第12話
瑞樹はまた夢を見た。
夢の中で、瑞樹はやはり長い廊下を一人で歩いていた。右側にある手すりを持ち、やっとの思いで進んでいく。床を踏みしめているのは確かに自分の足なのに、どうしてか酷くぎこちなかった。生まれたての小鹿の様足取りはよろめく。こうして歩き続けてもう何か月たっただろうか。リハビリを繰り返し、その度にいくら歩こうともこの足が治る気配はない。リハビリだけでは足りないのだと、こうして始めた秘密の練習もそれなりに回数をこなしている。本当は誰かに見ていて欲しかったが、下へ降りる患者にも気付かないくらいには人手不足らしい。病棟中を忙しなく歩き回る人々に声をかけるのも偲びなかった。
だからと一人、練習の日々を続けてきたが、それでも足は良くならなかった。もしかすると、ずっとこのままなのだろうか。もう以前の様に歩くことは出来ないのだろうか。
いや、違う。このままでは駄目なのだ。他の患者達のように、自分の足で、しっかりと歩けるようにならなければ。
歩きたい。そう強く念じた瞬間、身体がとても軽くなった。足に掛かる重さが少なく、背筋もまっすぐ伸びている。まるで誰かが身体を抱え、支えてくれているかのようだ。大丈夫。今ならきっと行ける。
強い確信を胸に、瑞樹は足を踏み出した。やはり身体は軋まず、足取りは軽やかだ。一歩踏みしめる度に身体の軽さを実感する。喜びに心を弾ませながら一歩、また一歩と瑞樹は歩みを進めた。体が軽い。この調子なら、どこまででも進めそうに思えた。
そうしているうちに、どのくらい進めただろうか。何メートルか、それともたった数歩の距離だったかもしれない。ふと横を見ると、左側にぼんやりとしたドアが三つ並んでいた。それ以外には何も見えない。そう言えば、ここを通る時にいつも何かを言われていた気がする。あれは何と言われていたのだっただろうか。確か、無理をしてはいけないと、そう言われていた気がする。けれど、ここを抜ければ出口まではもうすぐだ。もしかすると、外へ出られるかもしれない。本当はいけないと分かっているけれど、それでも自分は進まなければならないのだ。
一気に進んでしまおう。そう思い、瑞樹は大きく足を踏み出した。
瞬間、ぐらりと視界が揺れる。景色が左へ流れていき、身体の右側が重力に捉えられる。駄目だ、ここで踏ん張らねば。けれど身体は重力に引き寄せられる。このままでは、倒れてしまう。どうしてこうなってしまったのだろう。どうして、私は駄目だったのだろう。私は、ただ。
――ただ、歩きたかっただけなのに。
目覚めたのは、暗闇の中だった。どこまでも暗く、深い闇の中だ。まるで、あの女の目のようだ。そう思った瞬間、瑞樹は勢いよく飛び起きた。そして立ち上がり、部屋の電灯をつける。文明の光が煌々と部屋を照らし出すと、瑞樹は力が抜けたようにベッドへ座り込んだ。暖房の効いた部屋は暖かく、全身は汗でじっとりと濡れている。なのに、寒い。足元から這い寄るような寒さを感じ、体は震えて仕方なかった。
両手で肩を抱くように、瑞樹は体に腕を回す。体を温めるように肩や腕を擦るも、寒さはしつこく纏わり続ける。暖房の温度を上げようと、震えは一向に止む様子はない。呼吸は粗く、口からまろび出そうなほどに心臓は暴れている。いっそ叫び出したいと思う程に蠢く衝動を抑えるだけで必死だった。そうして煌々と照らす灯りの下、暫く身体を擦り続けていた瑞樹は気づく。
ああ、自分は恐ろしくて震えていたのだ、と。
自覚と共に段々と震えは収まり、身の内で蠢く衝動は凪いでいく。だが、落ち着きを取り戻すとともに、湧き上がってくる感情があった。それは、耐え難い程の絶望だ。
気が付くと、瑞樹の口は嗚咽を零し、目は涙を流していた。泣きたいわけではないのに、身体は瑞樹の命令に背き続ける。まるで身体と魂が剥離してしまったかのような感覚だった。今や主導権は完全に奪われ、瑞樹は自動で動く人形を眺め続ける傍観者でしかない。止めて、泣かないで。嗚咽の合間に放つのはせめてもの抵抗だった。聞く者がいるかどうかも分からない言葉が、明るく照らされた部屋に一つずつ落ちていく。
