第8話
廊下の奥にある『職員専用』と書かれた扉を抜け、タイムカードの打刻を済ませる。そしてすぐ近くにあるロッカールームに入ろうと扉に手を掛けようとした。すると、あと数センチという所にあった筈の取手が、がらりと音を立てて横へ動いた。
「あれ? 今西さんじゃん。お疲れ様~」
開いた扉の奥に立っていたのは、顔見知りの同期だった。同じ病棟ではないにしろ、たまに遊びに行く程度には仲の良い友人である。私服姿で表れたという事は、彼女もまた帰宅の途に就くところなのだろう。それにしても、こんなに遅くまでどうして残っていたのだろうか。瑞樹が訊いた率直な疑問に、彼女は疲れを滲ませた声でこう返した。
「それがさ、今日受け持ち患者が転倒しちゃって。そのレポートとか記録とか書いてたのよ」
「それってもしかして、一階で転んだ高木さん? 」
「そうそう、今日休んじゃった人の代わりに受け持ってたからね。そう言えば今西さん医療安全か。そりゃ気になるよね」
そういえば、彼女の所属は二階病棟だったと瑞樹は漸く思い出す。自分の受け持っていた患者が転倒となれば、さぞ対応に奔走した事だろう。お疲れ様、と瑞樹は労いの言葉を掛けた。
「ありがとうね。けど、まさか私が持つことになるなんて思ってなかったんだよね。いやはや、不運でしたわ」
「相手の人、急な体調不良とか? 」
「連絡受けた主任には体調不良って言ってたみたいだけど、なんか様子が変な感じだったんだよね。最初に電話出たのは私だったんだけど、なんか凄い怖がってるっていうか、怯えてるって言うか」
そこまで言うと同期は腕を組み、首を傾げた。何やら不穏な様子ではあるも、他病棟の職員まで正確に把握しているとは言えない自分に返せる言葉は無い。瑞樹が内心でそう考えていると、何かを閃いたように両手を叩いた同期が口を開く。
「もしかすると今西さんなら知ってるんじゃない? 彼女も医療安全委員だし、昨日委員会に出てたから」
「……もしかして、村瀬さん? 」
瑞樹の問いに同期が頷く。しかし、その反応は瑞樹の疑問をさらに深める事となった。昨日の委員会において積極的に発言をする村瀬の姿はよく覚えている。とても体調の悪さは見受けられず、様子のおかしい素振りも無かった。
――大沢の絵画を見て転倒した事を覗けば、だが。
同期に言われて瑞樹も思い出す。転倒した直後の村瀬が酷く怯えていたことを。その瞬間、絵に垣間見た輝きと暗い穴を思い出し、ぞくりと怖気が背筋を走る。違う、あれは見間違いに決まっている。それに、村瀬とは何の関係もない話だ。今思い出すような事ではない。
気を取り直し、瑞樹は村瀬の転倒の件を同僚に話した。無論、見間違いの件は伏せた上でだ。話を終えると、同期は得心を得た様に頷いた。
「もしかすると、転んだ時に腰かどこかを痛めちゃったのかもね」
同期の言葉に、どこか煮え切らない思いを抱えつつ瑞樹は頷く。脳裏に過るのは、転倒した時の村瀬の顔だ。あの時、村瀬の顔に浮かんでいた表情。それは確かな怯えだった。まるで、村瀬もまた瑞樹と同じ光景を目にしていたかのように。
しかし、異なる人間が同時に同じ見間違いをするなんて事があるのだろうか。考えるうちに自然と目線は下がり、瑞樹は思考の海原に沈んでいく。しかし、急な肩への衝撃が瑞樹の意識を引き上げた。
「ちょっと! 何考えこんでんの? もしかして、委員会で何かあった? 」
訝しむ同期の声に、瑞樹は首を横に振る。
「そんな事なかったよ。ただ、結構転んだ時に痛そうだったってだけ」
「そう? ならいいんだけど」
同期の返答があっけらかんとしていた事に瑞樹は胸をなでおろす。まさか絵画に怯えていた様に見えた、などと言えるわけがなかった。
「そういえばさ、結局原因ってよくわかんないんだよね、あれ」
「あれって、どれの事? 」
「ほら、今日転倒した人の事」
ああ、高木の話か。瑞樹は合点がいったとばかりに頷いた。しかし、原因が分からないとはどういうことなのだろうか。
