第8話 第二章 潜入④
暗闇が満ちた空間を抜けると、パッと明かりが視界に飛び込んできた。
フヨウは手で光を遮り、目が慣れるのを待つ。
ツンとした刺激臭に端正な顔が歪み、何がこの臭いを発しているのか知りたくてフヨウは目を開けた。
「う!」
ビルの一室らしき場所は、更衣室なのだろう。壁を覆い隠すように、灰色のロッカーがグルリと並んでいる。
フヨウは、視界を周囲に走らせ、ピタリと一点を見つめたまま固まった。
どうやら臭いは、地面に横たわる異物から発せられているようだ。
蛍光灯の明かりを、テラテラとした体液が鈍く反射している。
「ツギハギ」
意図せず飛び出したその言葉は、得てして妙であった。
ライオンの身体、ワニの頭、そして背中から生えたイカの触手。生き物として真っ当な進化を辿った存在には思えぬ異彩。
フヨウは、震えそうになった手を握り締め、隣に現れた男に静かに問うた。
「これは、何かしら?」
「ああ、これ? ごめんね気持ち悪くて。君の前にさ、僕が口説き落とした人間の女が三人いたのさ。そいつらに、ゼウスの血を引くゼウ様の血とキメラの遺伝子情報を入れておいたの。すぐに変異するだろうな、と思ったけど結果は上々」
「何のためにこんなことを?」
「意のままに操れる人間の兵士が欲しいからだよ。でも、人間ってそのままじゃ弱いじゃない。だから、超越種の血を使って強化しようって計画。今のところ上手くいってるんだ。
あ、そいつには近づかないで。強化をした後はイレーゼ様の歌で洗脳するんだけど、こいつはまだだからさ」
男はフヨウを背後から優しく抱きしめる。
「ごめんね? 怖いだろう。イカれているけどさ、こうでもしないと調律者には勝てない。正直、この街担当の調律者である狭間 境はかなり強い。加えて、その配下である御三家の者どもも厄介でさ」
ドクン、とフヨウの心臓が高鳴った。当然、慈しむような抱擁をされているからではない。努めて冷静に、荒くなりそうな呼吸を整えながら、男から離れる。
「そうね。昨日の奴らは強かったわ」
「そうだろう、奴らは手ごわい。あ、俺としたことがこのうっかりさんが。そういえば名乗ってなかったね。俺はクロと呼ばれている。君は?」
「私は、ヨウリ。化け狸よ」
「へえ、それって妖怪だよね。世界の崩壊から生き残れたってことは、かなり名の知れた妖怪だったんだ。お互い、力があって良かった良かった」
そうね、と生返事をするフヨウ。
クロの顔には、フヨウを疑うような様子は見られない。
(まだ、ばれてない?)
確証はないが、慌てて行動するべきではないだろう。フヨウは、滲む汗を拭い、部屋の外を顎で示した。
「あ、出たいよね。こいつら強いんだろうけど、くっさ。気持ちわる。向こうでコーヒーでも飲もうか」
「そうね。……他の仲間は?」
「そろそろ帰ってくる頃だと思う。ええっと、そうだな。……皆に紹介したら、今日の所はゆっくり休んでくれ。このビルは、表向き配達業者を偽装しているから、怪しまれる心配はない。安全なセーフルームさ」
おいで、とクロがフヨウを部屋の外へと誘うために前を向く。その一瞬のスキをついて、フヨウはスマホを操作した。
「ん、どうしたの?」
「ううん。なんでもない」
フヨウは、ゆっくりと息を吐き、ギュッとスマホを握りしめた。頭に思い浮かんだのは、境のだらけた顔だった。
彼女らが部屋を出た瞬間、ピクリとキメラの体が脈動する。
※
「ん?」
ズボンのポケットに仕舞ったスマホが、二度振動し沈黙する。連絡を待っていた境は、はやる気持ちのままスマホを取り出し、画面を見た。
――着信、フヨウ。その表示が何よりも嬉しい。
「良かった生きていた。ん、二回鳴らして切られたってことは……。敵が大勢いる状態か」
「もしくはそろそろ敵でいっぱいになるか。潜入がバレたわけではないでしょうから、動くタイミングではありませんな」
左にいたゴーンに、境は深く頷く。
空はまだ真昼になったばかりで、突き抜けるほど青い空が広がっている。
境たちは、ビル同士の隙間にある路地から眼前にそびえる高層ビルを眺めていた。
「ここら一帯は、会社員がいっぱいいるエリアだから、君はともかく僕は目立っちゃうね。変に行動してフヨウの足を引っ張っても良くない。大人しく次の連絡を待とう」
「ええ……それにしても、大胆な連中ですな。運送会社を偽って、こんなビジネス街の一等地にビルを所有するなど」
「木を隠すなら森ってところだろうね。運送会社を隠れ蓑にしたってことは、汚染兵をトラックで自然に運ぶためかな。もしくは、物資を僕らにバレずに運ぶためか」
「なるほど、姑息な連中らしいですな。あ、それなら坊ちゃん。この拠点はしばらく泳がせたほうが良いのでは? トラックに発信機を付けておけば、奴らの動きが分かります」
それは正論だ、と境は内心思った。だが、背中にヒシヒシと感じているざわつき。これは、どうにも落ち着かない。第六感という奴が告げているのだろうか?
「馬鹿げている」
「ん? どういう意味ですかな?」
「いや、ごめん、ゴーンの案を否定したいわけじゃない。出来るだけのことはしておこうか。でも、フヨウの潜入がバレたら、すぐに救出に行く。連れ去られた人たちが怪我をしていることも想定して、救護チームにも連絡済みだ。あとは、それから」
「坊ちゃん」
ゴーンの暖かな手が、境の肩に置かれた。
「落ち着いて。いつもの感じを思い出してください。ワシの知っている坊ちゃんは、普段はやる気がないように振る舞い、戦闘時は誰よりも気迫と戦意を漲らせながら、冷静に苛烈に敵を屠るカッコいい漢です。
我らが頼もしいフヨウは、そんな坊ちゃんを支えられる女ですから、絶対に大丈夫です。キラー家最強のゴーンもおります。どうぞ大船、いやいや大戦艦に乗った気でドーンと構えてください」
「あ……そうか、僕は慌てているのか。うん、スマン。……スウウ、ハァア。いつもの感じね。よし、落ち着いた。たぶん落ち着いた。落ち着いてなくても落ち着いた。ゴーン、さっそくだけど」
言葉は、突如響いた轟音によって途切れる。境は眼前の高層ビルを下から上へ眺めていき、八階の壁に開いた大穴を見て唖然とした。
「何だありゃ?」
威風堂々と巨大な化け物が、下界を見下ろしている。ああ、何と不釣り合いだ。人々よ、上を見よ。ビジネス街にあってはならない異物がそこにいる。
ライオンの体躯に、ワニの頭、翼のように広がるイカの足。――その名はキメラ。混沌の命を宿す合成獣なり。
「……最悪だ、だりぃ。ゴーン、うちの連中と警察に緊急連絡。当主代行の権限により、一時警察の指揮権を預かる。互いに協力して民間人の避難誘導、それからここら一帯の封鎖だ」
「坊ちゃんはどうなさるおつもりで?」
境は、刀を出現させるとスラリと抜き放った。
「僕はあいつを討伐する。ゴーン、お前は指示を終えた後、僕の援護を頼む」
「合点だ。坊ちゃん、ご武運を」
にっかりと笑って去っていくゴーンを見送り、境は走り出す。
――熱い。発火した殺意が血潮を駆け巡った。調律者としての存在が、キメラという存在を細胞の一つに至るまで否定している。
人々よ、もっと注目せよ。あれの存在を許してなるものか。あれは、現世を否定する破壊者だ。
キメラは、八階の高みから異変に気付き逃げ惑う人々を見下ろしていた。