もう泣かないで、お願いだから。どれだけ説得を重ねようとも、涙は止まる様子はない。自分自身への説得という奇妙な状況に、意識としての瑞樹も確実に追い詰められていく。
果たしてどれ程の時間が経ったのか。何分か、それとも何時間なのかもしれない。永遠とも思える時間が経ち、部屋を照らす光に朝の白光が混ざり出す。すると突然、瑞樹の体は溢れる涙をピタリと止めた。零れる嗚咽も無くなり、部屋の中が沈黙で満たされる。不意に訪れた解放に瞠目する瑞樹の耳が、遠くで鳴く雀の声を拾った。どうやら夜が空けたらしい。つまり、飛び起きたのは夜中だったのかと今更ながら瑞樹は知った。時間の把握が安堵を呼び込み、その温かさが胸に染みる。再び涙が出そうになり、瑞樹は慌てて目をつぶった。
視界が闇に覆われる。再び暴れ出しそうな心臓を押さえつけ、襲い掛かってきた衝動をやり過ごそうとした。すると、瞼の裏に広い廊下が映る。見通しが良く明るい廊下は、多少の揺れの中を少しずつ先へと進んでいく。幾らかの距離を進んだところで景色は左に流れ、視界の主は右側へと倒れ込んだ。そして、胸に去来する狂おしいまでの絶望を感じながら、瑞樹は再び瞼を開く。この数日間に渡って見てきた、あまりにも鮮明な廊下の夢。今日の夢がその続きなのは明らかだ。しかし、廊下での歩く練習も、それによる転倒も、瑞樹にはどちらも覚えは無い。そして、とめどなく涙を流すほどの狂おしい絶望にも。
ならば、あの夢や感情はどこから来たものなのか。その端緒となる名を、今の瑞樹は一人しか知らない。
「……大沢、美登里」
口にしたその名は、感情を溢れさせて空になった心にピタリと填った気がした。
瑞樹の知る大沢とは、長橋からの伝聞が全てだ。彼女の顔も、声も、病歴も、経過も、長橋の言葉以外には何一つとして知りはしない。知っているのは、大沢が転倒し、歩けなくなったという出来事だけだ。しかし、他の雑多な情報が省かれて精製された内容だからこそ、余計に印象に残りやすかったとも考えられる。特に、今の自分が転倒という事象に対し、非常に敏感になっているのを瑞樹は自覚していた。
そこへもたらされた大沢の情報は、歩行困難のまま退院先で死亡という結末もあり、非常に衝撃が強いものだった。瑞樹は考えた。転倒に至るまでの過程を、その瞬間を。そして、大沢の思いを。瑞樹の想像した大沢という存在は、こうして知らず知らずのうちに思考を侵食していった。三日間に渡って鮮明な夢を見せる程に。それは感情移入と呼ぶにはあまりにも強すぎる共感だ。しかし、一昨日の夜に見せていたという笑顔や、先程の号泣はその共感があったからこそと考えれば納得がいく。
全ての発端は大沢の絵画に見た光と影の幻覚だ。恐らく、それ自体は明かりの具合や疲労などが見せたものだったのだろう。だが、その幻覚がもたらされた背景の部分が、大沢への感情移入によって補完されてしまった。絵画にまつわる全ての事象をもたらす『転倒して病院に強い恨みを抱いたまま亡くなった大沢美登里という女性』が、瑞樹の中で一つの存在を確立させてしまったのだ。自分では処理しきれない事象に対して、背後にいる大沢という存在を無意識のうちに当てはめた結果、大沢の感情とする絶望により強く没入してしまうという一種のトランス状態に陥ったのだろう。
そこまで考えて、瑞樹は深々とため息を吐く。漸く求めていた正解に辿り着いたという確かな手ごたえを感じていた。分析と考察によってもたらされた安堵に身体の力が抜けていく。やはり、自分は相当に疲れていたに違いない。難しくとも、長めの休暇を申請してみるか。
休暇申請を脳裏で検討しつつ枕元のスマホを見ると、時刻は朝の七時に差し掛かろうとしている。今日もまた夜勤だ。勤務に備えて寝ておいた方が良いだろう。今ならよく眠れそうだと、瑞樹は再びベッドの中へと潜りこんだ。頭の中で整理がついた今ならば、きっと夢も見ないだろう。大丈夫だ、『転倒して病院に強い恨みを抱いたまま亡くなった大沢美登里という女性』は自分の作り出した幻に過ぎないのだから。
――本当に、そうなのだろうか。
ふと、瑞樹の脳裏に疑問が過る。自分の中にいる大沢という存在は、本当に作られた幻でしかないのだろうか。幻だというのなら、どうして鏡は割れたのだろう。
