第17話
病棟では漸く起床時間を迎えたという頃の早朝。職員通用口から続く廊下に、ロッカールームへと向かう瑞樹の姿があった。夢から覚めて暫く経った頃、不意に記録の記載漏れがあった事を思い出したのだ。後々からこうして思い出す事は決して珍しい出来事ではない。なので、大抵は電話での報告か次回出勤時での追記で事足りるのだ。
けれど、今回はどうしてか出勤日を待つ気になれず、こうして早朝の病院に休日ながら赴いたのである。
陽はとうに昇っていたが、それでもあまりに早すぎると言える時間帯だ。病棟ではないにしろ、物音を立てるのは憚られた。瑞樹は音を押し殺すように、忍び足で廊下を進んでいく。突き当りの手前にあるロッカールームの扉を開くと、そろりと中に入りこんだ。すると、誰もいない筈の奥に明かり灯り、何やら物音が聞こえる。瑞樹は慎重に、ロッカーの合間を進んだ。
立ち並ぶロッカーにぶつからぬよう慎重に進む。そして灯りの下へ出ると、そこには既に先客の姿があった。
「あ、村瀬さん。お疲れ様です」
「お疲れ様」
丁度服を着替え終えた村瀬に、瑞樹は頭を下げる。
「さっき長橋課長から伺いました。絵の移動の事、院長に言ってくださってありがとうございます」
「いいえ。あなただって聞いて、やっぱりねって。それに、あのまま見てると思い出しちゃうのよ、あの事故の事」
「あの事故って、大沢美登里さんの事故ですか? 」
「違うわ。……西川、って言っても、あなたは知らないわよね」
西川。その名前を、瑞樹はどこかで聞いた気がした。一体どこだっただろうか。
「西川さんって、三階の患者さんだったんですか」
「ええ。自宅退院を目指して歩行リハビリをしていてね。本人はリハビリをやる気満々で、病棟でも歩行訓練したいって言ってたの。けど、あの頃は外来が始まったばかりで本当に人手がいなくて。病棟には歩ける患者さんがそれなりにいたから、それで余計に焦っちゃったのよね。いつの間にか一階で歩くようになってたの。極度の遠視があるから危険だって言われてたのに」
そうだ。瑞樹は漸く思い出した。近藤のリハビリスタッフが言っていた遠視の転倒患者、それが西川だったはずだ。
「その方も、もしかしてあそこで転倒されたんですか? 」
「そう。見つけたのは村瀬だった。夕食を過ぎた頃に姿が見えない事に漸く気づいて、一階で倒れてたのが見つかったの。骨折してたから救急に行ったんだけど、九十という年齢もあって手術も出来なくて……それが十年前の話。転院先から歩けないまま帰ってきて、一年くらい後に亡くなったわ」
村瀬の話に、瑞樹は思わず絶句した。大沢の事故が八年前で、西川が十年前だ。つまり、救急搬送を要する程の重大事故が、たった二年の間に二回も発生していた事になる。それも、同じ場所でだ。偶然とはいえ、少し不気味だった。
「戻ってきた後は、極端に口数が減っちゃって、あまり話をすることも出来なかった。けど、表に出せなかっただけで、内心は怒りに震えてた。誰も見ていなかった、傍にいなかった。だから、転倒してしまったのだし……」
あれ? 村瀬の話が進むにつれ、瑞樹は妙な違和感を覚えた。
自宅体位を目指して歩行リハビリを行っていた患者。人手が不足していた頃に一階で転倒。その後歩行困難となった事故の当事者。大沢と西川は不思議なくらいによく似ていた。違いと言えば、事故後にスタッフ対して抱いていただろう感情くらいだ。例えば、強く激しい恨みの有無。
――あれ?
