第18話


 広い廊下の端で、瑞樹は一人倒れていた。身体中が痛みに呻いている。しかし、立ち上がらなければならない。立って、病棟に戻らなければ。けれど、身体を動かそうとしても、痛みがそれを許さない。瑞樹は冷たい廊下に倒れているしかなかった。

 ああ、どうしてこうなってしまったんだろう。強い後悔が瑞樹の胸に去来する。分かっていたのだ、今の自分が満足に歩けない事は。一人で歩けばどうなってしまうのかは。だから、この痛みは当然の結果だった。押し寄せる後悔が、目の前の景色を滲ませる。瑞樹はひたすらに叫び出したかった。痛い、辛い、悔しい。そして痛い。時が過ぎる程、激痛と後悔は積み重なっていく。けれど、その根底にあるのはやはり、たった一つの願いだけだ。

 ただ、歩きたかっただけだった。自分の足で、また歩けるようになりたかった。

 やがて、誰かの叫び声がし、遠くから足音が聞こえてきた。駆け寄ってきた足音は、瑞樹の傍で“何故”と“どうして”を繰り返す。

 僅かに湿り気を帯びたその声が、胸中に怒りを湧き上がらせた。

 あなたがいてくれたら、こんなことにはならなかった。あの時、誰かが私を見てくれていたら、倒れていなかったかもしれない。どうして、何故誰も私を見てくれなかったの。

 恨めしい。見てくれなかったあなた達が。のうのうと歩く他の患者達が。

 ズルい。羨ましい。恨めしい。

 誰か、私を見て。誰か。誰か。


 おまえが、見ろ。


 飛び起きたのは、叫び声と同時だった。あの女の声か、とも思ったが、一瞬の間を置いて自分の口が開いていた事に気づく。そうか、自分の声だったのか。納得と同時に、瑞樹は周囲を見渡した。

 そこは慣れ親しんだ自分の部屋、ではなかった。四方を囲む白い壁。同じく白い天井には、瑞樹を囲むようにカーテンレールが敷かれている。もしかして、と仰ぎ見た背後には、見慣れたウォールケアユニットの設備が並んでいた。

 やはり、ここは病室だ。だが、向井リハビリテーション病院のものではない。一体どこの病室だろうかと考えていると、右手に見えていた引き戸が勢いよく開かれた。

 「今西さん、起きられたんですか!? 」

 入り口で息を切らせて立っていたのは、白衣を着た見知らぬ看護師だった。対して長くもない距離を走り、駆け寄ってきた彼女は瑞樹の顔や全身をくまなく覗き込む。そして一言断りを入れると、手首に触れて脈を取った。余りの怒涛の展開に呆然としていると、脈を取り終えた看護師は瑞樹の顔に目線を合わせる。そしてここで待つように言い含めると、足早に部屋を出て行った。

 だが、暫くもしないうちに、看護師は医師を伴って再び病室を訪れた。現れた医師は瑞樹の前に座り、幾つかの問診や触診を行った。特に頭部は念入りに見られた気がする。そうして数分間の診察を終えると、瑞樹は漸く事の次第を説明された。

 医師曰く、瑞樹はロッカールームに倒れていたところを出勤してきた他の職員により発見され、意識不明のままこの病院へと搬送されたのだという。それから丸一日は眠っていたらしく、今後二日間程は精密検査の為に入院となるらしい。参った、と瑞樹は内心で頭を抱えた。連休を申請しようとは思っていたが、こんな形で取る事になるとは思わなかった。

 その後も医師や看護師の話は続いていたようだが、頭を抱えていた瑞樹の耳には何一つ入ってこなかった。気づけば二人の姿は無く、静かな病室に瑞樹は一人取り残されていた。

 「こんなことになるなんて」

 倒れ込んだベッドの上で、瑞樹はため息を零す。大量の情報に晒されたせいだろうか、たった数分間の診察に途方もない疲労を感じていた。けれど、却って良い機会かもしれない。一つ頷くと、瑞樹は徐に体を起こす。どのみち休暇は申請しようと思っていたのだ。むしろ、申請しやすい良い理由が出来たと思えばいい。そんな事を考えつつ、近くにある床頭台に手を伸ばす。誰かがおいてくれたのか、そこには瑞樹の鞄が置かれていた。その中からスマートフォンを取り出すと、電話帳を検索し、職場の番号を表示させる。だが、通話ボタンに触れようとする寸前で、指は躊躇い動きを止めた。職場にかけたであろう相当な迷惑を思うと、画面までの数センチが遠く感じる。だが、迷惑を掛けたのであれば尚更連絡は必要だ。その上、あと二日間は休まざるを得ないのだから。それに、倒れた時に驚かせてしまったであろう村瀬の事も気がかりだった。

