坊ちゃんだけ。ワシらだと、装備を整えた上で複数人でかからなきゃ討伐できやしませんって」
「いや、フヨウならいける。ファーストクラスって言っても、戦闘能力が高いとは限らない。能力が厄介なだけで戦闘能力があんまりな奴であれば、フヨウでも十分に打倒可能だ」
静まり返る会議室。沈黙を破るは、千尋と剛の忍び笑いだ。
「いやはや、境様。うちの娘がそれほどの傑物とは思わなかったですぞ」
「ホホ、本当に笑わせるのが上手ですじゃ。境様はどうやら、ご自分ができることは、他の者もできると思ってらっしゃる。まだまだ夢見がちな子供じゃのう」
「笑いごとじゃねえよ。僕は本気だ」
境は、椅子を蹴り飛ばし、ジロリと笑う二人を睨んだ。
「お前らは、間違ってると思う。できないできないって決めつけんなよ。お前らは大人だろ。大人だからこそ、若者の可能性を信じろ。できないことができるようになって、僕ら人間は発展してきたんだ。
夢見がちな子供、大いに結構。そうそうに見切りをつけて限界に挑みすらしない大人に、発展を語る資格はない。限界は、あがいて全力で挑むヤツだけが突破できる。お前らはそこで見てろよ。フヨウがお前ら程度じゃ成し遂げない偉大な功績を達成するのをさ。ってわけで、フヨウは僕が監督することを条件に、拘束・監視の類はなしで任務にあたらせる。いいね?」
境は、ヒラヒラと手を振って会議室を後にした。
あっけに取られた様子で、千尋と剛は彼を見送る。
ゴーンは膝を叩いて笑い、スキットルの蓋を開けた。
「うわ!」
「あ、コラ、ゴーン!」
スキットルが空になるまで、コーラを二人に浴びせかけたゴーンは二人を交互に指差しこう言った。
「コーラでも飲んで、子供の心を思い出せ。賢しいだけで何もしない大人なぞ、老害と呼ばれるだけだ」
ダハハ、と豪快にゴーンは笑う。
剛が肩を震わせながらゆらりと立ち上がるが、天を仰ぎ笑う男は気付かない。
「ゴーン、死すべし」
「は? し、しまったぁ!」
強烈な音が鳴った後、絶叫が響く。
廊下に出ていた境の耳にも届いたが、「トイレでも詰まったのか?」と意に介さず彼はフヨウの部屋へ向かった。
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