第11話
朝の申し送りを終えた瞬間、時計の針が長い夜勤の終わりを告げた。
残っていた記録を手早く終わらせ、瑞樹は病棟を後にする。廊下を通り、厚い防火扉を潜って中央階段へと滑り込んだ。一歩ずつ階段を下りていくも、足取りは酷く重い。いや、足だけではなかった。今までになく、身体中が重くて仕方ない。しかし、一方でそれが単純な疲労のせいだけではないとも分かっていた。
二階と三階の合間にある踊り場で、瑞樹は一人立ち止まる。そうして考えるのは、昨夜同僚に目撃された自分の様子についてだ。鏡を見て、ニタリ、と笑い続ける自分。それは明らかに異様な姿だっただろう。けれど、瑞樹自身にその記憶はない。覚えているのは、鏡の中で笑う憎悪に歪んだ女の顔だ。あの絵画によく似た、釣り上がった目が脳裏を過る。
だが、その女は瑞樹自身だった。女の顔に見えていたのは、嗤い続ける自分の顔だったというのだ。あり得ない、と瑞樹の脳は理解を拒む。そもそも、あの時見えていた女は瑞樹の記憶の中にしか存在しなかったはずだ。朝の記憶を振り返っていた、それだけなのだから。しかし、記憶から飛び出して、女の顔は現れた。洗面台の鏡の中に。そして、それは瑞樹の見た幻であり、現実には瑞樹自身の顔だった。はっきり言おう。訳が分からない。
一体何が現実なのか、それともすべてが幻覚なのか。踊り場の壁にもたれかかり、右手で顔を覆ったまま瑞樹は天を仰いだ。一体自分に何が起こっているのだろう。相次ぐ不可解な出来事に、精神的に追い詰められていくのを感じていた。その時だった。
カツン、カツンと、足音が耳に届く。音は狭い階段のあちこちで反響し、少しずつ近づいてくるようだった。誰かが来る。ここにいては通行の邪魔になるだろう。瑞樹は顔を下ろし、踊り場を立ち去ろうする。しかし、その背に掛けられた声が瑞樹の足を引き留めた。
「あら、今西さんじゃない」
振り返ると、そこにいたのは長橋だった。
「お疲れ様です。課長」
「お疲れ様。夜勤だったの? 」
「ええ。また明日も夜勤です」
そう言うと、長橋は目を丸くして「大変ねぇ」と瑞樹を労う。彼女はどうやら一階に用事があるらしく、そのまま一緒に階段を降りることになった。病棟の様子や夜勤の頻度を問う長橋と、それに答える瑞樹の声が薄暗い中央階段に木霊していく。
気づけば一階の踊り場へと着いていた。開かれた扉から差し込む、廊下の煌々とした光が目に眩しい。
「それじゃあ今西さん、ゆっくり休んでね」
「はい。お疲れ様でした」
挨拶を交わして瑞樹はロッカールームへ向かおうと長橋に背を向けた。その瞬間、背後でどよめきが上がる。
「今西さん! ちょっと来て! 」
長橋の切羽詰まった声がして、瑞樹は反射的に振り返る。視線の先には、廊下にしゃがみ込む長橋の姿が見えた。その傍には同じようにしゃがむリハビリスタッフの姿が見え、その周囲を数人の患者や職員が囲んでいる。
そして、彼らの中心には座り込む一人の患者の姿。その姿を目に留めた瞬間、瑞樹は駆け出していた。
「どうされました!? 」
「いえ、歩行中に急に右側へ倒れ込みそうになって。慌てて支えたんですけど、そのまま座り込んでしまったんです。三階の近藤正道さんで、主治医は太田先生です」
見れば、近藤は意識を保っており、無理矢理にでも立ち上がろうとしていた。聞けば、どこも痛くはないという。そこへリハビリスタッフから、座り込む様に倒れたという補足が入った。少なくとも頭部へのダメージはなさそうだ。
なおも動こうとする近藤をリハビリスタッフが静止している間に、瑞樹はざっと患者の全身を確認する。右膝に僅かな内出血が見られるのみで、他に外傷らしき外見上の異常は認められなかった。だが、それで安心できるわけではない。外見の変化は少なくても、実は骨折していたなどということはよくあるのだ。詳しくは画像診断が必要になるだろう。
そう思いながら目を落とした床に、眼鏡が一つ落ちている事に気づいた。瑞樹が眼鏡を手に取ると、レンズに映った景色から随分と度の強い眼鏡である事が分かる。これは誰の物かを訪ねようとする前に、リハビリスタッフから持ち主が近藤である事を知らされた。言われるままに眼鏡を近藤へ渡せば、あれ程動こうとしていた様子が急に大人しくなる。どうやら探し物は眼鏡だったらしい。近藤が眼鏡をかけると、レンズに拡大された大きな瞳が写り込み、瑞樹を見て柔和に細められた。
そこへ車椅子を持った三階の看護師が二人現れ、その後ろから医師の太田が着いてきた。どうやら、長橋がPHSで連絡を取っていた様だ。瑞樹は三人に状況を報告し、以降の対応を彼らに引き継ぐ。看護師は近藤を車椅子に載せると、太田を伴いエレベーターホールへと向かって行った。
「すみません、ありがとうございました」
「いえ、そんな大したことしてませんから」
頭を下げるリハビリスタッフに、瑞樹は笑顔で返す。相手の顔は疲労と落胆がありありと浮かんでおり、壮年程度らしいという実年齢以上に老け込んだように見えた。