口元に手を当て、瑞樹は思考の海へ潜る。何かが確実におかしかった。自分は、一体何を見落としているのだろう。
(「大沢さんは本当に恨んでなどいなかった。歩けない分、絵の中で羽ばたこう、希望は常に持とうというつもりで描かれた絵だったって」)
そうだ、恨みだ。瑞樹はひゅ、と息を呑んだ。
大沢は恨みなど抱いていなかった。少なくとも、家族にはそう伝えていた。それが本心であるならば、少なくとも後年に描かれたあの絵には怒りや恨みといった感情が宿る理由はない。
だとすれば、絵に宿っていたのは何だったのだ。
釣り上がった目に宿っていた負の感情は、憎しみは、恨みは、嫉みは、一体誰の感情だった。
そもそも、夢に見ていた転倒の記憶、あれは一体誰のものだった。
――大沢だと思っていたあの女は、誰だ。
「……あれ? 」
気が付くと、瑞樹の前には誰もいなかった。すぐ目の前にいたはずの村瀬の姿が何処にもない。それ以上に不自然だったのは、ロッカールームに充満する静けさだった。部屋の中どころか、外の音すら聞こえない。
吐き気を催すほどの静寂の中、瑞樹は独り立ち尽くす。村瀬は一体どこへ行ってしまったのだろうか。
――……い……
ふと、何かが聞こえた気がした。村瀬だろうか。瑞樹は耳をすませ、周囲の音に集中する。
――……くい……
カチ、と音がして、部屋の灯りが消える。他に光源はなく、真夜中のような暗闇が瑞樹を包んだ。何が、一体何が起こっている。混乱は声にならず、粗い息だけが口から漏れた。心臓が走り、脈動が全身の皮膚を突き破りそうだ。
――憎い……!
突然、耳元で誰かが叫ぶ。鼓膜が破れそうな衝撃に、驚いて瑞樹は前のめりに倒れ込んだ。床の硬さに身体が軋み、口から呻きが漏れる。四つん這いの状態で倒れたせいか、両膝と掌が痛んだ。骨折はしていないだろうが、それでも痛いものは痛い。引かぬ痛みに呻きつつ、瑞樹は徐に顔を起こした。
「……え? 」
薄暗い中に見えたのは、見通しのいい廊下だった。手すりの付いた壁がはるか遠くまで続いている。曲がり角や階段と言ったものは見えないが、そこは間違いなく病院一階の廊下だった。だが、早朝で明るい筈の廊下は、まるで夜のような薄暗さだ。どうしてこんなに暗いのだろう。いや、そもそもいつ外へ出たのか、瑞樹には全く分からない。ロッカールームにいたはずなのに、いつの間にか廊下の真ん中で膝をついていたのだ。まるで訳が分からない事態に、瑞樹は目を白黒させた。
……コツ……コツ……
不意に、背後から足音が聞こえた。良かった、誰かいるのか。
……コツ……コツ、コツ……
振り返ろうとして、瑞樹は気づく。足音はスタッフのものにしては小さく、不規則だ。まるで、歩行の難しい患者がよろめきながら歩いているような。
そう感じた瞬間、全身を震えるほどの怖気が走る。肌が粟立ち、冷や汗が額を伝っていった。凍てつく寒さが足元から這い上ってくる。身体は更に震え、瑞樹は歯を鳴らした。
駄目だ、振り向いてはいけない。思考の隅で警鐘が鳴る。だが、意識に背いて瑞樹の身体は、ゆっくりと振り返っていく。
そこにいたのは、忘れもしないあの女だった。細く皺の寄った長い手足と、影の差した暗い顔。皺を重ねたその顔には、釣り上がった大きな目が爛々と輝いている。
女は片手で手すりを持ちながら、生まれたての小鹿のようによろよろとした足取りで、真っ直ぐに瑞樹へと近づいていた。
「嫌ぁっ! 」
堰を切ったように瑞樹は駆け出した。非常灯の淡い緑すらない薄暗さの中、感覚を頼りに走っていく。時折背後を見ては、一向に開かない女との距離に絶望した。向こうはよろめきながらの徒歩で、こちらは駆け足だ。なのに、距離は開くどころか縮まっていく。
そうして振り向きながら走っていると、足がもつれて床に転んだ。体が痛い。けれど、止まるわけにはいかない。痛みに喘ぐ身体を起こし、無理やりにでも走らせる。転ぶ、起きる、走る。そしてまた転び、起きて、そして走り出す。起きる度に身体は軋み、ふらふらとよろめいた。気づけば、足は走る事を忘れ、ただ歩くだけとなっていた。それでも、瑞樹は進むしかない。進まなければならないのだ。もっと、一歩でも遠く、一歩でも先へ。あの女に追いつかれる前に。