「人の往来が多かったってあったけど、違うの? 」
瑞樹が驚いて聞き返すと、同機は悩まし気に顔を顰める。
「それもあったんだけど、目撃した人によると見通しが悪くなるとか、通行の邪魔になるって程じゃなかったらしいんだよね。よろめきやすい人って訳でもなかったし。だから根本原因は不明なのよ」
それに、と何かを言いかけたまま、彼女はその先を言い淀む。腕を組み、何かを悩んでいる様だったが、瑞樹の促しにややあって重い口を開いた。
「あの人たまに幻視とか見る人だからあれもそうだと思うんだけど、下から戻ってきた時にこう言ってたんだよね。――絵の中にいた怖い人に睨まれた。その人に身体を引っ張られたって」
沈黙が、二人の間に落ちていく。振り払ったはずの輝きが、瑞樹をぎょろりと睨んだ気がした。
その晩、瑞樹はまた夢を見た。
それはやはり、白い廊下をひたすら進んでいる夢だった。
一歩、また一歩と平坦な廊下を進んでいく。足は重く、足取りはぎこちない。一歩進むたび、生まれたての小鹿の様に体はよろめく。自由にならない肢体を支えんと、手すりを掴む右手に白くなるほど力を込めた。
一歩進み、身体がよろめく。少し支えて、また一歩。進むごとに疲労は溜まり、身体の重みが増えていく。呼吸を繰り返す喉からは喘鳴が漏れていた。それでも、と瑞樹は足に力を入れる。
それでも、進まなくてはならないのだ。他の患者達のように、一歩でも長く、一歩でも早く。自分には、願いがあるのだから。だからこそこうして、たった一人の練習を繰り返してきたのだ。その為に、一歩でも多く進まなくては。
強く念じた瞬間、不意に身体の重みが消えた。全身が軽い。まるで誰かに支えられているようだ。今なら、いける気がする。瑞樹は一歩足を踏み出す。やはり体は軽く、足取りは軽やかだ。嬉しい。瑞樹は、久しぶりに心が温まってくるのを感じていた。そのまま一歩、二歩、三歩と順調に足を進めていく。
そうしてどれくらい進んだだろうか。数メートルか、はたまた数歩程度の距離だったかもしれない。ふと横を見ると、左側にドアのような物がぼんやりと三つ並んでいた。それ以外には何も見えない。そう言えば、ここを通る時にいつも何かを言われていた気がする。あれは何と言われていたのだっただろうか。けれど、ここを抜ければ受付まではもうすぐだ。今ならば、誰にも知られずに外へ出られるかもしれない。本当は駄目だと分かっているけど、それでも私は此処からでなければならないのだ。
一気に進んでしまおう。そう思い、瑞樹は大きく足を踏み出した。
瞬間、ぐらりと視界が揺れる。景色が左へ流れていき、身体の右側が重力に捉えられる。駄目だ、ここで踏ん張らねば。けれど車椅子は遥か彼方、周囲には何も見えない。身体が引き寄せられる。このままでは、倒れてしまう。どうして駄目だったのだろう。どうしてこうなってしまったのだろう。私は、ただ。
――ただ、何だっただろうか。
何かを自分は願ったはずだ。狂おしいほどに、強い願いがあったはずだ。でも、何だっただろう、思い出せない。私はどうして、外へ出なければならなかったのだろう。
瑞樹は強く、強く願った。分からなくとも、とにかく願った。
けれど、どれほど願おうと、その中身は白紙のままだった。
強く願った刹那の後、目に飛び込んできたのは慣れ親しんだ自室の天井だった。
時計を見ると午前六時。日は既に上っている筈だが、外はやけに薄暗い。どうやら雨が降っているらしく、窓のすぐ外から打ち付ける雨音が聞こえてくる。荒い呼吸を整えて重い体を起こすと、全身が汗でぐっしょりと濡れていた。酷い悪夢を見ていた様だ。今日は夜勤の為、寝直すには十分な時間がある。もう一度体を横たえようと思ったが、濡れたままでは気分が悪い。せめてシャワーでも浴びてからにしようと、瑞樹はベッドから抜け出した。
