第9話

 摩耗した精神状態で鏡を片付け終え、瑞樹はそのまま泥の様に眠った。けたたましく鳴るスマホのアラームに起こされるまで、夢を見る事もなく眠り続けていた。アラームを止めて起き上がり、朝の出来事は夢だったんじゃないかと淡い期待を抱いたが、鏡の割れた洗面台に打ちのめされて終わった。

 夢ではないとするなら、あの時、鏡に見えた女は一体何だったのだろう。鏡の割れた洗面台を前に、瑞樹の頭にとりとめのない考えが巡る。ただの幻覚か、それとも現実か。

 いや、現実だったなんてあり得ない、そう思いたかった。だが瑞樹の心はそうではないと強く訴える。仮に現実だとするならば、あの女は何者なのだろう。これまで関わった人々を思い返してみても、あの女の顔に瑞樹はまるで覚えがなかった。更に深く思い返そうとすると、宵闇を背に広がる二枚の翼が意識の端から割り込み邪魔をする。考えれば考える程、脳を埋めるのはあの寄贈された絵画ばかりだ。あの絵画にさえ近づかなければあの女を見る事もなく、鏡も割れず、ついでに悪夢も見ることは無かったのではないか。割れた鏡を睨みつつ、科学的根拠の無い八つ当たりを瑞樹は繰り返す。

 全部あの不気味な絵画が悪いのだ。あの絵画にさえ近づかなければ。

 ――あの絵画に、近づいたから? 

 ふと過った思考。その瞬間、全ての時が止まった気がした。とりとめのない筈の思考の破片が、一枚の形にぴったりと合わさったかのような感覚。あの絵に近づいたから、悪夢を見ることになり、あの女が現れたのではないか。

 「……だから、馬鹿馬鹿しいってば」

 割れた鏡を前にして、瑞樹は短く吐き捨てる。納得しかけた不穏な思考を断じるように。

 きっと、あの不気味さに当てられてしまったのだろう。それほどまでに迫力のある絵であったのは確かだ。一瞬脳裏を過った絵の記憶を振り払う様に、瑞樹は強く頭を振る。そもそも、鏡が割れたのだって元々見えない皹が入っていたからかもしれないではないか。そこに日頃の疲労が重なり、女の幻覚を見て、そこで偶然鏡が割れた。

 きっとそれだけの話だったのだ。女の幽霊か何かが実在するように考えてしまう時点で、きっと自分は疲れていたのだろう。思い切って連休を申請してみるのもいいかもしれない。全ては偶然の重なりなのだ、瑞樹はそう考えて納得することにした。そうでもしなければ、胸中の奥底に這いまわる違和感が心臓を破って出てきそうだった。

 こうして、とても快適とは程遠い目覚めを迎えはしたが、それでも仕事は待ってはくれない。底なし沼へと沈みそうな憂鬱さを振り払うように手早く支度を整えると、慣れ親しんだ自室から逃げるように外へ出た。出勤中にのんびりと音楽でも聴ければ気分も幾分か上がったのだろうが、生憎と職場までは徒歩十数分の距離しかなく。部屋を借りる際に出勤の利便性を優先したかつての自分を瑞樹は心の底から恨んだ。

 病院へ到着すると、裏手にある職員用通用口を通って中へ入る。タイムカードに打刻し、ロッカーで手早く制服に着替えると、職員専用と書かれた扉を出た。見通しの広い廊下に出ると、所々で歩行リハビリを行う患者とリハビリスタッフの姿が目に入る。ぶつからないよう慎重に避けつつ、瑞樹は慣れた順路を通って一階にある中央階段へと向かった。中央階段の直ぐ傍まで来ると、件の外来前が否応にも視界に入ってくる。けれど、あんな不可解な出来事の後ではどうしたって視線を逸らさずにはいられない。