 よし、と一言気合を入れ、瑞樹は一息にボタンを押した。スマートフォンを耳に当てると、聞きなれた呼び出し音が鳴る。短い音楽が数回繰り返された後、通話に出た医事課の職員に四階病棟への取次ぎを依頼した。再びの音楽を間に挟み、そして聞こえてきたのは課長である久保田の声だった。

 「今西さん? もう体は大丈夫なの? 」

 「お疲れ様です、課長。ご迷惑をおかけしてすみませんでした」

 瑞樹は先程目覚めた事と、あと二日間は入院である事を告げる。たっぷりと罪悪感を込めた声で有休消化を乞えば、久保田は寧ろそれ以上の日数を提案してきた。労働基準法で最低五日分の消化は義務であるからだそうだ。確かに、こういう時でもなければ消化も難しいだろうとは思う。だが、万が一の時を考え少しでも残しておきたい。

 双方の折衷案が妥結された結果、三日分の有給追加で手を打つ事となった。

 「私も反省したのよ。倒れるまで無理をさせてしまってたって。もっと人が増えるように上に発破を駆けて行くわ」

 「ありがとうございます。ところで課長、倒れた時に村瀬さんは何か言ってませんでしたか? 」

 頭を悩ませていた休暇申請も終え、気が楽になった瑞樹はもう一つの気がかりについて切り出した。

 「村瀬さん? 村瀬さんがどうかしたの」

 「いえ、倒れた時に大分ご迷惑をおかけしてしまったと思うので、どうされているかなと」

 「ご迷惑? 村瀬さんと何かあったの? 」

 おかしい。会話が進むにつれ、瑞樹は膨れ上がる違和感を感じていた。瑞樹が倒れた時、傍には村瀬がいた。よって、瑞樹を発見したという職員は村瀬でまず間違いないはずだ。だからこそ、彼女の反応が気になるというのはそんなにおかしなことではない。なのに、どうにも話が通じない。肝心な何かが食い違って要るような。嚙み合わせの悪さに似た不快感が感じられてならなかった。

 「何か、というか。倒れている私を見つけてくださったのって、村瀬さんですよね? だから、ご迷惑をおかけしたんじゃないかと思ったんですが」

 努めて低姿勢をとり、瑞樹は久保田へ問いかける。それは、あくまでも確認であり、発言への補足でしかなかった。もしかすると、発見時の状況が久保田にもよく伝わっていないのかもしれない。危惧した事はそれだけだった。

 しかし、確認でしかない瑞樹の声は、久保田の困惑を更に深めたようだった。

 「倒れたあなたを発見したのは違う人よ。そもそも、あの日は村瀬さんも夜勤明けで休みだったじゃないの。今朝会った時にあなたの事を話したけど、初めて知ったって相当驚いてたのよ」

 久保田の声に、瑞樹は何も言えなかった。何も言えないまま、気づけば通話を切っていた。

 あの日、村瀬は病院にいなかった。なら、あのロッカールームにいた村瀬は一体なんだったのだ。あれが村瀬でないのなら、自分は一体誰と話をしていたのだろう。

 瑞樹は、ロッカールームにいた村瀬の姿を思い出そうとした。だが、明確に思い描けるロッカールームの中で、村瀬の姿だけが靄がかかっているかのように不明瞭だ。そんなはずはない。居たのは確かに村瀬だったのだ。思い出せ、思い出せ。瞼を閉じ、瑞樹は強く念じる。

 すると、かかっていた靄は少しずつ晴れていき、隠れていた姿が段々と露わになっていく。枝切れのような細い指。皺の寄った長い腕。着古された入院着。そして、暗い顔の上で爛々と輝く釣り上がった目。

 靄が晴れた時、そこにいたのは村瀬ではなかった。瑞樹が見ていたのは、悍ましく歪んだ女の顔だった。最初から傍にいたのだ、あの女は。隠されていた恐怖を目の当たりにし、瑞樹はハッと目を見開く。

 視界一杯に、暗い穴が広がっていた。鼻先が生温い人肌に触れ、乾いた皮膚が割れる音が聞こえた。

 「憎い」

 臭い混じりの吐息と共に、か細い声が吐き出されていく。けれど、その声は何故かとても良く聞こえた。

 「羨ましい」

 「恨めしい」

 「あなたがいてくれたら、こんなことにはならなかった」

 「あの時、誰かが私を見てくれていたら、倒れていなかった」

 「どうして、何故誰も私を見てくれなかったの」

 「恨めしい」

 「見てくれなかったあなた達が。のうのうと歩く他の患者達が」

 「ズルい」

 「羨ましい」

 「恨めしい」

 「誰か、私を見て」

 「誰か」

 「誰か」


 「おまえが、見ろ」


 暗い穴が、ぎょろりと、瑞樹を覗き込んだ。


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