第13話
憂鬱な気分を抱えながら制服に着替えると、瑞樹はロッカールームを出た。職員専用と書かれた扉を出て、見通しの良い廊下へと出る。広い廊下の所々に行き交う職員の姿があり、その合間に外来室へと入っていく患者が見える。何も変わらない、いつも通りの光景のはずだ。
だが、中央階段へと向かう途中、瑞樹は不意に違和感を覚えた。何かが足りない。そんな気がしたのだ。一瞬、あの絵が無くなったのかと思い、第二外来室前の壁へと期待を込めて注視する。けれど、そこは件の絵画が掲げられたままだった。残念な結果に瑞樹の高揚した気分が落胆に沈んでいく。では、絵画でないとするならば、一体何が違和感を呼んだのだろうか。
道すがら、注意深く廊下を観察していく。そして中央階段の入口へと足を踏み入れた時、漸く瑞樹は気づいた。
患者の姿が無いのだ。それも、歩行リハビリをする入院中の患者の姿が。
普段であればリハビリスタッフの介添えの元、廊下を歩く入院着姿があちらこちらで見られるものだ。だが、今日に限ってはその姿が見られない。念のため、階段の入口から顔を出して覗いてみるも、やはり歩行リハビリ中の患者とスタッフの姿は無かった。数が少ないという事はあれど、日中に全く見られないというのはここ数年見た覚えがない。珍しいな、と思いつつ瑞樹は階段を上った。
そうして四階へと辿り着き、休憩室に荷物を置いてナースステーションへと顔を出す。すると、机の前に座っていた永田が瑞樹に気が付いた。
「今西さん、お疲れ様」
「お疲れ様です、永田さん。今日は何かありましたか? 」
「どの人も状態は落ち着いてるわよ。誰も転んだりしてないしね。……そうそう、転んだって言えば」
永田はそこで言葉を区切ると、瑞樹へ向かって手招きをする。瑞樹が近づくと、永田は声を潜めて話を続けた。
「リハの人から聞いたんだけど、院長からお達しが出たらしいわよ。一階の廊下での歩行リハビリを暫く中止しろって」
「そうだったんですか。丁度今下を通ってきて、歩行リハやってる人がいないなって思ってたんです。けど、それってやっぱり……」
「いくら対策立てても転ぶ人が後を絶たないでしょ。原因が分からないから、場所を制限するしかないって考えたみたい。あと、歩行能力の評価をもっとしっかりやれって頭ごなしに言われたみたいで、ちゃんとやってるのにってリハの人がすんごい怒ってた」
どうりでいなかったわけだ。永田の言葉で、瑞樹は漸く状況が理解できた。しかし、同時に疑念も湧く。
永田の言うように、場所の制限が一つの手である事は確かだ。第二外来室前での歩行リハビリが中止になれば、不可解な転倒は確かに減るかもしれない。だが、それはあくまでも対処療法でしかない事を瑞樹は理解していた。そもそも転倒は歩行リハビリだけの話ではない。総数としては少ないものの、第二外来室前では歩行リハビリ以外の患者や職員も転倒している。歩行リハビリ中の患者であるという事は、あくまでも転倒要因の一つでしかないのだ。第二外来室前という場所に潜む根本的な病巣を排除しない限り、転倒はきっと無くなりはしない。
そして、瑞樹には何となく分かっていた。その取り除くべき病巣が何処に潜んでいるのかを。
「永田さん、一つお聞きしてもいいですか」
「何、改まっちゃって。何でも聞いて良いよ」
「一昨日言ってたヤバい事故の患者さんって、大沢って方じゃなかったですか」
瑞樹の発した名前に、永田は腕を組んで首を傾げる。
「大沢、大沢ねぇ……そんな名前だったっけ。もう十年位は前だし、別の病棟の患者さんだったからよく覚えてないんだよね」
記憶を探る様に天を仰いでいた永田だったが、その顔が不意に瑞樹へと向けられた。
「十年位前のなら、医療安全のデータベースか何かに残ってるんじゃない? 確か五階か……三階の患者さんだったと思うわよ」
永田の言葉に、瑞樹はああ、と手を打った。言われて見ればその通りだ。十年ほど前の事故ならば、院内ネットワークのフォルダにレポートのデータが保存されている筈である。しかも、院内全体でのインシデント・アクシデントは多くとも、救急搬送となるレベルの事故は早々起こるものではない。大沢が五階病棟の患者であり、事故が八年前という事は分かっているので、探そうと思えば探せるはずだった。
「ありがとうございます。今夜あたり探してみますね」
「熱心なのはいいけれど、根を詰めすぎないようにだけは気を付けてね」
永田がそう言った瞬間、ナースコールの呼び出し音がステーションに鳴り響く。首に掛けたPHSでコールに応じると、永田はステーションを離れていった。一人残された瑞樹は、ひとまず夜勤の準備に集中すべく患者の情報収集に取り掛かった。
怒涛の様な業務を前し、気づけば時計の針は深夜とうに超えていた。ナースステーションで記録をしていた瑞樹は時計を見て立ち上がる。
「では休憩に入らせていただきますね。何かあったら呼んでください」
「はい、いってらっしゃい」
先輩看護師である真鍋への挨拶を済ませ、瑞樹は休憩室へと向かう。硬いソファに腰を下ろすと、一つ大きなため息を零した。
とても静かな夜だった。発熱に唸る声もなく、心電図モニターの音もしない夜など久しぶりだった。何もない静かな夜など滅多に遭遇することは無い。このままソファに横たわり、静けさに身を委ねてしまいたかった。だが、そうするわけにもいかないと、水分摂取もそこそこに瑞樹は重い腰を上げる。
