第7話
気付けば昼はとうに過ぎ、午後の検温とケアが終わった瑞樹はナースステーションにいた。残りは夕方の最終検温だけである。時計を見ると、検温まで約四十分程の時間があった。今がチャンスだと、瑞樹は机の一角を陣取り、カルテを広げてペンを握る。
これがコロナ禍以前であれば、ナースステーションにいたが最後、面会に訪れた患者の家族に見つかり対応に追われていただろう。しかし、現在は面会中止としている為その必要もない。
「面会が無いって事だけは楽ですよねー」
「ほんとだねぇ。面倒な家族も来ないし」
記録の手を止めて瑞樹が話しかけると、机の向かいに座っていた永田が賛同を返してくる。パートタイマーとして勤続十五年となる永田は、長いキャリアを鼻に掛けない気さくな人物だ。誰からも慕われ、仕事への信頼も厚い彼女は瑞樹の尊敬する人物でもある。
「そういえば、明日の夜勤代わったんだって? 頑張るねぇ。体壊さないでよ」
「ありがとうございます。やっぱり、誰も入れる人がいなかったらしくて」
「ほんと、人が居着かないよね。この病院。昔っからそうだけどさ」
頬杖を突いた永田が深々と息を吐く。天井へと向けられたその目は、どこか遠くを見ている様だった。
「十年位前が一番ひどかったわ。少しの人を増やしたくらいで外来も始めて、仕事が増える一方だったわ。最初は病棟との兼任も多かったから、その内みんな疲れていっちゃってね」
「今も少ないのにそれよりも、なんて考えただけで恐ろしいです」
「それでまた人が辞めてっちゃうし。それでまた業務が追い付かなくなってるのに院長はやる事をやれーって言ってくるし。そのうちどっかの階で気づいたら人が転倒して救急行ったって言うし。皆いつ自分がヤバい事故をやらかすんじゃないかって心配してたわ」
ヤバい事故。永田の口にしたその言葉に瑞樹の心臓は大きく跳ねた。脳裏を過ったのは、一階で転倒したという大沢の話である。そういえば、大沢の事故が何年前かを聞いていなかったと今更思い出した。しかし、救急搬送にまで至る事故など早々起こりはしない。もしかすると、今永田が語ったのは大沢の事なのではないだろうか。そう考え、瑞樹が大沢の名前を聞こうと口を開いた時だった。
「あれ、長橋課長じゃないですか」
瑞樹の背後へと向けられた永田の目が見開かれる。その口から出てきた名前に驚いた瑞樹が振り返ると、ナースステーションの入り口に見知った姿が立っていた。
「永田さんに今西さん、お疲れ様。久保田課長はいらっしゃる? 」
挙げられた人物は確か職員面談で席を外していたはずだ。それを伝えると、また機会を改めると言って長橋は瑞樹に背を向けようとした。
「そうだ、後でレポートが上がると思うけど、さっき二階病棟の患者さんが転倒したって言うのよ」
「え、また転倒ですか? 」
「そうなのよ。さっき画像も撮って運よく骨折とかは無かったんだけどね。ほんと、どうしてこんなに続くのかしら」
悩まし気に首を傾げ、今度こそ長橋は去ろうとした。その背を瑞樹は慌てて呼び止める。転倒したと聞いてから、妙な胸騒ぎが止まらなかった。
「あの! ちなみに場所はどこだったんです? 」
誰もいない廊下で足を止めた長橋は、振り返ってこう言った。
「それがね、またあそ前の。第二外来室前」
「やっぱり呪いですって、それ」
夕方五時半を過ぎ、残った記録を片っ端から片付けている時だった。向かい合わせに座っていた藤枝へと転倒の話をし、返ってきたのがこの言葉である。科学的根拠に基づく理論や実践の輩である看護師の台詞とは到底思えない発言に、瑞樹の頭痛が少し増した。
「呪いとか非科学的な話じゃなくて、現実的にどう対応すればいいかって意見が聞きたかったなぁ」
「けど、現場はまた第二外来室前で、結局原因は分からないんですよね。やっぱり絵の呪いですよ」
増える瑞樹の頭痛を他所に、胸を張った藤枝の言葉は更に続く。
「それに、他の病棟の同期に聞いたんですけど、転倒が増えてきたのってどうやらあの絵が飾られるようになってからだそうですよ。あの絵が飾られたのが先々月の終わりで、それから転倒が増えたって言ってましたから」
「じゃあそもそもどうしてそんな危ない絵が寄贈されたって言うのよ。本当に危ない曰くがあるなら寄贈しようなんて思わないでしょうに」
呪いなどというものが本当に存在するのであればの話だが。ペンを動かす手を止め、馬鹿馬鹿しいといった口調で溜息がちに問いかければ、途端に藤枝は得意げな表情を窄ませる。そら見た事か、と内心だけで毒を吐きつつ、瑞樹はまた止まっていた手を動かし始めた。