浴室へと続く廊下を歩くも、夢で感じた足の軋みは無い。ふらつきもなく、いつも通りの歩行が出来ていた。そうして辿り着いた脱衣所で服を抜いていると、隣が無性に気になって仕方ない。すぐ隣には据え付けの洗面台と、その上には大きな鏡がある筈だった。気になる。けれど、見てはいけない気がする。相反する感情のせめぎ合いが動きを錆びつかせる中、瑞樹は体を無理矢理に鏡の方へと向けた。
そこには、一人の老婆がいた。やせ細った顔の表面には皺が重なり、肌色だけでなく表情までも暗くくすんだ女の顔が。
「ひっ! 」
反射的に体を離すと、女の顔はより暗く、そして凄みを増した。生気が抜けたその顔の中央で、鋭くつり上がった双眸が爛々と光を放っている。そこに宿るのは紛れもない怒り、いや、憎悪だ。憎い、恨めしい、嫉ましい。そういったあらゆる負の感情が女の瞳には込められ、吹き出し、瑞樹の身体を捉えて刺し貫く。他の感情が混ざらぬ純度の高い憎しみは、瑞樹に逃避を許さない。
こんな恐ろしい目など向けられた覚えはなかった。なのに、どこかで見た気がする。瑞樹は必死になって考えるも、記憶の断片すら思い出すことが出来ない。恐怖と混乱で機能を止めた脳味噌は、今や脳髄液にぷかぷかと浮くただの置物と化していた。そこへ瑞樹の目を通し、止まった思考回路へ女の憎悪と恐怖が染み込んでいく。さらに動きは封じられ、瑞樹の目は女の顔を見つめ続ける。
暗い肌の真ん中で、ぎょろりと動く黒い瞳。爛々と輝く虹彩に囲まれたその中に暗い穴が開いている。どこまでも暗く、深い穴。光すら通さないその奥に、身体を縮こませた瑞樹の姿が写り込んだ。目線が逸らせない。顔が、身体が石の様に硬く、動かせずにいる。そんな瑞樹を、女は見つめ続けている。
――違う。覗き込まれている、そう感じた。
「い、嫌ッ! 」
瑞樹は叫んだ。瞬間、何かが割れる音と共に、体が弾かれたように浴室の扉に当たる。そのまま力なくずるずると座り込み、震える身体を両手で暫く抱きしめていた。
少し震えが収まった頃、ごくりと一つ喉を鳴らして瑞樹はゆっくりと顔を上げる。仰ぎ見たその先で、洗面台の鏡が蜘蛛の巣の様に割れていた。一体何が起こったのだろう。起こった出来事を思い返そうにも、処理能力を超えた現象に脳が思考を放棄していた。腰が抜けてしまったのか、立ち上がる事も出来そうにない。呆然と呼吸だけを繰り返しつつ、瑞樹は裸のままで床に蹲っていた。
そして暫く経った頃、漸く戻ってきた思考が瑞樹に行動を促してくる。最初に行うべきは立ち上がる事だ。瑞樹はゆっくりと足に力を入れ、壁伝いに立ち上がる。よろめく足は生まれたての小鹿のようで、先刻見たあの悪夢が嫌でも思い起こされた。立ち上がって洗面台を覗き込むと、割れた鏡の破片は飛び散らずに洗面台の中へ納まっているようだった。
安堵の一息をつくと、次に何をすべきか瑞樹は思考を巡らせていく。ともあれ、先ずは裸のままの身体をどうにかしなければならないが、今更シャワーを浴びる気にもなれなかった。脱いだばかりの服を着ようと脱衣籠に手を伸ばした時、ふと思い出す。
(「絵の中にいた怖い人に睨まれた。その人に身体を引っ張られたって」)
瑞樹の脳裏を過ったのは、昨日聞いた同期の声だ。転倒した高木和子が訴えたという言葉が頭の奥で反芻される。止めて。お願いだから止まって。瑞樹は洗面台の前で俯き、再生を止めようと意識する。けれど、繰り返される声が止む様子はない。まるで洗い落とせない焦げ付きの様なしつこさに、瑞樹の脳が段々と悲鳴を上げ始める。頭が痛い。どうしてこんなにもあの言葉が思い出されるのだろう。痛むこめかみを抑え、俯く瑞樹の顔は洗面台の中へと近づいていく。そうして覗き込むような恰好となり、顰めた顔が鏡の破片に映り込んだ。
その瞬間、瑞樹は気づく。
暗い顔の真ん中で爛々と輝くつり上がった目。あれは大沢の絵画によく似ていたと。
宵闇の空を背に広がる向かい合った二羽の翼に。
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