第6話

 その晩、瑞樹は夢を見た。

 白く、長い廊下を一人で歩いている夢だった。右手で手すりを掴み、足を少しずつ前へ進める。けれど、床を踏みしめるのは確かに自分の足なのに、動かそうとするもどうしてかぎこちない。生まれたての小鹿の様によろよろとした足取りは、いくら進もうとも人になることは無かった。こうしていると、誰かが来てしまうかもしれない。瑞樹の中に焦りが生まれ、手すりを持つ手に力が籠る。見られたらきっと止められてしまうだろう。けれど、それでは不味いのだ。自分はもっと進まなければならない。他の患者達のように。ちゃんと自分で、この足で。一歩でも遠くへ。

 瑞樹が強く念じた瞬間、急に身体が軽くなる。重く曲がった背がしっかりと伸び、足に掛かる重さが少ない。まるで誰かが身体を抱え、支えてくれているかのようだった。今なら、行ける気がする。

 手すりを持つ手に力を込め、足を一歩前へ踏み出す。身体が軽い。関節は軋まず、足取りは軽やかだ。瑞樹は一歩、また一歩と歩みを進める。こんなに足が軽やかなのは久しぶりに思えた。この調子なら、まだまだ進めそうだ。早く、早く行かなければ。誰かが来てしまう前に。

 胸を満たす希望と、滲む焦りを感じつつ、瑞樹は次の一歩を大きく踏み出した。

 ――その途端、踏み出した足が布団を高く蹴り上げる。ばさりという大きな音がし、九月下旬の肌寒さが瑞樹の体を目覚めさせた。

 「……あれ? 」

 気が付くと、瑞樹は自室のベッドの上で右足を大きく蹴り上げていた。あれ、自分は今廊下を歩いていた筈では。そう思い徐に巡らせた視線は見慣れた自室を映すばかりだ。どうやら夢を見ていたらしいと理解したのはこの時で、右足を上げたまま羞恥に顔が火照ってくる。小さな子供じゃあるまいし、一体何を寝ぼけていたのか。気だるい身体をそそくさと起こし、落ちた布団をベッドに広げて瑞樹は暫く顔を覆う。きっとあの話を聞いたせいだ。溜め息と共に過ったのは、ナースステーションで耳にした長橋の話だった。

 (「見つけたときには一階で倒れていてね。認知症もなかったから車椅子での行動に制限はなかったの。だから私も含めた病棟全体が油断してしまっていたのよね。まさか一人で歩くなんてって。何事にも一生懸命な人なのは分かっていたのに」)

 聞けば、八年前というその事故は瑞樹の入職前に発生したものになる。救急搬送となる程の事故だったとはいえ、転倒しての受傷という事故そのものは結構ありふれた話だ。八年という時間も、記憶から薄れていてもおかしくない期間である。こうして語られでもしなければ知る機会は殆どないだろう。瑞樹や、若い委員が知らなかったのは無理もない話だった。

 (「あそこは確かに頻度としては少ないのだけど、大きな事故がなかったわけじゃない場所なのよ。けど、今になってこんなに頻発するなんて、一体どうしてなのかしらね」)

 長橋の話を思い返しながら、瑞樹の脳裏は一階の広い廊下を思い描く。見通しの良いその端を、一人歩く患者の姿を。その背は一生懸命に、手すりを掴んで足を進めていく。ただひたすらに己を信じ、前だけを向いて。

 その思いを理解していたからこそ、自責の念は尚強く。

 思い描いた情景も、言葉の端々から滲む長橋の後悔も、瑞樹は決して他人事とは思えなかった。あの時に抱いた身につまされる思いが、恐らくは夢を呼んだのだろう。

 遡った記憶と分析は、それでも顔の火照りを冷ますまでには至らない。確かに夢に見るほど強く共感はしたが、それでも布団を蹴り飛ばすことはないだろう。いい歳をした大人の女性が。自問自答により、更に煽られた羞恥心を堪えようとして、瑞樹の悶絶は暫く続いた。

 目覚めの羞恥を引きずったまま出勤し、時折顔を赤くしながら通常業務に勤しむ。この日は夕方まで入れるパートの数が多く、今日の担当患者は十四人とまだ少ない方だった。普段からこの人数がいればいいのに。そう思いながらケアに回り、粗方終わらせた辺りでナースステーションへと戻る。看護記録までは書けなくともケア実施のサインは出来そうだ。