休憩室を出ると、ステーションには誰もいなかった。真鍋は恐らく巡回に向かったのだろう。誰もいないステーションにうら寂しさを感じつつ、瑞樹はまず課長用デスクに向かう。そして、整頓されたデスクの中央に置かれた書類に手を伸ばした。
それは、昨日に発生した川村敦子のインシデントレポートだった。本来ならば前日のうちに見ておくべきだったのだが、様々な事に気を取られて忘れてしまっていたのである。その原因に思い至った途端、連鎖的に昨日の夜が思い出されて瑞樹はため息をついた。憂鬱さを振り払う様に頭を振り、改めてレポートに目を通していく。概要欄をみると、川村は一階の第二外来室前にて杖歩行の訓練中、右側の壁へぶつかる様に体勢を崩し、そのまま崩れる様に座り込んでしまったという。数か所の打撲に伴う内出血のほかに受傷はなし。転倒の原因としては杖の操作が未熟である事と、老齢による身体機能の低下が挙げられていた。
そして、彼女は他の看護師にも瑞樹と同様に話をしていたのだろう。レポートには引っ張られたという彼女の言葉もしっかり記載されている。だが、挙げられた原因を見るに、どうやらそれは転倒時の状態を誤認したものと判断されたようだ。そもそも、壁しかなかった筈の右側からどうやって引っ張られるというのか。本人の発言を聞いた誰もがそう考えるに違いない。それが普通の思考だ。
けれど、今の瑞樹は、自分がそんな普通から外れてしまっている事を自覚していた。
レポートを元に戻し、ステーションの中央にある机へと向かう。丸椅子に腰かけ、机に置かれたノートパソコンを開いた。電源は入ったままのそれを操作し、院内ネットワークを通じて三階病棟の医療安全委員専用フォルダにアクセスする。すると、探していた近藤正道のレポートは直ぐに見つかった。
朝の歩行リハビリ中に右側へと姿勢が崩れ、リハビリスタッフが支えたものの座り込む様に転倒。レントゲン上にて骨折などは無く、受傷は右膝の内出血班のみだったという。良かった、と瑞樹は胸をなでおろした。しかし、同時に見つけたある文章を見た瞬間、全身が冷水を浴びせられたかのように震えだす。
『本人より、「怖い顔したヤツが急に右側に引っ張ってきたんだよ」との発言あり』
そこにあったのは、高木和子や川村敦子と同じ発言だった。これで共通点が少なくとも三人分に増えてしまった事になる。転倒原因は身体機能の低下の他に周囲への注意散漫が挙げられていた。近藤の訴えを聞いて、実際に身体を引っ張られたなどと考えた者はいなかっただろう。
だが、今の瑞樹には、最早ただの偶然とは思えなかった。
三階のフォルダを閉じた瑞樹は、次に五階病棟のフォルダに入り、ここ数年分のレポートを纏めたデータを表示させていく。そして表示された患者名をざっと目で追っていき、ある名前を探していった。
「あった。大沢美登里」
目当ての名前は今から八年前のページに見つけることが出来た。大沢美登里は八年前の11月、一階での歩行中に杖を落とし、そのまま数歩進んだ地点で転倒。右大腿骨転子部骨折、並びに座骨骨折を受傷し近隣の総合病院へ救急搬送となったところで経過の記載は途絶えている。
昨日、長橋は「施設退院になっちゃったのよね」と言っていた。それは骨折に対し治療をしてから再び向井リハビリテーション病院へと転院し、リハビリの末施設へと退院していったという事なのだろう。このレポートにはその後の詳細は書かれていないが、長橋の言葉通りなら最後まで歩行が出来ないまま施設へと退院していったに違いない。
歩行リハビリを進めていた矢先の転倒。そして歩けなくなってしまった事は、大沢本人にとってどれほど無念だったかは想像してなお余りある。
大沢の転倒場所は、件の第二外来室前だった。レポートによると、転倒の要因の一つとして身体状況への理解が十分でなく、単独歩行の危険性を認識できていなかった事が挙げられていた。けれど、現状を理解していれば彼女の未来は変わったのだろうか。無断で歩くことは無く、転倒もしなかったのだろうか。脳裏に過ったもしもの未来に、瑞樹は首を横へ振る。危険だと分かっていても、きっと彼女は歩いただろう。危ないと知ったうえで、それでも強く願っていたのだから。
――もう一度、ちゃんと歩きたかっただけなのに、と。
レポートを辿りながら、瑞樹はこの二日間に見た夢を思い出していた。長く伸びた廊下を歩行する自分。重力に抗えぬ弱った足。視界は揺れ、為すすべもなく倒れていく身体。そして夢の中で瑞樹も願った、もしあの時身体を支える何かがあればと。
ディスプレイに表示されたままのレポートと、夢はとてもよく似ていた。身を抉られる程の悲痛で、恨めしい感情は今でもありありと思い出せる。そして夢の直後に現れた、憎しみに満ちた鏡の女。もしあの女が高木と川村が目撃した人物と同じであり、あの夢が女に恨みを宿らせた瞬間の景色であったならば。
自分が抱いている考えを、酷く馬鹿馬鹿しいと瑞樹も思う。相次ぐ転倒事故に悩む余り、思考の迷宮に迷い込んでしまっているのだとも。
だが、それでもと浮かんだ考えを、強く否定する事はできなかった。
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