爬虫類独特の細く鋭い目は獲物を見定め、今まさに体を低め飛びかかろうとしている。
「やらせるかよ」
世界で数十人しかいない調律者は、人にあって人にあらず。
この世界は、破壊と再生が正しく輪廻することを良しとする。そのシステムを回すための安全装置と言える存在が調律者であり、世界から力をギフトされた彼ら・彼女は、人の限界を容易に超える。
境は、足に力を入れ、地面を蹴った。たったそれだけで地面にはヒビが走り、八階の高さをものともせず、空を一直線に駆ける。
「ギャアアアア」
咆哮が、昼のビジネス街に響く。
「怖いだろう、痛いだろう? そりゃそうだ。深々と刺さっちまってるからな」
キメラの胴体からは鮮血が迸っている。境は足元に転がるひしゃげたロッカーを邪魔だとばかりに蹴り飛ばし、さらに胴体に刺さっている刃を深く押し進めた。
「そら!」
刃を引き抜き、水平に切り裂く。
胴体が上下に別れ、青白い血が血煙となって空気を汚す。
境は、血に濡れた髪を不快気にかき上げ、刀を正眼に構える。
「ハア、クソくらえ。めんどくさいランキングTOP三位には必ず入るよ、キメラ君」
――ポコポコ、とした音が鳴り、胴体の傷が全て塞がっていく。
キメラは、苛立ったのか何度も地面を足で踏みつけ、体全体を叩くような凄まじい咆哮を放つ。
「うるせえな。来いよ」
ワニの顎が、先ほどまで境がいた空間を抉る。
境はすれ違うように右へ避け、胴体から臀部までを切り裂く。
続けざまに斬りかかろうとするが、イカの触手が追撃を阻止する。
一進一退の攻防。建物が軋みを上げる。
(コイツがこのまま暴れて柱や壁を壊せば、八階から上が倒壊するかもしれない)
――ならば、ここで勝負をつける。
境は、正眼に構えたまま、一直線にキメラへ迫る。
一方のキメラは、クジャクのようにイカの脚を無数に広げ、眼前の敵へ殺到させた。
「――フウゥウウウ」
極限の集中力が成せる業か。時速三百キロメートル以上出ている数多の突きは、境の目には止まって見えた。
刀の柄を柔らかく握り、ゆらりとした動きで迫る危機を避けて弾く。――刹那散る火花を背後に置き去りにした境は、キメラに肉薄する。
互いの距離は、一メートルも離れていない。手を伸ばせば触れられる状況で先に動いたのは、キメラだ。
鋭い牙がずらりと並んだ顎を開く。閉じれば、コンクリートでさえも豆腐と同じように砕ける強靱なるアギトだ。人の身など、まるで歯ごたえがないだろう。
「ギャアアオオウウ」
咆哮轟かせながら迫る死。その音は、光景は、聞く者の体を骨の髄から戦慄させるだろう。
――しかし、境の顔に焦りらしきものは皆無だ。
脱力した体で、大上段の構えを取り、一刀両断に刃を振りぬく。
ヒュ、と味気ない音がした。
「ギャ?」
左右に分割される巨体。
境は、残像が生じるほどの速度でその二つの肉を滅多切りにする。
何度も、何度も。丁寧に細胞一つ一つ潰すような暴力がキメラを蹂躙した。
途中何度も獣の叫び声が轟いたが、音は小さく小さく変化し、やがては消えてしまった。
境は、刀を鞘に戻す。辺りは肉片さえ見当たらず、青白い血がテラテラとコンクリートの地面を濡らし、強い刺激臭に包まれている。
「ハアアア、家に帰ったら風呂に三時間くらい入らないといけないな。せっかくのオシャレ着は捨てなきゃならない。……なあ、弁償してくれないか」
八階のフロアは、戦闘により粉々に壁が壊され、そこら中にコンクリート片が散らばっている。動きがあったのは、境の右前方にある大きな瓦礫の陰から。ひょっこりと姿を見せたのは、クロであった。
「お見事。さすがにキメラ一体じゃ話にならないね。おおっと、そんなに睨むなよ。俺だってキメラが今暴れたのは予想外の出来事だったんだ」
