第14話

 パソコンを閉じると、瑞樹は誰もいないナースステーションを出た。裏にある中央階段へ向かい、厚い防火扉に手を掛ける。ゆっくりと開いた扉から流れ込んだ生温い風が瑞樹の頬を撫でた。人一人通れる程の隙間に身をくぐらせると、音を忍ばせるようにして長い階段を下っていく。三階、二階と通り過ぎ、一階の広い廊下へと足を踏み出す。

 廊下は薄暗く、物音一つすら聞こえない静寂に満ちていた。非常灯の淡い緑色がリノリウムの床をぼんやりと照らしている。その薄明りだけを頼りに、瑞樹は静かな廊下を進んでいく。

 コツ……コツ……

 硬い靴音が広い廊下に響き、程なくして消えていく。誰に咎められるわけでもないのに、響く靴音に心臓が鼓動を速めていく。いっそ走り出してしまいたかった。けれど、走るわけにはいかなかった。騒音になるという常識的な理由もあるが、足が先に進む事を拒んでいた。進むことを、恐れていた。

 恐い。目的地を前にして滾々と恐怖が湧き上がる。纏わりつく風の温さがさらに恐怖を煽る。

 見えない何かを恐れる様に、たった数メートルの長いようで短い距離を、慎重な足取りで瑞樹は進む。

 そうして辿り着いたのは、横に三つ並んだ扉の前。その真ん中の扉の前に立つ。心臓が痛い程に弾み、自然と呼吸が粗くなる。頬を撫でる風は温い。なのに、全身が震えて仕方なかった。

 ごくり、と一つ喉が鳴る。粟立つ背筋に、視線を感じた。

 躊躇いに震える足を叱咤して、瑞樹はゆっくりと振り返る。恐怖に揺らぐ瞳に、一枚の絵画が写り込んだ。宵闇を背に向かい合う、翼を広げた二羽の白い鳥。電灯の下で見た時には雄大な翼の白が際立つ美しい絵だった。だが、夜の薄闇を通した今、見える情景はまるで異なっている。

 そこに描かれていたのは、鋭く釣り上がった激情に震える白い双眸。怒り、嫉み、恨みといった負の感情を溢れさせた、紛れもない“顔”だった。そして、その顔を瑞樹は確かに知っている。

 そこにいたのは、鏡の中に見たあの女の顔だった。

 「やっぱり、この絵は」

 恨みを宿した目を爛々と輝かせ、激情を纏った暗い女。この絵に描かれているのは、歩く自由を奪われた大沢美登里の怨念、いや無念そのものなのだろう。絵に宿った彼女の無念が近づく者達を引き寄せ、何人も転倒させているのだ。科学的根拠の欠片も無い荒唐無稽な話だが、瑞樹にはそう思えてならなかった。

 しかし、もし原因が彼女の怨念というのなら、どうすれば事故を止めることが出来るというのか。

 薄暗い廊下の中で、瑞樹は一人迷い続ける。ここに来れば何かが分かると思っていた。事故の根本原因も、その解決策も。大沢の無念を知る自分には出来ることがあると思っていた。しかし、いざ彼女の負の感情を前にして、何が出来るとも思えない。

 所詮はただの思い上がりだ。自分は一介の看護師で、酷く頼りない存在なのだ。自分の中の傲慢さに瑞樹は強く打ちのめされた。その時だった。

 ぞわり、と臓物を撫でられる感覚。それは過ぎ去るどころか、少しずつ、そして確実に増していく。反射的に顔を上げれば、釣り上がった双眸がキラキラとした細かに輝いている。小さな輝きは少しずつ変化を繰り返し、それぞれの翼の中央で丸い輪を形作った。幅の広い輪はまるで光の花が咲いたかのようだった。その中央にあるのはどこまでも深い影の穴。

 その穴が、ぎょろりと瑞樹へ向けられる。

 「えっ……!? 」

 見られている。いや、覗き込まれている。

 ぎょろり、ぎょろりと動く穴。生物的なその動きは人間の瞳孔を思わせた。大きな一対の目が瑞樹を捉えて離さない。絶えず向けられる視線は瑞樹の中を抉り出し、抱えた恐怖を曝け出そうとするかのようだった。視線はさらに体の奥へと潜り込み、瑞樹の目を、顔を、身体を縫い留め自由を奪う。初めて絵を見た時に感じた感覚が気のせいなどではなかったと、ここに来て漸く思い知った。