そして、転倒した患者達が見たという恐ろしい顔の女。その女も、ただの幻に過ぎないのだろうか。
「違う。全部幻に決まってる」
目の前の視界から逃げるように目を閉じると、今度こそ瑞樹は眠りの底に落ちていった。
吸い込まれていく。どこまでも暗く、深い穴の中に。
瑞樹は救いを求めて右手を伸ばす。その手首を、皺の寄った細く長い指が掴んだ。みしり、と手首の骨が鳴く。
痛みに呻きながら仰ぎ見た先で、釣り上がった双眸が瑞樹を覗き込んでいた。
本日二度目の覚醒もまた唐突だった。
粗く呼吸を繰り返し、瑞樹は徐に起き上がる。頭が酷く重い。俯く顔を支えようと額に右手を伸ばそうとして――その手が宙で止まった。
「なに……これ」
瑞樹の目が右手首へと留まる。そこにくっきりと浮かんでいた、四本の赤く長細い痕に。
夢で見たせいだろうか。酷く歪なその痕が、まるで指の様に見えた。ひゅ、と瑞樹が息を呑む。その時だった。
パリン、と一つ音が聞こえた。小さくも聞き覚えのあるその音を辿って、瑞樹は視線を動かしていく。電灯、窓、キッチン。視線に納める範囲では、目に見えるものに変化はない。更に視線は部屋を巡り、ベッドの傍に置いていたサイドテーブルへと移る。そして、異常は見つかった。
「割れてる」
サイドテーブルの上に置いてあった小さな鏡が割れていた。洗面台の鏡の代わりにと置いていた小さな物だったが、今や蜘蛛の巣のようにひび割れている。フレームに付いたままの一部を残し、殆どの破片がサイドテーブルの上に散らばっていた。
「どうして……? 」
ベッドから身を乗り出し、サイドテーブルへと手を伸ばす。破片の一つを手に取ろうとして、磨かれた鏡面を覗き込んだ。
そこに、女がいた。皺の寄った肌の上で、釣り上がった目を爛々と輝かせた暗い顔の女が。
瑞樹は咄嗟に顔を引こうか考えた。が、寸でのところで躊躇する。これは幻覚だ。疲労と思い込みが見せているただの幻に過ぎない。何を恐れる必要がある。自分自身に言い聞かせ、瑞樹は目をつぶって頭を振った。これは幻覚だ。実際には存在しないものだ。目を開けばきっと消えている。更に二、三度頭を振って、瑞樹は徐に瞼を上げた。
女はまだそこにいた。幾つもの破片の中から、瑞樹を覗き込んでいた。
そんなはずはない。眼前の光景から逃げるように、瑞樹は再び目を閉じようとした。その瞬間、鏡の中の口許が一斉にニタリ、と笑った。瑞樹は戦慄する。あれが、あの悍ましい笑顔が私の顔だというのだろうか。確かめるように、右手をゆっくりと口許に這わせてみる。けれど、触れた口許は弧を描いてなどいなかった。
嗤っているのは、自分ではない。気づいた瞬間、震えるほどの戦慄が瑞樹を襲う。違ったのだ。あの女は、幻の存在などではない。瑞樹の身体は更に震える。まるで凍えそうなほどに冷たい恐怖が足元から這い寄ってきていた。なのに、目線が逸らせない。余りの寒さが、瑞樹の体を硬く凍らせていく。そんな中で、鏡の中の女は嗤っていた。悪戯を楽しむ子供のように、ただ瑞樹を見て嗤っていた。その笑顔が酷く恐ろしい。
せめて視界から離れなくては。凍える恐怖の中、瑞樹は密かに数を数える。さん、に、いち。
次の瞬間、瑞樹は力一杯背後へ仰け反る。倒れ込んだ背中がベッドの上で跳ね、遠くで物が落下する音がした。それでも起き上がる気にはなれず、瑞樹は暫くの間、視界いっぱいに広がる天井を見つめていた。
静寂の中で幾ばくかの時間が経った頃、スマホのアラームがけたたましく鳴り響く。そのままにしている訳にもいかず、ゴクリと一つ喉を鳴らして瑞樹は勢いよく起き上がった。そして勢いよくベッドから身を乗り出し、サイドテーブルを覗き込む。
そこにあったのは、散らばった鏡の破片。しかし、いくら破片を覗き込んでも、女の姿を見つけることは出来なかった。鳴り響くアラームを止め、再びベッドに倒れ込む。もち上げて見た右腕に、四本の痣はどこにも無い。
けれど、瑞樹にはもうあの女を幻と思う事は出来そうになかった。
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