それからは無心で文字を綴り、漸く最後の一冊を書き終えて瑞樹は大きく背伸びをする。ナースステーションを見渡すと、瑞樹以外に人の姿は見られなかった。どうやら藤枝も瑞樹より先に記録を終えて帰宅をしたらしい。散々気を散らしておきながら自分はさっさと帰るのね、と八つ当たりに近い恨み節を頭の中で並べ立てた。そんなちゃっかりしている所が頼もしくもあるのだが。そんな事を考えながらも最後のカルテをラックに片付け、瑞樹もまた帰宅しようと腰を上げた。
が、ある事を思い出し、上げた腰を再び下ろす。近くに置かれていた病棟用のノートパソコンを開き、院内ネットワークを経由して二階病棟のフォルダに入った。
発生したインシデント並びにアクシデントは、可能な限り早急にレポートを提出し、内容を子細に分析し対策を立案する事とされている。そして挙げられたインシデント・アクシデントレポートのデータは、院内ネットワーク内に設けられた各部署の医療安全委員用フォルダに納められる事となっていた。この日発生した転倒事例は受傷までには至らずに済んでいる為インシデントレポートとして挙げられ、恐らくは分析も終えている筈だ。ならば、二階病棟のフォルダからレポートを参照できるのではと考えたのだ。
「あった。高木さんって方なんだ」
その女性、高木和子は一階の売店へ向かおうとしていたらしい。杖を突いて歩行し、件の第二外来室前へと差し掛かった際に彼女は体勢を崩した。壁と手すりにぶつかり、そのままずり落ちるような形で頽れたという。発生したのは外来の開いている時間帯であり、廊下を往来する人を避けようとしたことが原因の一つとして挙げられていた。その為、対策としては売店へ向かうルートの変更と、当面は職員の付き添いの元で歩行する事で混雑との接触を可能な限り避けるという事になったようだ。自分達であっても同様の分析や対策になるだろうと、レポートの内容に瑞樹も異論はなかった。なかったのだが、どうにも腑に落ちない。
瑞樹は気だるげに頬杖を突き、ディスプレイに映る“第二外来室前”の文字を指でなぞる。どうして第二外来室前なのだろう。状況に多少の違いはあれど、転倒者は皆第二外来室前で転んでいる。隣の第一と第三外来室前や、廊下で繋がる他の場所とも設備としてはあまり違いなど無い筈なのに、どうして第二外来室前ばかりが。
違いがあるとすれば、それは。
(「転倒が増えてきたのってどうやらあの絵が飾られるようになってからだそうですよ。あの絵が飾られたのが先々月の終わりで、それから転倒が増えたって言ってましたから」)
頭の中で、色鮮やかな輝きと穴がぎょろりと瑞樹を覗き込んだ。
「馬鹿馬鹿しい」
肺に溜まっていた空気を一息に吐き出すと、瑞樹はパソコンを閉じた。馬鹿馬鹿しい。絵の一つが増えた所で何が変わるというのだろうか。こびり付く雑念を振り払う様に立ち上がると、休憩室の荷物を取り出し、ナースステーションを後にする。中央階段を下り、降り立った一階の廊下には、帰宅する面会者の姿がちらほらと見受けられた。すれ違う彼らに笑顔で会釈を返しつつ、瑞樹は外来前へと足を向ける。数メートルもない短い距離を進み、そうして第二外来室前で足を止めた。往来の邪魔にならぬよう、扉の方へと近づいて振り返る。
色褪せたクリーム色の壁に掛かる金の額縁。その中に広がる宵闇を背に、向かい合って羽ばたく二羽の鳥が目に映る。翼は白く、その上には鮮やかな輝きも、穴のような影も見えない。外来室の扉に背を預けたまま、瑞樹は睨むように絵画を見つめ続けた。
暫く注視していると、段々と絵が大きくなり、翼が近づいてくるような感覚に陥ってくる。翼に描かれた羽根の一枚一枚まで目視でき、微かに動いている様に見えてきた。これは錯覚だ、絵が動くわけがない。頭では理解しているのに、微かな羽のさざめきから目が離せなくなる。
すると、さざめく羽根の中に、ちらりと光が瞬いた気がした。
「……ただの絵に決まってる」
とても精巧に描かれた、何の変哲もない鳥の絵だ。迫力があるせいで、羽根の少しの輝きが自分に向けられていると錯覚しただけだ。ただの絵画に、自分は何を怯えているのだろう。瑞樹は二三度頭を振って、今度こそ変えるべくその場を離れた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます