第16話

 長い一夜が明け、ナースステーションに日勤者が続々と集まってくる。食事介助を終えて最後の痰吸引から戻ると、永田が笑顔で声を掛けてきた。

 「おはよう今西さん。夜勤どうだった」

 「皆さん落ち着かれてました。何も、なかったですよ」

 「そう。なら良かったわ」

 永田はそう言うと、朝の準備をしにステーションの奥へと消えていく。瑞樹は机で最後の記録を書きつつ、申し送りの時間を待った。

 暫くペンを走らせていると、カチリと時計の針が鳴る。見ると、ステーション中央の丸時計が八時五十分を指していた。瑞樹は立ち上がり、真鍋と共に申し送りを始める。とはいえ、患者達に特筆すべきことは無く、四階病棟は実に平穏な夜だった。その旨を滞りなく申し送ると、やがて始業時間を迎えた日勤者達が一斉に病棟へと散らばっていく。その様子を見送り、瑞樹は再び机に向かった。

 粗方の記録を記載し終え片付け、残すところも最後の一冊となった頃。机に向かっていた瑞樹の肩が不意に叩かれる。

 「そうそう、今西さんに言いたいことがあったのよ」

 「何ですか? 永田さん」

  背後に立っていたのは永田だった。座ったままの瑞樹を見下ろし、永田は口を開く。

 「昨日言ってたヤバい事故の患者さん。名前は忘れちゃったけど病棟だけは思い出したのよ」

 「それって、五階の大沢美登里さんって方ですよね。昨日調べたら名前が見つかりました」

 「え? 私が言ってた患者さんって確か三階だった気がしたんだけど、その様子だとやっぱり記憶違いだったのかしらね」

 ごめんね、と軽く頭を下げて永田はステーションから出て行った。既に解決してしまった事とは言え、永田が気にしてくれていた事がありがたかった。今度何か礼でもしようと思いつつ、最後の一冊を書き終える。瑞樹は椅子から立ち、硬くなった体を伸ばした。そして机の上を片付けると、課長の久保田に挨拶をして休憩室へ向かう。荷物を取り出してステーションを出ると、中央階段へ続く防火扉に手をかけた。

 薄暗い階段を一息に駆け下り、一階の踊り場から廊下へ出る。そして、ロッカールームとは逆方向に足を向けると、少し進んだ先で立ち止まった。そこは、件の第二外来室の前だった。瑞樹は外来室の扉に背を向け、向かい側の壁を見る。

 そこにあったのは、手すりの付いた薄いクリーム色の壁だけだった。他には、何もない。汚れの一つも無い事を確認し、瑞樹は更に足を進めた。外来を超えた先、総合受付を通り過ぎ、その奥にある待合スペースへと向かう。待合スペースには濃い赤色の布が張られた長椅子が並び、既に何人かの患者が座って順番を待っていた。そのさらに奥は行き止まりとなっており、自動販売機やテレビカードの販売機といったものが幾つか据え置かれていた。

 そして、それらの中央に空いたスペースの壁に、一枚の絵画が飾られている。暗い宵闇を背に向かい合う二羽の白い鳥が、大きな翼を広げている絵だ。四方を囲む額の下には『寄贈 大沢美登里』とあった。

 その絵はまさしく、第二外来室前にあったはずの大沢の絵画だ。

 「院長に言ってみたのよ。折角の絵ですから、もっと大勢の人に見てもらえる場所に飾りませんかって」

 背後から聞こえた声に振り返ると、そこには笑顔を浮かべた長橋の姿があった。

 「ここなら皆座ってるし、座りながら見るだろうから驚いて転ぶって事も無くなるわよね」

 「そうですね。ありがとうございました、課長」

 瑞樹は長橋に頭を下げる。その胸中には、安堵の温もりが広がっていた。

 昨晩、長橋から対策について聞かれた際、瑞樹が進言したのは当然ながら絵の移動についてだった。どう説明しようか迷った末に、やはり正直に言うべきではないと判断した結果がこうである。

 『クリーム色の外壁に暗い背景、その上に白い鳥とコントラストの差が強めの絵だと思います。それにより、歩行中の患者様の注意を引きやすく、その結果として姿勢を崩し、転倒に至っているのではないでしょうか』