 なるべく視界に留めないよう素早く廊下を通り過ぎようとした時、絵画の前に立つ一人の看護師の姿が目に入った。

 「村瀬さん? 」

 人もまばらな廊下の途中に村瀬の姿はあった。第二外来室の扉の傍に立ち、視線を真っ直ぐに反対側の壁へと向けている。そこに掛けられた、一枚の絵画へと。

 瑞樹は足を前へ進める。ゆっくりとした歩みは中央階段の前へと続き、そのまま曲がることなく通り過ぎていく。足取りはやがて横並びになった外来室の前へと差し掛かり、その中央の扉の傍で瑞樹は足を止めた。すぐ目の前には、村瀬がいる。ほぼ至近距離まで近づいていたのだが、どうやら瑞樹の存在に気づいていないらしい。まずは存在をアピールすべく、瑞樹は声のボリュームを上げた。

 「お疲れ様です。村瀬さん」

 「ああ、今西さん。お疲れ様」

 話しかけられるとは微塵も思っていなかったに違いない。瑞樹の声に振り向いた村瀬の顔には、一瞬の瞠目が見て取れた。

 「はい。二階にいる同期から昨日お休みされたって伺いましたけど、体調はいかがですか? 」

 瑞樹の問いに、村瀬は視線を彷徨わせる。

 「ええ、もう大丈夫。心配かけてごめんなさい。もう大丈夫だから」

 覇気のない村瀬の声が早口気味に返事をする。その平坦な口調には、口を挟む猶予すら与えないという圧のような物があった。

 早口で言い切った村瀬は軽く会釈をし、足早に立ち去ろうとする。彼女が横を通り抜ける瞬間、瑞樹は思わず声を掛けた。

 「あの! ……先日転んだ時、何に驚かれたんですか? 」

 瑞樹の声に、村瀬の足が止まる。足音が止んだのを耳にし、瑞樹は反射的に振り返った。

 「もしかして、あの絵に何か」

 「何でもないのよ、本当に。ただ……少し似ていたから」

 「似ていたって、どなたにですか? 」

 「……昔、ここに入院していた患者さんよ」

 ちらりと振り返った村瀬の顔。その目は、微かな怯えに揺れている様に見えた。患者に似ていた、と村瀬は言った。まさか、と瑞樹は思う。村瀬も瑞樹と同じ経験をしたのではと。そして今も、同じことを考えているのではないか。馬鹿馬鹿しいと思いつつ、強く否定できないあの考えを。

 不安を孕んだ瑞樹の前で、村瀬は顔を絵に向ける。大沢の描いた、一枚の絵画に。村瀬に釣られるように、瑞樹も絵画へ目を向ける。宵闇を背に向かい合う、羽を広げた二羽の鳥。絵の上下に広がる白い翼が、やはり似ていると瑞樹は思う。鏡の中に見た女の、怒りに釣り上がったあの目に。

 絵によく似た鏡の女。そして村瀬が絵に重ねるかつての患者。共に怯えを抱く二人に見えている姿は、もしかすると同じ人物なのではないだろうか。瑞樹の中で、どうしても否定しきれない不穏な思考が頭をもたげてくる。見えている人物が同じだとすれば、村瀬は女の正体を知っているのかもしれない。

 この絵に似ている患者とは誰なんですか。その疑問を口にする前に、困惑を深める瑞樹の横を村瀬が通りすぎていく。そのまま廊下の奥へと遠ざかっていく背中を、瑞樹はただ見送るしか出来なかった。

 村瀬の姿が見えなくなると、瑞樹は小さく息を吐いた。肩に入っていた力が抜けた途端、漸く向かうべき場所を思い出す。夜勤はこれから始まるのだ、急いで病棟に向かわなくては。そして、絵画から目線を逸らしつつ瑞樹は廊下を歩き出す。そして中央階段の入口へと差し掛かった時、不意に夢の光景が意識の端を掠めた。