 瑞樹はカルテラックからカルテを取り出し、サインを書きこんでいく。そうしていると、不意に横から声が掛けられた。

 「今西さん、ちょっといい? 」

 声の主は、四階病棟の所属長である課長の久保田だった。普段は凛々しいその顔には覇気が無く、まるで申し訳なさそうに眉尻を下げている。こみ上げる嫌な予感を抑え、瑞樹は笑顔で応対する。

 「はい、大丈夫です。どうされたんですか? 」

 「さっき飯島さんから体調不良の連絡があって、明日の夜勤が難しそうなのよ。けど他に入れそうな人もいなくて。だから連続になっちゃうんだけど、明日代わりに夜勤入ってくれないかしら」

 「分かりました。良いですよ」

 「ごめんなさいね。明後日の休みはまた別の日に振り替えるから」

 そう言って去っていく久保田を見送りつつ、瑞樹は内心で肩を落とした。仕方ないのだ、夜勤が可能な常勤の人数が少ないのだから。理解は出来ても、こみ上げてくる落胆はどうしようもない。

 現在の四階病棟に常勤は八名だけだ。その内、夜勤が可能な人物は瑞樹を含め五名しかいない。求人サイト等を通して入職しては来るのだが、続くのは日勤のみのパートくらいなものである。しかし、それは四階病棟に限った話ではなかった。全ての病棟が常勤の不足に悩み、中途採用者の早期退職に悩まされていたのだと瑞樹は知っていた。

 (「なんか思っていたのと違う、って感じなんですよね」)

 以前に、辞職を決めた者から聞いた言葉が頭を過った。管理職ではなくとも、居着かない理由は気になるものだ。休憩時間などでそれとなく訊いてみたところ、四階病棟を去る者の大半が挙げたのが先述の理由である。

 その理由が気になり、瑞樹自身も求人サイトのコラムなどを調べてみたことがあった。療養型病院・病棟の特徴として『時間に追われず働けて、一人一人に寄り添う看護が出来る』といった文言が並んでいる。その言葉を目にしたとき、なるほど、これは想像通りとはいかないな、と瑞樹は感じた。

 確かに、療養型には救急や一般の様な慌ただしさは無いだろう。しかし、一人当たりに要する身体的援助は決して少なくはない。寧ろ、寝たきり患者が多いため日常の殆どに介助を要する状態だ。口腔ケアや褥瘡や全身の保湿といった皮膚科処置は勿論、経管栄養の注入と回収、膀胱留置カテーテルの管理と交換、輸液類の管理等々。それらの看護処置を、足りない機材や物品に嘆きながら行っていく。合間に入るナースコールの対応もし、最後にはカルテへの記録も行わなくてはならない。そういった各種処置を受け持った患者の人数分行っていく事になるのだ。当然、人手不足であるほど一日に受け持つ患者の数も増えていく。時におむつ交換や体位交換も行う必要があるだろう。

 そして、常勤であればそういった業務の合間を縫って、看護計画の評価や中間サマリーの作成、カンファレンスの準備と受け持ち業務を前さなくてはならない。毎日が常時忙しいという訳ではないにしろ、求人を出すような施設において時間に追われずというのは中々難しいのではないかと瑞樹は思う。

 「いつからこんな風に思う様になったんだか」

 カルテへのサインをしつつ、瑞樹は独り言ちた。

 複数の業務課題が同時に進行する、という状態は医療業界では普通となっている。しかし、医療安全において、繫雑とした業務はそれ自体が事故のリスクだ。人間は機械ではなく、処理能力にも限界がある。だからこそ、減らせる業務や手順は積極的に提案していきたい。一人の看護師として、自分もそう思っていた筈なのに。

 (「だから私も含めた病棟全体が油断してしまっていたのよね。まさか一人で歩くなんてって。何事にも一生懸命な人なのは分かっていたのに」)

 瑞樹の脳裏に長橋の言葉が過る。繫雑とした業務に慣れ切った今の自分は、恐らく当時の長橋よりも油断しているだろう。一人で一階へ赴いた大沢にも気づけないに違いない。

 気づいたら、『思っていたのと違う』と声を上げる事すら忘れている。そんな自分を、瑞樹は口許だけで嗤った。

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