第10話
カチリ、と音が鳴る。
静寂の隙間から滑りこんできた音が、意識に掛かった靄を晴らす。はっとした瑞樹が周囲を見渡すと、そこは煌々と明るい深夜のナースステーションだった。瑞樹の体は椅子の上にあり、目の前の机にはカルテが開いたままになっている。そうだ、今は夜勤中で、自分は検温から戻って記録をしていたのだった。意識が現在に追いついた途端、瑞樹は時計に目を向ける。自分はどのくらいぼーっとしていたのだろう。
見れば、時計の針は僅か五分ほどしか進んでいないようだった。瑞樹は胸をなでおろし、再びカルテへとペンを走らせていく。しかし、その手は数分もしないうちに止まってしまった。記載すべき内容は頭になく、瑞樹の思考を埋め尽くすのは、相次ぐ転倒の事ばかりだ。
(「下から戻ってきた時にこう言ってたんだよね。――絵の中にいた怖い人に睨まれた。その人に身体を引っ張られたって」)
(「右側にいたのは女の人よ。けど、なんだかすごく怖い顔をしてたかしらねぇ」)
入院する病棟も、身体状態も、転倒に至る過程も異なる二人。共通するのは転倒したという結果と、第二外来室前の廊下という場所。そして。
「絵の中にいた、怖い顔の人、か」
ぼそり、と瑞樹の口からもう一つの共通点が零れ落ちた。絵から人間が出てくるなど、普通はあり得ない話だ。考えられるとすれば、錯覚か幻視のどちらかだろう。
しかし、同じタイミングで同じ絵を見ていたとして、その絵に対する錯覚や幻視がここまで一致するのだろうか。これが意図的に仕掛けられたトリックアートであるならば理解もできる。だが、現実にあの絵はトリックアートなどではない。仮にそうであったしても、錯覚を見せるようなものを病院がリハビリの場所に飾るとは思えなかった。
だとしても、二人分の一致する目撃証言があるのは紛れもない事実である。意図的ではないにせよ、もしかすると何らかの視覚的効果をもたらす構図で描かれているのかもしれない。
例えば、そう――暗い顔の上で爛々と輝く釣り上がった眼に見える、とか。
もしくは――翼の光が輪を描き、その中央に現れる影の穴が覗き込む瞳のように見える、とか。
瑞樹の脳裏に浮かぶのは、実体験に伴った二つの予測。その予測が、今朝目の当たりにした女の顔を記憶の底から引き上げてくる。鏡に佇む女の憎悪は、何時間も経った今でもなお鮮明だった。色褪せぬその憎悪へと、瑞樹は静かに問う。
「あなたは、一体誰なの」
机を挟んだ向かいにある手洗い場の鏡に、女の顔が写り込む。皺の寄ったその口許が、ニタリ、と弧を描いた。
瞬間、パリン、と何かが割れる音がした。
「今西さん……大丈夫? 」
「え? あ、はい。大丈夫です! 」
背後から届いた声に瑞樹が振り返ると、困惑を顔に張り付けた同僚が入り口の所に立っていた。そして真っ直ぐ正面から瑞樹の顔を見つめている。あれ、どうして目線が水平なのだろう。瑞樹の抱いたその疑問は即座に氷解する。座っていた筈なのに、何故か瑞樹は立ち上がっていた。目線を下へ向けると、座っていた丸椅子が無残にも横倒しになっている。瑞樹は慌てて椅子を引き起こすと、取り繕う様に笑って見せた。一体いつ立ち上がったのか、全く思い出せないでいた。
「大丈夫ですよ。ちょっとびっくりしちゃって」
「あ、そうだ鏡! 」
瑞樹の脇を通って同僚が駆け出していく。鏡? と首を傾げつつ同僚を目で追っていくと、同僚は洗面台の前で何かをしていた。よく見ると、掛けられていたはずの鏡が見えない。
瑞樹は洗面台へ近づいていった。見ると、同僚は恐る恐るといった様子で手を動かし、何かを片付けている。
「今西さん、危ないから下がってていいよ」
目線を手元に向けたまま、同僚が瑞樹に声を掛ける。一体何が危ないというのだろう。疑問符を浮かべながら彼女の手元に目をやると、忙しなく動くその手には割れた鏡の破片がある。そして洗面台の中には、同じような破片が幾つも重なり、電灯の光をきらきらと反射していた。
破片と、そして同僚の姿を瑞樹は呆然と眺めていた。暫くして、現実が飲み込めてくると、急いで片付けの手伝いを申し出る。しかし、同僚はどうしてか瑞樹の介入を拒み、そのまま一人で片付けてしまった。何もできないまま、瑞樹はただ座っているしかなかった。
そうして粗方の破片が片付いた頃、手を洗っている同僚へと瑞樹は声を掛けた。
「すみませんでした。全部片づけて貰ってしまって」
「良いのよ。何か今西さん疲れてるみたいだったから。ここのところ忙しかったしね」
そう言って同僚は瑞樹へと笑いかける。そんなに疲れている様に見えたのだろうか、と訊ねた瑞樹に、同僚は眉間の皺を深くした。
「本当に気付いてなかったの? だってその様子じゃ、私が何度も声かけたのも覚えてないんでしょ? 」
訝し気に問いを返してきた同僚に、瑞樹は何も言えなかった。言われたように、何も覚えていなかったからだ。恐らくは鏡の割れたあの音がするまで、同僚の声はおろか周囲の物音すら耳に入っていなかった。
「すみません。全く気づきませんでした。でも、本当に大丈夫です! まだ夜勤はこれからですし、そんなに疲れてないですよ」
「そう? でも……」
同僚は躊躇う様に口ごもり、そわそわと視線を巡らせている。視線が合ったかと思えば逸らされ、逸らされたかと思えば合う。繰り返される逡巡は、やがて喉の鳴る音と共に終わった。
「気を悪くしないで聞いて欲しいんだけど、私が戻ってきた時の今西さんがちょっと変に見えたの」
「変って、どんな風にですか」
「なんて言うか……立ち上がったままで、ずっと前ばかりを見てて。明らかに様子が変だったもの」
それに、と一言置いて彼女は続けた。
「……鏡を見て、ずっと笑ってたのよ? にこり、とかじゃなくてニタリ、って感じで」
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