 作者の意図しない視覚効果が転倒を起こしている。そうした瑞樹の説明に、長橋は了承を返した。そして、一日だけ待って欲しいと返答があったのだ。それくらいなら余裕で待つつもりだったが、まさか一晩で対応して貰えるとは瑞樹も思っていなかった。

 「あ、後で村瀬さんにあったらお礼言っておいてね。彼女も一緒に院長に言ってくれたから」

 「村瀬さんもですか? でも、どうして」

 思いもよらぬ登場人物に、瑞樹は瞠目して長橋を見る。長橋は、そんな瑞樹を見て堪え切れなかったのだろう笑いを零した。

 「何その面白い顔。院長の所に行くときに偶然会ってね、あなたの意見を話したら「私もそう思います」って言って一緒に言いに行ってくれたのよ」

 「そうだったんですね。後でお礼を言いに行かなきゃ」

 「そうしといて。あと、院長が言ってたんだけど、大沢さんのご家族がいらした時にこう言っておられたらしいの。大沢さんは本当に恨んでなどいなかった。歩けない分、絵の中で羽ばたこう、希望は常に持とうというつもりで描かれた絵だったって。私、どこにでもあるような絵だなんて失礼な事言っちゃった」

 ごめんなさいね、大沢さん。そう言って長橋は寂しそうな顔をした。

 「これで転倒が減るといいんだけどね」

 「減るかどうかは、今後の私達の頑張り次第だと思います。私達が事故やリスクに向き合っていくかどうか、この絵もきっと見ていると思いますから」

 瑞樹の決意に、そうね、と長橋が頷く。入り口から入る光が当たり、描かれた翼が白く輝いていた。


 それが夢であると、今度はすぐに理解できた。

 広い廊下の端で、瑞樹は一人倒れていた。身体中が痛みに呻いている。特に右足とお尻の辺りだ。しかし、立ち上がらなければならない。立って、病棟に戻らなければ。けれど、身体を動かそうとしても、痛みがそれを許さない。瑞樹は冷たい廊下に倒れているしかなかった。

 ああ、どうしてこうなってしまったんだろう。強い後悔が瑞樹の胸に去来する。分かっていたのだ、今の自分が満足に歩けない事は。一人で歩けばどうなってしまうのかは。だから、この痛みは当然の結果だった。押し寄せる後悔が、目の前の景色を滲ませる。瑞樹はひたすらに叫び出したかった。痛い、辛い、悔しい。そして痛い。時が過ぎる程、激痛と後悔は積み重なっていく。けれど、その根底にあるのはやはり、たった一つの願いだけだ。

 ただ、歩きたかっただけだった。自分の足で、また歩けるようになりたかった。

 やがて、誰かの叫び声がし、遠くから足音が聞こえてきた。駆け寄ってきた足音は、瑞樹の傍で“何故”と“どうして”を繰り返す。僅かに湿り気を帯びたその声は、瑞樹の胸中に強烈な感情を沸かせた。

 そして、感情のままに、瑞樹は手を前へ伸ばした。

 ――見慣れた天井へと伸ばした手が、目覚めた瑞樹の視界に映る。どこか薄暗い天井は、カーテンから漏れる光で淡い青に染まり、まるで深い水底のようだった。半ば夢の続きを見ている様にぼんやりとした意識の中で、瑞樹は深い水底をゆらゆらと漂っていた。

 その時、軽快なアラーム音が水底に響き渡る。途端に意識は冴えわたり、瑞樹は水底から急速に浮上した。

 がばり、と布団を剝いで起き上がると、頬を生温い雫が伝ってゆく。雨漏りかとも思ったそれを指先で辿って行く。そうして右目へと辿り着き、流したそれが涙であると瑞樹は漸く気が付いた。

 けれど、これは誰の涙だろうか。頬に指先を添えたまま、瑞樹は思考を巡らせる。思い出すのは、夢の自分が辿った感情。痛みの合間に押し寄せる辛さ、悔しさ。夢から覚めた今も、それらの感情はありありと思い出すことが出来る。だが、最後の最後に抱いた激情とも云うべき感情は、何故だか記憶に残っていない。残っているのは、強い感情があったという胸中の残り香だけだ。けれど、どの感情もきっと自分のものではない。

 瑞樹は手で涙をぬぐい、大きく頭を振る。この涙が誰のものなのかを、今の瑞樹は一人しか知らなかった。

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