 予感のままに、瑞樹は振り返る。目の前には見通しのいい廊下が伸び、手すりの付いた右側の壁には件の絵が掲げられている。その向かい側、瑞樹から見て左側には三つ並んだ外来室の扉が見えた。見慣れた外来前の光景に、夢の景色が重なっていく。違いは、掲げられた絵画だけだ。

 「……あの夢の場所も、第二外来室前だった? 」

 記憶と見紛うほどの現実味が不気味だった。けれど、あり得ない話ではないとも瑞樹は思う。第二外来室前での転倒の情報と、長橋から聞いた大沢の話。それらが脳内で合わさり、夢として現れたに違いない。しかし、それならばあの絵画の存在が再現されなかった事が不可解に思えた。瑞樹の中で強い印象を残している大沢の絵画である。悪夢であれば尚更現れてもおかしくないだろうに。現在を示す絵画が無ければ、あの夢はまるで――。

 「本当に、誰かの記憶みたいじゃない」

 口にした瞬間、脳裏を過るのは鏡に見たあの女の顔。長橋の語った大沢美登里の話ではなく、どうして今あの女を思い出したのか。思考がその先を綴ろうとした瞬間、ぞわりとした怖気が背筋を這った。さながら警鐘のように。瑞樹には、その先を考えるのがとても恐ろしい事に思えた。

 無理矢理に思考を中断すると、明るい廊下に背を向ける。そして薄暗い階段を足早に上り始めた。


 中央階段を上り、四階と書かれた分厚い防火扉を開く。病棟へと足を踏み入れた瞬間、聞きなれた声が瑞樹を呼び止めた。

 「お疲れ様です先輩! っていうか、ヤバいですよ先輩」

 そのあまりにもあけすけな口調に瑞樹の方が面食らう。ヤバいって何がだ、自分の顔はそんなにヤバい顔をしているのだろうか。そんな内心の動揺を他所に、興奮冷めやらぬといった様子で藤枝は言葉を続けた。

 「403の川村さん、今日リハ中に転倒しちゃったんですよ! 」

 「え、噓でしょ!? 容体は? 」

 「転倒の際に前腕と右臀部を打ったみたいです。画像取って骨折等は無かったんですが、打撲による内出血がもう酷くて……それで、転んだ場所っていうのが、あの例の第二外来室前なんですよ」

 第二外来室前。その単語を聞いて心臓が大きく跳ねた。今朝の不可解な出来事が否応にも思い出される。

 じわりと滲んだ冷や汗をごまかしつつ、適当にお茶を濁して瑞樹はナースステーションへ向かう。休憩室に荷物を置いて再びステーションへと戻ると、同僚への挨拶もそこそこにカルテワゴンに手を伸ばす。探すのは転倒した件の患者のカルテだ。けれど、ワゴンのどこを探してもカルテは見つからなかった。

 「今西さん、もしかして川村さんのカルテ探してます? 」

 呼ばれた方へ向き直ると、ステーションの中央に置かれた机の向こうで同僚の一人が笑顔を見せていた。

 「そうなんです。転倒したって聞いたんですけど、流石にまだレポートは出てないだろうなって」

 「やっぱりその件だよね。丁度今記録書いてると前んだけど、第二外来室の前を歩こうとしたら右に倒れて壁に腕を打ち付けたみたいでさ。で、そのまま尻餅を着いたらしいわよ。レポートも後で出すからちょっと待ってて」

 けど、続くよねぇ。そう言って同僚はカルテに目を戻す。何が、とは聞くまでもないだろう。流石に記録の邪魔は出来ないと、瑞樹は先に転倒した川村敦子の病室を訪ねてみる事にした。

 ナースステーションをでてすぐ横に403とプレートで掲示された病室の入り口がある。扉が開け放たれたままの広い入り口をくぐると、壁にぴたりと沿う様に置かれたベッドが左手前に見え、その上に一人の細身の老女が静かに横たわっていた。

