第15話
「今西さん? 何してるのそんなところで」
え、と漏れた声。あまりに呆気ないそれが自分のものだと、瑞樹には暫く理解できずにいた。
暫しの沈黙を置いて漸く理解が追い付くと、腕を掴む指の感触が消えている事に気がついた。聞こえてきた声以外に音は無く、周囲がやけに静かだった。恐る恐る瞼を開く。すぐ目の前に釣り上がった白い双眸が見え、踏ん張ろうと力を入れた足が体を後ろへ弾き飛ばす。
「うわっ! 」
どすん、と大きな音がして、臀部に衝撃が走る。次いで訪れた痛みに呻いていると、直ぐ近くから駆け寄ってくる足音が聞こえた。
「ちょっと、大丈夫? こんなところで一体何してたの? 」
背中に添えられた手に瑞樹の体が大きく跳ねる。手の持ち主は驚いたらしく、触れていた温もりが背中から離れて行った。しかし、直ぐにまた優しく添えられ、何度も背筋を撫で擦られる。上下する手の感触に会わせて息を吐き、吸い、そしてまた吐いた。
そうやって何度か呼吸を繰り返した頃、漸く思考が現実を追いかけ始める。ゆるゆると目線を彷徨わせると、薄暗い夜の世界に見知った顔が困惑の表情で瑞樹を覗き込んでいた。
「大丈夫? 私が分かる? 」
「長橋、課長……」
「良かったぁ! 暗い廊下に一人で立ってると思ったら急に尻餅つくんだもの。びっくりしたわよ」
座り込んだ瑞樹を支え起こすと、長橋は床に置いていた資料の束を抱えなおした。そうして再び瑞樹の方へと向き直り、朗らかな声で笑う。静謐な夜の空間には場違いなほどに明るい声に、身体を支配していた恐怖があっという間に霧散していった。凍えていた体の中に熱が戻り、視界がじわりと滲んでいく。溜まった涙は呆気なく零れ、幾重もの筋となって頬を伝った。
「あらあら、本当にどうしたのよ! 」
「ちが……違うんです。何でも、何でもないんです」
口にした言葉とは裏腹に、瑞樹の涙は止まることはなく。その顔に笑顔が戻ったのは、流せる涙も枯れはてた頃だった。
「すみません、お恥ずかしい所を」
「それは良いんだけど、本当に驚いたわよ。もしかして、なんか変なものでも見ちゃった感じ? 」
潜めるような言葉はその実、本当に見たという可能性すらも想定してはいないのだろう。少しおどけた調子を含ませ長橋は問いかけてくる。しかし、闇に溶けるほどの微かな声は、忘れかけていた確かな恐怖を瑞樹に思い出させた。
問いかけに返事はぜず、首だけを動かし横を向く。少しずつ、ゆっくりと。そうして流れていく景色の奥から、一枚の絵画が入り込んできた。夜の薄闇を隔てた先にあるその絵を、人は宵闇を背に向かい合って羽ばたく二羽の鳥だと見るだろう。だが、やはり瑞樹には怒りに釣り上がった白い双眸にしか思えなかった。
「この絵が、ちょっと」
「この絵? 確かに暗いとこでみるとびっくりするわよね、これ。羽ばたく鳥が迫力満点だもの」
きっと相当気合いをいれていたんでしょうね。そう言って笑う長橋に、瑞樹は頷くことが出来ずにいた。沈黙が落ち、廊下から一切の音が消える。耳が痛むほどの静寂を、瑞樹が扱いかねていた時だった。
「……けど、どこか怒ってるような顔に見えるのは、私が大沢さんと関わっていたからなのかしらね」
静寂の隙間から零れた声が瑞樹の耳に届く。振り向くと、長橋の口許に寂しそうな笑みが浮かんでいた。
「あの頃は人が本当に少なかった。本当にギリギリの人数しかいなくてね。内科の外来診療も漸く二年目とはいえまだ手探りな部分もあって。それで少ない人員から更に人が割かれて行ったの。そのせいで通常業務すら滞りがちになるくらいで、誰もが疲れてしまっていたわ。そのうちに、いつの間にか目の前にいる患者さんの姿すら眼に入らなくなっていた。それではいけないと気付いていたのに、長い間どうすることも出来なかった」
今なお慢性化の一途を辿る人員不足。それは、何年か前まではより顕著であり、さながら野戦病院のようであったというかつての様相を、幸福なことに瑞樹は知らない。なにぶん入職前のことだ。囁かれていた断片を伝聞として耳にした程度である。しかし、かつてを語る長橋の遠い目が、当時の困窮した状況が現実のものであったのだと如実に物語っていた。