「……情報を吐け。拷問をするのはだるい。ほら、早く」
「ああ、怖い怖い。相変わらず、君らは物騒だ。だから、対策を講じるね」
先ほどクロが隠れていた瓦礫から、小柄な女が姿を現す。
細身で妖精のような顔をしたその少女は、フヨウだ。
ホッと胸を撫でおろした境だが、すぐに表情がこわばった。
境の知るフヨウは、基本的に無表情だが、目の表情は豊かだ。
嬉しければ目がキラキラと輝き、悲しければ目を伏せて少しだけ涙を潤ませる。
――だが、今はその瞳に何の感情も宿していなかった。
「その子に何をした?」
「フフ、仲間になってもらった」
境はポカンと口を開けて、すぐにハッと表情を引き締めた。
「まさか、お前らの血を入れたのか」
「ご明察」
「なぜフヨウが敵だと分かった?」
「初めは分からなかったさ。でもね、眠っていたキメラが目を覚まし、彼女を襲おうとしたことで人間だと判明した。キメラは人間が好物。俺ら超越種は襲わない。
感謝してほしいな。彼女が無事だったのは、俺がゼウ様の血を注射してやったからだぜ? そうすることで、キメラの攻撃対象から外れ、こうして無事だった。どうだい綺麗なもんだろう?」
クロは、フヨウの髪先を手でいじくり回し、頬にキスをした。
「お前……殺してやるよ」
「おっと、怖い怖い。だから、追加のお注射の時間でーす」
クロは、フヨウを背後から抱きしめると、その細く白い首筋に、注射針を差し込み、金と赤が入り混じった液体を流し込んだ。
「ああ、美しいね。皆、距離を取って囲め。イレーゼ様の洗脳を受けていないから、見境なく襲ってくるぞ」
苦しそうにフヨウは頭を抱え、苦悶の声を上げる。
いつの間にやら現れた八人の超越種たちは、境とフヨウを囲み、ゲラゲラと笑う。
「おっと、動くなよ。君が動けば、彼女に攻撃を加える。でも、君が動かなければ、俺らは攻撃しない。まあ、彼女に一番近い君は、俺らが何もしなくても襲われちゃうだろうけどね」
「テメエ、グ!」
フヨウの拳が、境の腹部に深々と突き刺さる。
境は、こみ上げてくる吐き気をこらえ、フヨウを抱きしめるように拘束した。
「や、めろ」
「あ、あああああ」
彼女は化け物じみた膂力で、境の脇腹を何度も殴打する。そのたびに鋭く重たい痛みが走り、三発を過ぎたあたりから血が口から噴き出てきた。
それでも、境は彼女を放さなかった。
「おお、やるじゃん。よっぽど大事な人だったみたいだ。あの冷徹な調律者が、まるで人形みたいだよ。ああ、これさ、もし調律者を倒しちゃったら、幹部に昇進じゃねえ。へへ、そうなったら、イレーゼ様に結婚を申し込も」
「お前じゃ相手にされないぜ。それより、手柄を独り占めにするつもりか?」
「そうよ、私たちの協力があってこそでしょ?」
「ハア? お前らほとんど役に立ってないだろ? ったく、まあ、ちょっとくらいはお前らのおかげって事にしてやる。まま、細かい話はまた後で。……おい、調律者、とっとと死んじまえよ。お前が死んだ後の段取り決めたいから」
クロは、圧倒的優位に立った愉悦からか、にこやかに微笑み、仰々しく笑った。
しかし、そんな彼以上に、境は口から血を零しながら大声を上げて笑う。
「お前さ、馬鹿ってよく言われない?」
「あ?」
「相手が不利な状況でもあがくのは、命が惜しいからってだけじゃないぜ。時間稼ぎって可能性も考慮しねえとな」
訝しむクロ。一体、何があるというのか? その疑問に対する答えは、銃声と共にやってきた。
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