 逃げなくては。心は逃避を願うのに、指先すら動かせない。見たくないと祈るのに、目線を逸らせないでいる。叫びたいと震える喉は、細い息を吐くだけだった。

 ぎょろり、ぎょろりと目は動く。厚みなど無い平面のはずなのに、まるで絵から飛び出してきそうに思えた。

 ――その瞬間、平面だったその目がぼこっと大きく膨らんだ。

 瞠目する瑞樹の眼前で、白い眼玉は少しずつ質量を増していった。人間の二回りほどはある巨大な目玉が晒されると、その下から鼻が、口が現れる。そして暗い肌が見え、その後ろに引きずられて大量の毛髪がずるりと出てきた。

 なんだ、この女は。瑞樹は声なき悲鳴を上げた。恐怖で身体は震えるのに、視線は目の前の光景を見続けている。壁からすり抜けるようにして、胴体や腕、足が現れる瞬間までもがしっかりと見えていた。体の大半はやせ細った人間の女なのに、顔についている二つの目だけが異様に大きい。まるで度の強いレンズを通して見ているような大きさに思える。

 その人間の様なものはふらふらと立っているばかりだったが、暫くして震える獲物に気づいたらしい。常人の三倍はあろうかという長い両手を真っ直ぐに伸ばし、瑞樹の元へと近づいてきた。

 「やっ……来ないでっ! 」

 一歩、また一歩と、それは確実に近づいてくる。歪んだ関節がみし、みし、と音を立てた。よたよたとした足取りは、生まれたての小鹿の様だ。女の動きは遅く、今なら逃げられると瑞樹は足に力を入れる。だが恐怖に竦んでしまったのか、いくら力を込めても足が動くことは無かった。少しずつ近づく女の、伸ばされた手が迫ってくる。細く、皺の寄った指先を避けようとして、硬い感触を背中に感じた。鍵のかかった外来室の扉が、がたりと大きく音を立て、それ以上の後退を許さない。

 どうしよう、一体どうすればいい。迷う瑞樹の眼前で、女の細い指が白い瑞樹の腕を捉える。捕まえた。そう言わんばかりに、女は爛々と眼光を輝かせた。腕を掴む指は凍える様に冷たく、身に触れた恐怖と混乱に全身の肌が粟立つ。腕を掴んだ細い指に段々と力が込められていく。にたり、と女の口元が弧を描いた。

 その瞬間、掴まれた腕が勢いよく引っ張られ、瑞樹の身体が大きく前のめりになる。危うく転びそうになったが、あと一歩のところで踏ん張った。それが気に入らなかったのか、女は引く力をさらに強める。瑞樹は立ったまま、ずるずると女の方へ引っ張られていった。

 「嫌だ!……嫌だ! 」

 あらん限りに叫ぶ。誰かこの声を聞いてくれないだろうか。けれど願い空しく、瑞樹のもとを訪れる足音は聞こえない。そうしているうちに、女の姿が近づいてくる。じりじりと、確実に。二人の距離はもう幾ばくも無かった。

 あと数歩という距離まで近づき、瑞樹の脳裏に諦念が過り始めた時だった。引き寄せられる力に抵抗しようとして、瑞樹の視線が下へ下がる。少しだけ下がった視線が捉えた女の胴体が、この病院の入院着を着ている事に気づいた。

 その瞬間、化物じみた女の顔に、鏡の中に見た女の暗い顔が重なる。

 「や、やめてください……大沢さん! 」

 気が付くと、瑞樹は女を大沢と呼んでいた。引き寄せる腕が止まり、掴む指の力が弱まる。慄きながらも女を見れば、ぎょろりと動く目の輝きがどこか揺らいでいる様な気がした。

 「大沢さん、なんですよね。あなたはやっぱり、苦しかったんですね」

 今度は確信をもって瑞樹は女を呼ぶ。反応はない。だが、それこそが答えだと思った。

 「夢で見ました。あなたは努力していた。退院に向かって、一生懸命に歩こうとしていた。だからこそ、辛くて、苦しかった」

 もしかすると帰ることが出来たかもしれなかった。慣れ親しんだ自宅で、自分の足で歩いての生活を望んでいた。本当は、自分の足で歩いて帰りたかった。とても強い女性だったのだ、大沢美登里は。だからこそ怒り、恨み、苦しんでしまった。転んでしまった事に。そして、歩けなくなってしまった事に。