他の多種多様な職種同様、病院の運営というものにも資金繰りは悩みの種だ。新型コロナウイルスはそれを顕著にしただけで、ウイルスの流行前から国の医療財政は悪化の一途をたどっていた。特に財政を圧迫する高齢者医療とのかかわりが深い療養型病院・病棟はその存在から議論の的になる事も多く、病院の存続と収益の確保はいつの時代も課題であった。しかし、新たな収入源の開拓というものは決して容易ではなく、ならばと節制に努めようにも衛生用品といった消耗品の購入や、施設維持費等による一定の消費は避けられるものではない。
そうして極められていく困窮の中で、向井リハビリテーション病院は一つの光明を見出した。それが、内科の外来診療の開始である。だが、その光明は余りに眩しく、足元を見えなくしてしまっていたのだ。
昔から人が居着かない。永田がそう語ったように、当時の病院は少ない常勤とパートタイマーによって病棟業務を回していた。そこへ、外来診療という業務の追加が決まったのである。恐らくは開始に伴い人員の募集をかけただろう。だが、募集をかけても人が来ないというのは決して病棟に限った話ではなかったと、当時の長橋達は思い知る結果に終わったのだ。そうして始まった病棟との兼任という二重三重の勤務状態は、病棟の人員不足に更なる拍車をかけていった。
しかし、提供する医療の一定水準を保つ為には人員に関わる不足は避けられるべきというのは国も承知するところだ。そして、極端な不足が防がれるように対策も講じられている。
患者に対する医師や看護師といった医療従事者の割合は、医療法上における人員配置基準において、その標準が定められている。療養型病床であれば、患者四人に対し看護師一名といった具合で、これは週に四十時間以上の勤務に就く常勤のみを対象とした換算となる。また、人員配置基準とは別に診療報酬における入院基本料の算定において、看護師一人に対する患者数が少ないほど得られる点数を高くすることで、より充実した人員の配置がなされるよう取り計らってもいる。これらの施策が成されていれば、極端には至らないのではないかと誰もが思うだろう。だが、それはあくまでも数字の上での話である。
例えば、常勤の人員配置を人数ではなく勤務時間で判定する常勤換算という基準が存在する。これは四十時間分の労働力を満たしていれば、一日の勤務時間に個人差があるパートタイマーが複数合わせて常勤一人分として捉えられることも可能とする換算方式だ。しかし、現実として短時間のパートタイマーと常勤では受け持ち患者に関わる業務の有無や、一日の担当患者数を始めとする実際の労働量に差が生じやすい。単純な時間としての辻褄だけが合っていても、総合的な労働量のバランスに大きな差を生じかねないのである。
かつて、向井リハビリテーション病院ではパートタイマーを重点的に雇い入れていた。常勤と違い比較的入職率が高く、また人件費も少なくて済むという理由からだったそうだ。だが、雇い入れた少ない人員も結局は外来診療に回され、病棟の増員にまでは至らない。そうしてギリギリの淵で保たれていた病棟のバランスはさらに悪化していったと長橋は言う。
「全員が疲弊して、麻痺していた。大沢さんの前にも転倒事故があったけど、それでもこの現状はどうしようもないんだとその時は皆が思ってしまったの。けど、大沢さんが転倒して、そこで漸く上も動いてくれた。けど本当は、もっと早く声を上げるべきだったのに。けどやっぱり自分達にはどうしようもなかったって意識が根付いていたのよね。原因の一つだと分かっていたのに、それを分析の場に出すことが出来なかったの」
だから、あのレポートは不完全なのよ。そう言って苦笑を浮かべた長橋の、真っ直ぐな目が瑞樹を見た。
「レポートを見たこと、ご存知だったんですね」
「なんとなくね。大沢さんの話はしてあったし、もしかしてと思って」
長橋が見せた茶目っ気のあるウインクに、瑞樹の口許は自然と笑みの形になる。漸く心が現在に戻ってきた気がした。笑顔になった美咲へ優しく微笑むと、長橋は再び目線を絵画へと向ける。
「大沢さんね、戻ってきたとき笑ってたのよ。面倒をおかけしてすみませんって。あの時の私にはそれ以上聴くことが出来なかったわ。退院するまで、ずっと。けれど、本当は怒りに震えてたのかもしれない。誰よりも近くに居た私達が、あの人の心に耳を傾けられなかった事に」
「それは、一人で一階へ行かせてしまったことも、ですか」
「そうよ。あの人は歩きたかったのに、私たちは誰もあの人の思いに気づかなかった。この後悔は、一生抱えて行こうと思うの。けどね」
言葉を止め、長橋は瑞樹を振り返る。長橋は、静かにほほ笑んでいた。しかし、その目には鋭い光が宿っていた。
