第12話 第三章 邂逅③

「よっし」


 制服を着て、手鏡で髪の乱れをチェックしたフヨウは、満足げに頷いた。


 キメラ事件から一か月。身体は、境によって手配された医師と医療設備によって万全の調子に戻っている。


 おそらく学校に行けば、友達に何でこんなに休んだのか、大丈夫だったのか、と質問されるだろう。きっとその時自分は、困った顔で対応するに違いない。アハハ、と自然な笑みが零れた。


「あ、学校行く前に境を起こさないとね」


 部屋を出て、境の部屋に続く廊下を歩く。フヨウたちが暮らすこの屋敷は、狭間家と御三家が共同で生活しているだけあって、かなりの広さを誇る。木製の廊下を歩むと、右側には立派な中庭があり、松の木や竹といった和の植物が、雅さを演出していてなかなかに見ごたえがあった。


 フヨウは、朝日を浴びる松の木をぼんやりと眺めながら歩く。すると、向こうの廊下から沢山の人たちの話し声が聞こえてきた。


(学校に行く子たちの声だな)


 前を向くと、ゴーン家や千葉家の子供たちがこちらに向かって歩いてくるのが見えた。


 フヨウは、おはようございます、と気持ちよくあいさつしたが、彼ら・彼女らは会釈をするだけで、まともにフヨウと目を合わせようとしない。どこかよそよそしい態度で、あるいは敵意を込めた瞳でフヨウを盗み見て、そのまま横をすり抜けていった。


 フヨウは、フウとため息を零す。


 長年、この広い屋敷で暮らしてきた家族にも等しい人たちだ。灯火家以外の者も、フヨウにとっては大事な身内と胸を張っていえる。だが、生まれてしまった溝は、簡単に埋まるものではない。それは、ここ数日で嫌なほど思い知らされた。


 寂しくない、といえば嘘になる。だが、彼女の顔は思いのほか晴れやかだ。――否、晴れやかどころではない。にやけた顔で、彼女は物思いにふける。


(そういえば、治療している間、境はすっごい優しかったな。いつもみたいにだらけた感じじゃなくて、キリッとした感じでカッコ良かった)


 肩を貸してもらえた時に感じた、暖かくて意外にも大きな手。


 ふとした瞬間にニヤリと笑う少し生意気な笑顔。


 水差しを交換している時に見えた頼もしい背中。


 この一月は、身体が痛かったが自然と頬が緩むことが多かった。


「フ、フフ、エヘヘ」


 零れた笑い声に、不気味な顔で千波家の若い娘二人がすれ違っていった。


「おっと、さすがに気持ち悪すぎですね。反省反省」


 彼女はピタリ、と足を止める。目的地である境の部屋に到着したからだ。


彼の部屋は、当主代行のわりにかなり質素な和室だ。およそこの建物内で最も偉い人間がいるとは思えない。


 フヨウは、背を正し、前髪を整え、それから飾り気も何もない引き戸をノックした。……反応はない。いつも通りまだ寝ているのかもしれない。フヨウは、「入るわよ」と断りを入れてから、引き戸を開けた。


「失礼します。……おい」


「え? やべえ」


 窓のレールに足をかけ、外へ飛び出そうとした男がそこにはいた。


「何しているの?」


「……日光浴かな」


「嘘! 絶対、学校サボる気でしょ」


 境の首根っこを掴み、思いっきり後ろへ引っ張る。


「おっわ、お前ぇ」


「え、わ!」


 バランスは崩れ、派手に後ろへ転ぶ。


「う、痛ったぁ。え? うひああ! きょ、境」


 仰向けのフヨウに、これまた仰向けで倒れる境の体が重なる。具体的には、フヨウの両太ももに境の胴体が挟まり、彼の右手が地面ではなく、彼女の胸を鷲掴みにしていた。


「……んだあ? この柔らかいの」


「あん! 変態」


 境を突き飛ばし、耳まで赤く染め上げたフヨウは、拳を握りしめた。


「あ、え! 揉んだのはわざとじゃねえ。君が引っ張るからだろ」


「それは、そうだけど。記憶を消去したい。けど……ああ、もう分かったわよ、チャラにしてあげる。看病してもらったし」


 フヨウは、自らの体を抱きしめるように両手で胸の部分を隠し、上目遣いで境を見る。


 彼女は、まったく自覚がなかったが、男を篭絡させるのに十分なポーズであった。境は、顔を赤く染め上げ、


「それは卑怯だあああああ」


 部屋をとんでもない勢いで飛び出していった。


「あ、ちょっと。ちゃんと学校行くわよ。聞いてるの?」


 ――三十分後。教室で、ぼんやりと天井を眺める境と同級生の質問まみれになっているフヨウの姿を見かけることができる。


「いや、ちょっと体壊しちゃって」


「どうしてそんなことになったの?」


「まさか、境の馬鹿野郎が何かしたんじゃ? やはり反対だったんだ。年頃の男女が、家の事情とはいえ同居するなど。何をされたフヨウさん。あ、あんなことか? それともダイナミックにそんなことしちゃったのかい?」