 絵に宿った彼女の思いは、この場所で大勢の患者や職員を目にしてきた。見通しの良く広い廊下を大勢の人々が歩いていく。時に自由に、時に不自由に。彼らの姿に、慣れ親しんだ自宅で過ごしていた頃の自分や、希望と意欲を胸にリハビリに励む自分を彼女は重ねていたのだろう。

 けれども、転んでしまった彼女の無念にその光景は眩しすぎた。そうして、生まれた嫉みが、この場所を通る者達を転ばせていったのだ。

 彼女が歩くのを止められたかは分からない。だが、全てが変わってしまったあの瞬間に、せめて傍に誰かがいれば、結末は違っていたのかもしれない。

 「私にはあなたの苦しみが分かるなんておこがましい事は言えません。けど、きっと計り知れないくらいにあなたは苦しんだ。それだけは分かります。私に言えるのは、あなたと同じ人を増やさないようにするという決意だけです。もうこの場所で転んで、苦しむ人が出ないように、努力していきます。だから、もう恨むのも、嫉むのもやめてください。お願いします」

 恐怖に震えながら、瑞樹は静かに頭を下げた。今この場で彼女に何が出来るかを考えて、結局はそれくらいしか思いつかなかったのだ。腕は掴まれたままだったが、引き寄せる力は失われていた。それでもなお、瑞樹は頭を下げ続ける。苦しみの全てが分からなくとも、傍に寄り添っていたかった。頭上にある大沢の顔は見えないが、力の抜けた細い指に瑞樹は許されたような思いがした。

 ――それから、どれほどの時間が過ぎただろうか。動かない大沢が気になり、瑞樹は顔を上げていく。ゆっくり、ゆっくりと。その目に大沢の白い目が映る。

 散らばっていた輝きが、ぎょろり瑞樹を見下ろした。

 「……痛っ! 」

 腕を掴む細い指にぎゅっと力が入った。骨ばった指の隙間から、みしりと嫌な音が鳴る。余りの痛みに、瑞樹は体を捩って逃げ出そうとした。けれど、腕を掴む指は逃れることを許さない。どうにか離れられないか、その一心で瑞樹は更に身を捩る。そんな必死の様を嗤うように、腕が前へと引き寄せられた。

 「そんな、何で!? 」

 困惑と共に仰ぎ見た大沢は、嗤っていた。口許に悍ましい笑みを浮かべ、首を伸ばして見下ろす様に覗き込んでくる。まるで捕まえた獲物を見るように。逸らせない視界の中で、笑みを浮かべた口が緩く開いていく。どろり、と開いた口から涎が滴り、瑞樹の腕を広く濡らした。皮膚の上を伝う生温さに、全身の肌が総毛立った。

 嫌だ、嫌だ。声にならない悲鳴を吐きながら、瑞樹は何度も頭を振って身を捩る。座り込みそうになる体を、足の踏ん張りだけが支えていた。引き寄せられ、足を踏み込み、それでもなお引き寄せられ。

 そして、気が付くと大沢の顔は瑞樹の鼻先にあった。もう駄目だ、逃げられない。

 ――……い……くい……

 その時、何かが聞こえることに瑞樹は気づいた。女を見ると、緩く開いた口から微かに声が漏れている。どうにもよく聞こえないのは、耳が聴く事を拒否しているからだろうか。

 ぎょろり、ぎょろりと瞬く女の目。その中央にぽっかりと空いた影の穴に、恐怖に歪んだ瑞樹の顔が写り込む。これがお前の最期なのだと、嗤う視線が告げていた。嫌だ、死にたくない。嫌だ。目の前の現実から逃げるように、瑞樹は強く瞼を閉じる。 

 こんなはずではなかった。思っていたのと違う。こんな大沢を、現実を、瑞樹は予想だにしていなかった。どうしてこうなってしまったのだろう。どうして、私は、ただ。

 ただ、事故を止めたかっただけなのに。


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