もっと先へ。そう念じた瞬間、身体が急に軽くなった。痛みは感じず、足が軽い。これなら、どこまでも行ける気がした。
瑞樹は顔を上げ、ゆっくりと歩き出す。体は軋まず、足取りはとても軽やかだ。まるで、誰かが体を支えてくれているようだった。一歩進むたびに軽さを体で感じる。こうして歩けたのは随分と久しぶりのように感じた。今なら、どこまでも進めそうだ。
そうして暫く走っていると、代わり映えの無い廊下に変化があった。左手前に中央階段への入り口が現れ、その右手奥に三つ並んだ扉が見えたのだ。夢の中ではぼやけていたのに、今は何故かよく見える。あれは間違いなく一階の外来前だ。あそこを抜ければ、出口はすぐそこにある。本当はいけないと分かっているけれど、それでも自分は進まなければならない。
なら、一気に進んでしまおう。そう思い、瑞樹は大きく足を踏み出した。
瞬間、視界が揺れる。景色が左へ流れていき、身体の右側が重力に捉えられる。駄目だ、ここで踏ん張らねば。けれど身体は重力に引き寄せられる。このままでは、倒れてしまう。どうしてこうなってしまったのだろう。どうして私は駄目だったのだろう。私は、ただ。
――ただ、歩きたかっただけなのに。
右側への強い衝撃の後、瑞樹はふと我に返った。自分は、今まで何を考えていた。足を負傷したわけでもないのに、どうして走ろうとしなかった。踏ん張る事など容易いのに、どうして右へ倒れ込んだ。
今、自分の中にいたのは、本当に今西瑞樹だったのだろうか。
ぞわりと脳髄が撫でられたその時、倒れ込んでいた瑞樹の足が細い何かで掴まれる。振り返ると、左の足首に細い五本の指が食い込むほどに掴み掛かっている。締め付けられた肉と骨が音にならない悲鳴を上げた。だが、今の瑞樹にとってそんな事は些事に過ぎない。
食い込んだ五本の指、その先にある細い腕を視線で辿ると、すぐ目の前にはあの女がいた。目が合った瞬間、口許がニタリと弧を描く。ぎょろりと動く大きな目の真ん中には幅の広い虹彩が光り、その中央に小さく狭い瞳孔が見えた。そういえば、遠視を患う者の瞳孔は小さくなるのだった。いつか学んだ知識が思考の片隅から呼び起こされる。
小さな瞳孔。レンズ越しのように大きく拡大した目。そして夢の中のぼやけた視界。瑞樹は女の顔を見る。そうだったのか。あの光景を見ていたのは、あなただったのか。
「……西川、さん」
奥深くへと続く暗い穴の奥に、恐怖に歪んだ瑞樹の顔が写り込む。獲物を捕らえて喜んでいるのか、口許の弧は更に鋭さを増した。釣り上がった女の目が瑞樹をぎょろりと覗きこむ。だが、口許は嗤っているのに、その目に好奇の感情は無い。視線に宿るのは果ての無い怒り、恨み、憎しみ、嫉み。そう言った負の感情ばかりだ。当然、どれも瑞樹には覚えのないものしかない。
向けられる理不尽さに瑞樹が慄いていると、女は足首を握る手を勢いよく引っ張った。衝撃で体制を崩した身体は、そのまま後方へと引き寄せられる。嫌だ、嫌だ! 瑞樹は思わず悲鳴を上げた。だが、女の力は弱まらず、引きずる力を更に強める。
「やめてっ! お願いだからやめてっ! 」
あられもない恰好を気にしている余裕はない。瑞樹はひたすらに叫び、抵抗し、暴れた。だが、女の顔はゆっくりと、けれど確実に迫ってくる。いつかと同じように、恐怖から逃げようと瑞樹は瞼を強く閉じた。暗い視界の奥から、臭気を伴う風が顔に吹きつけられる。鼻先に、人肌の生温さを感じた。
「……羨ましい……」
しわがれた、けれどはっきりとした声が聞こえる。
「……恨めしい……」
声は段々と耳元に近づき、その大きさを増していく。
「……憎い……!!!」
喉が割け、血反吐を吐くほどの叫びだった。
女の声が耳元に轟いた瞬間、瑞樹は意識を手放した。
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