 ピアスロン毛のその発言に、境とフヨウは気まずそうに顔を伏せた。


「え、何その反応。はああああ、ま、まさかだろ?」


「貴様ら! 勝手な憶測を話すな。特に男連中、ひがみで僕を敵にしようとするのはよせ」


境は、勢いよく席から立ち上がると、フヨウを取り囲む面々に人差し指を鋭く突き出す。


「ああん?」


「貴様、何勘違いしとんのじゃ? フヨウさんに関することでいえば、貴様は初めから敵だ。しようとじゃねえ。前から敵じゃあ!」


 どこから持ってきたのか、木刀を手にしたピアスロン毛とリーゼント男が、境に近づくと、青のりが引っ付いた歯を見せつけながら顔を寄せてきた。


「君ら、朝食はたこ焼きだったのか?」


「おう、そこのコンビニでな。美味かったよな」


「確かに、外はカリッと中はトロトロ。たまらんかった……ハウ! これは巧妙な罠ぜよ」


 ピアスロン毛とリーゼント男が、互いの肩に拳を叩き入れ、活を入れる。


「貴様、卑怯なり。食べ物の話題で本題を反らすとは」


「さっきからどこの人だよ? 別に君らが思うようなことはなんもない。僕がフヨウにそんなことするわけないだろ、大事な人なんだから」


 なん、だと。その後に続く言葉を、ロン毛&リーゼントは紡げなかった。


 ざわつく教室、アッとした顔になる境と俯くフヨウ。


 悲鳴を上げる女生徒と、雄叫びを上げる男ども。よもや暴動待ったなしの状況で、ガラリと教室のドアが開く。


「よ、おはーよー」


 ボッチが、間の抜けた声であいさつをする。全員がポカンとした様子の中、ボッチは背中に背負った袋を開け、中の物を取り出した。


「皆、イライラしてるなー? そんな時はお腹いっぱい食べればいいよ。ほら」


 彼の手に、大きなサイズの牡蠣が乗っている。プーンと教室に漂う磯の匂いに、リーゼント男が鼻を手で覆う。


「いや、何で牡蠣?」


「おう、リーゼント君。さっき海で取ってきた―」


「朝から! や、俺、牡蠣嫌いだから」


「好き嫌いはいかん。ほらー」


 リーゼント男の口に、牡蠣が突っ込まれる。頭の中に浮かぶ走馬灯。リーゼント男は、口からよだれを垂らし天を仰いだ。


「ま、まじい。俺には、まだやる事、が……」


 地に倒れ伏すリーゼント男。彼にとっては演技でもなんでもなかったが、教室には爆笑の嵐が吹き荒れる。


「ほらー、席に座れ。先生来ちゃうぞー」


 境の前の席が、ボッチの自席である。彼は鼻歌交じりに着席するなり後ろを振り返り、ニッコリと八重歯を覗かせて笑った。


「さっきの何だったんだー?」


「いや、気にするな。君のおかげで助かったよ。まったく、妙な事言っちゃったな。後で気まずい、あーめんど。寝る」


「コラー、寝るな境。あ、いや、寝ろ」


「え?」


 境は思わず顔を上げる。日頃、境を起こす人物は、先生とフヨウ、そしてボッチだ。そのボッチが言うべき言葉ではない。


 境は、自らの頬を叩いた。


「痛い……夢じゃねえのか?」


「どうしたんだー?」


「や、お前らしくない発言じゃねえか。どうした?」


「んー、実はなー、午後にクラス会するってさ。お前、昨日寝てたから知らねえだろうけど、今日はボウリングな」


「いや、僕忙しいんだけど」


「ダメ―、嫌でも行ってもらうよー。だから、寝ろ。今日は許す。午後に向けて体力を蓄えろ。牡蠣食うか?」


「……牡蠣はもらう。だが、行かないぞ。僕は絶対に」

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