 「川村さん、お加減はいかがですか? 」

 「あら看護婦さん。それがねぇ、痛むのよねぇ。もうすぐ子供にご飯作らなきゃいけないのにどうしようって悩んでたのよ」

瑞樹はベッドサイドにしゃがみ込み、横たわる川村に目線を合わせた。

 御年八十七歳を迎える川村敦子は、ほとほと困り果てたとばかりに悩ましく返答する。既往歴に認知症を抱える彼女の心はいつだって育ち盛りの子供を抱える母親だ。常に家族の事を気に掛ける彼女の姿に、実家の母親を思い出して郷愁に浸ることも少なくない。瑞樹達職員に対しても人当たりの良い笑顔を見せてくれる彼女だが、今やその顔は顰められ目には涙が溜められていた。

 「痛みがある時は無理をなさらない方がよろしいですよ。いつも頑張ってらっしゃるんですし、今日くらいはご家族に甘えてみても宜しいんじゃないですか? 」

 「そうかしらねぇ。けど、うちの主人碌に料理も出来ないのよ。心配だわ」

 「今日一日はお弁当で済ませて貰っても罰は当たりませんよ。川村さんが元気になる方が大事なんですから。転ばれたと伺ってますし、今日はしっかり休養を取られてください」

 そう言って笑顔を見せると、渋々ながらといった様子で彼女は了承の意を返してきた。恐らく今晩はこのやり取りを繰り返す事になるだろう。瑞樹は内心で苦笑した。

 「ところで、転ばれた時の事って何か覚えてらっしゃいます? 何かに躓いちゃったとか、滑って転んだとか」

 「それがねぇ、何にも分からないのよ。男の人と一緒に立って、歩いてたら急にどすんって。私もびっくりしちゃった。もう痛くて痛くて、これから子供達にご飯作らなきゃいけないのにどうしようって」

 「そうですか。急な事で驚かれましたね」

 彼女が言う通り、当事者にとっては突然の事だ。そこに至る過程はともかく、起こってしまった瞬間の事を子細に記憶できる人はそう多くは無い。それでもと暫く粘ってみたが、果たしてそれは原因究明の為だったのだろうか。それとも、今朝からこびり付いて離れない奇妙な妄想を否定したいが為だったのだろうか。

 それから暫く会話を続けて見たものの、やはり同じやり取りのループに陥りそうになり、瑞樹は諦めてこの場を辞することにした。適当にお茶を濁してベッドに背を向けた時、背後から川村の声が聞こえた。

 「けどあの時、何かに引っ張られた気がしたのよねぇ」

 思わず振り返ると、ベッドに横たわる川村が神妙そうな顔をしている。瑞樹は再びベッドへ近づき、川村に目線を合わせてしゃがみ込んだ。

 「何かに引っ張られたんですか? 」

 「そうそう、思い出した。歩いてたら、何かに身体がぐいって引っ張られたのよ。痛かったわねぇ」

 左に麻痺のある川村の歩行介助は右手で手すりを持ち、左に介助者が立つ。もし、何かの拍子に介助者が左へ引っ張ってしまうと、重心は寧ろ右側へ行こうとして体勢が崩れることもあるだろう。それならば、右側を受傷した理由にも説明がつく。とはいえ、川村の歩行リハビリを担当するのは院内でもベテランに入る職員なのは瑞樹もよく知っている。そんな熟練のリハビリスタッフが患者を強く引っ張ったりするだろうか。断言ができる訳ではないが、可能性としてはあまり高くないように思えた。

 「リハビリの先生が何かの拍子に引っ張っちゃったんですかね? 」

 「リハビリの先生ってあの男の人? なら違うわねぇ。引っ張られたのは右側にだもの」

 痛みが強いのだろう。少し顔を顰めながら、それでも屈託のない笑みを浮かべて川村は言った。

 「右側にいたのは女の人よ。けど、なんだかすごく怖い顔をしてたかしらねぇ」


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