「あの人の事故から何も学ばなければ、それこそあの人は怒ったでしょうね。後悔のままで止まっていたら、あの人の事故も、思いも、全てが無意味に終わってしまう。もしかすると、この絵はこう言っているのかもしれないわね……『私の存在を、なかった事にしないで』って」
敵わない。瑞樹は内心でそう思った。この場でかつてを振り返り、後悔し、それでもなお前を向く彼女は本当に強いと。
「お強いですね、課長は」
「そんなことないわよ。あの日向き合えなかった分、目の前の事に向き合おうとしてるだけ。今西さんと同じようにね」
長橋の言う意味を図りかねて、瑞樹は首を傾げる。そんな瑞樹の肩を叩くように、長橋は手を乗せた。
「今西さんがここへ来たのも、大沢さんや、最近の事故と向き合おうとしてくれたからでしょ。どんな事故にだって、まずは向き合わなければ何も始まらないもの」
そう言って、長橋は笑みを深めた。事故と向き合ってきた一人の看護師が見せた、深く優しい笑みだった。
けれど、瑞樹は長橋の笑みを見ていられず、俯いた。気づいたのだ、自分が何も見ようとしていなかった事に。
大沢に再び腕を引かれたあの瞬間、瑞樹は思った。思っていたのと違う、と。自分の思う大沢美登里なら、あの瞬間に思いとどまってくれるものだと思っていたのだ。
だが、それは大きな過ちだった。大沢は瑞樹の想像の幻などではなく、実在した人物なのだ。そして、彼女には彼女の思いが、考えがある。それは必ずしも瑞樹の想像通りとは限らない。なのに、思っていたのと違うと考え、否定されたと感じてしまった。それこそ、目の前の存在を見ようともしていなかった証左だろう。
「『思っていたのと違う』のは、当たり前だったんだよね」
向き合うどころか、見る事すら忘れてしまっていた。大沢の存在が見えていなかった、かつての長橋らと同じように。自分の中に持つ枠に納めようとして、それぞれの人間が持つ感情や思考の存在を否定してしまっていたのだ。そんな自分を、瑞樹は恥じた。教えてくれたのはきっと大沢だけではない。業務過多となっている病棟の持つ歪みに気づき、辞めていった人々もまたその事を教えてくれたのだ。
向き合わなければならない。全ての有害事象や、そのリスクと。その為にはまず、見ようとしなければ始まらないのだ。自分の中に欠けていた物に気づき、漸く瑞樹は長橋の顔を見ることが出来た。
「私は向き合えてませんでした。見ようともしていなかった。だから、まずは目の前の事を見ようとすることから、もう一度始めて行こうと思います」
「わかりました。一緒に頑張りましょうね」
そう言って朗らかに笑う長橋へと、瑞樹も笑顔で応える。薄暗い廊下が、暖かな空気で満たされて行った。
ひとしきり笑い合うと、瑞樹は廊下を見渡す。今、ここでの転倒の原因を分かっているのは瑞樹だけだ。そして、解決策を知っているのも。だが、それはあまりに荒唐無稽な話でもある。絵に宿った大沢の怨念が人を引きずり、次々と転倒させていったなどと信じる者は少ないだろう。
けれど、歩行リハビリでの廊下使用の中止、という対処法を今後も続けられるとは思えない。転倒が一時的に減少できたしても、暫くもすれば再開の話が出るだろう。その時にこの絵画を掲示していれば、再び転倒が頻発してしまうはずだ。
どうすればいいのだろう。俯き、唸り始めた瑞樹の肩が、不意に軽く叩かれる。顔を上げると、長橋が興味深そうに瑞樹を覗き込んでいた。
「ねえ、今西さんは此処での転倒対策、どうしたらいいと思う? 」
長橋のどこか楽し気な視線に、瑞樹は一瞬答えに窮する。まさかこのタイミングで聞かれるとは。余りの唐突さに、口をぽかんと開けた間抜け面を晒す事になった。
「どうして、急にそんなことを? 」
「何となく、今の今西さんならいい案が思いついてそうだと思って」
屈託のない笑顔を向けてきた長橋に、瑞樹は思わず苦笑する。確かに、一つ腹案はある。だが、それを正直に話していいものだろうか。話したところで、信じてもらえるとも思えなかった。だが、続きを促す様に沈黙する長橋を見て、瑞樹は腹を決める。ここで言わなければ、今後誰が言えるのだろう。きっと、今が最後のチャンスなのだ。
「一つ、提案があるのですが……」
瑞樹の口にした提案に、長橋は笑顔で頷いた。
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