「それにしても、三階ってなると……西川さんを思い出すなぁ」
「西川さん、ですか? 」
「ええ。以前ここで転倒された方で、僕が担当してたんです。以前と言っても、もう十年は前の話ですけど。近藤さんと同じく極端な遠視がある方だったので思い出しちゃって」
それでは、とリハビリスタッフは瑞樹に会釈をし、そのまま廊下の奥へと去っていった。そんな患者がいた事すら瑞樹は知らない。入職以前の、それこそ大沢美登里の事故よりも前の話であるので当然と言えばそうなのだが。流石に十年も前となると、患者本人を知る者自体が少なくなっているに違いない。三階の看護師であっても、恐らくは西川なる患者を知らない者の方が多いだろう。
「お疲れさまでした。ありがとうね」
長橋の声と共に瑞樹の肩が叩かれる。嵐の終わりを告げるような優しい手の感触に、瑞樹は漸く肩の力を抜くことが出来た。
「いえ、課長こそありがとうございました。連絡して下さったの課長ですよね」
「PHS持ってたからね。けど、すぐ連絡がついてよかったわよ。朝の検温の時間だから、ステーションに誰もいないとかざらだしね」
それにしても、また増えちゃったわね。少し声量を落として長橋が言う。何が、と問おうとして瑞樹は漸く気が付いた。
自分のすぐ横にある、一枚の絵画の存在に。
「後でリハと三階からレポートが上がるだろうけど、本当になんでここばっかりなのかしらね」
絵画を見つめる長橋の横顔は、どこか寂しそうに思えた。遠くを見ている様なその表情を見ているうちに、気が付くと瑞樹の口は開いていた。
「あの、長橋課長。一つ伺ってもいいですか? 」
「なあに? 突然どうしたの? 」
「課長は、この絵が誰かに似てるって思った事ってありますか」
寂しそうな横顔に思ったのだ。長橋もまた、この絵に誰かを重ねていると。もしかすると、それは村瀬の言う人物と同じではないだろうか。そして、その人物こそが鏡に見た女の幻、その正体なのかもしれない。期待と不安が混ざった視線の先で、長橋が一瞬の躊躇を見せる。少し突拍子がなさ過ぎただろうか。瑞樹が質問を取り消すべきか迷っていると、長橋が徐に口を開いた。
「誰に似てるかって言われたら、やっぱり大沢さんかしらね」
瑞樹の沈黙を疑問と捉えたのか、長橋は相手を安心させるかのように笑いかけてきた。
「夜の空っていう困難にも一生懸命に羽ばたこうとする姿が、大沢さんに似てるって思うわね。あの人は本当に前向きで、一生懸命な人だったから」
「そうなんですね。以前、村瀬さんがこの絵を見て入院されていた患者さんに似てるって仰ってたんです。それで長橋課長も誰かを重ねられてるように思えて、もしかすると同じ人だったりするのかなと」
「そうなの? けど、同じ人とは限らないわよ。だって、村瀬さんは五階病棟に異動してきたことは無かったはずだし」
長橋の言葉に、瑞樹の疑問はより深まる。同時に複数の病棟の患者を担当するリハビリスタッフとは違い、病棟看護師は異動でもしない限り他病棟の患者について詳しく知ることは難しい。知っていたとしても、精々一階でたまにすれ違う顔を覚えていたり、委員会活動で名前を耳にする程度である。そうなると、患者の顔と名前が一致することは少ない。勤務する病棟が異なっていたのであれば、知る機会が制限されていた大沢の顔と名前を一致させるのは難しかったはずだ。それこそ、転倒事故の折に委員会を通して情報を得た位の物だろう。
だとすれば、村瀬の言う入院していた患者とは、やはり違う人物の事だったのかもしれない。そもそも、瑞樹が女の幻覚に悩まされ始めたのは大沢の話を聞いてからだ。あの女が経験をもとにした幻覚の類ならば、名前すら知らない人物よりも、大沢の話に影響された可能性の方が高い。村瀬の怯えは瑞樹のそれとは無関係で、やはり本命は大沢になるのではないだろうか。
彼女が転倒の際に抱いたであろう痛み、後悔、無念。瑞樹が想像したそれらこそが、結局は元凶なのだ。しかし、全く気にしないでいるというのは今の自分には難しいだろう。なら、対処法としては一つしかない。実際の大沢がどのような人物だったのか、自分の中の情報を上書きして更新するのだ。情報を取り入れて想像の余地を無くしてしまえば、妙な幻覚も見なくなるに違いない。
一先ずは、退院後の話を聞いてみよう。そう思い、瑞樹は口を開く。退院して元気に過ごしている事を聞ければ、それだけでも意識が変わってくるだろうからと。
「大沢美登里さんって、退院された後どうなったんです? 今もお元気なんでしょうか」
問いかける声に、長橋の顔が瑞樹を向く。その顔に浮かぶ笑みは、やはりどこか寂しそうだった。
「施設に行ってから二年くらい後だったかしらね……多分をこの絵を描いた後に、そのまま向こうで亡くなられたそうよ」
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