第2話
世界で初めての医療行為とは、薬効を目的とした薬草の使用とされている。恐らくは人類が文字を習得する以前から行われていたと推定されているが、詳細は今もって不明だ。記録に残る範囲では、紀元前2600年頃にエジプト王朝の宰相イムホテプが病気の診断と治療に関する教科書を発行したのが最古とされている。そして紀元前420年頃、古代ギリシアの医師ヒポクラテスが提唱したヒポクラテスの誓いを機に、科学的知識に基づく行為としての医療が始まり、その後世界各地で発展を続けて今に至っている。
すなわち医療とは、科学的に立証された根拠に基づく治療や看護、公衆衛生といった人間の健康に対する活動であり、人間の手で行われる行為と言えるだろう。しかし、人間は完璧な存在ではなく、時として過ちを犯す事もある。また、その人間が作り出した環境も、最初から全てが整えられた安全な環境であるとは限らない。そして、それらの不完全さがもたらす綻びが患者へ向けられてしまった時、発生するのが医療事故だ。
しかし、人間は不完全であるがゆえに完璧を求める生き物である。これまでこの国においての医療事故とは決してあり得てはならないものとされ、発生は個人の注意力不足といった資質によるものという捉え方が強く、それが九十年代まで続いていた。
風向きが変わったのは一九九九年。横浜市立大学病院での患者誤認事故や、都立広尾病院での消毒薬の血管内誤注入事故、そして翌年の京都大学医学部付属病院にて人工呼吸器加湿器へのエタノール誤注入事故と連続して大事故が発生した。これを機に、この国でも医療事故は誰にでも起こりうるという認識が高まり、医療安全への取り組みが全国で活発化していった。
そうした取り組みの一つが、医療法上における“医療に係わる安全管理の為の委員会の開催すること”であり、すなわち医療施設における“医療安全管理委員会”の設置と開催である。当然、向井リハビリテーション病院もそれに倣い、医療安全管理委員会を設置していた。だが、この場合の医療安全管理委員会とは、各部署の代表者によって運営される管理部門の一つで、謂わば安全に関わる全てを統括する司令塔のようなものだ。その司令塔の指揮の下、細かな活動を行う小部隊として組織されているのが瑞樹の属する医療安全小委員会であった。
医療安全小委員会では、各病棟で報告されたインシデント・アクシデントレポートやその対策を報告し合い院内全体への周知を図る他、安全管理マニュアルの改定と追加、定期的な院内勉強会の企画運営などその活動は多岐にわたる。それらの活動を通じ、日々医療提供における安全性の維持または向上を図る事が趣旨としていた。二~五病棟の各三名及びリハビリ科三名、薬剤科並びに栄養科、医事総務課が各二名の計二十一名から構成され、毎月第一火曜日に開催されている。とはいえ、勤務の都合上全員が毎回揃う訳ではない。今回も瑞樹以外の二人は夜勤明けの為欠席であり、他部署にも来ていない委員はそれなりにいるようだった。一応の勤務希望は出しているとはいえど、人手不足の昨今では委員会よりシフトの都合が優先されるのは仕方のない事である。一人出席出来るだけで御の字だと、シフト表を思い出しながら瑞樹はため息をついた。
どこの施設も同様だろうが、通常勤務に加えての委員会業務はそれなりに悩ましい存在だ。多岐にわたる業務内容そのものには所属五年目を迎えた今ではもう慣れたものだ。けれど、他の委員会が業務時間内の開催であるのに対し、医療安全委員会だけは時間外の開催である事だけが瑞樹の憂いの種だった。
「では次、四階病棟さんお願いします」
会では各病棟のレポート内容の報告が行われていた。けれど、カルテの記録を残してきているせいか今一身が入らない。手元に開いたファイルを指で弄りつつ、ちらちらと時計の針を見ていた瑞樹は、意識の外から入り込んできた声に一瞬反応が遅れた。
「四階さん? 今西さん、大丈夫? 」
「あ、すみません。今発表します」
慌ててファイルに目を落とすと、先月のレポート内容を纏めたページを開く。先月はインシデント、アクシデントを合わせて五件。その内患者の経過観察といった対応を要したのは三件と、あまり芳しくない結果で占められていた。
「五件中二件が落薬の発見で、どちらも患者特定に至ってます。が、現在の所状態に変化はありません。対策としては与薬後に口腔内を確認する事としています。残り三件はリハビリ中の転倒で、それぞれに膝への擦過傷や内出血が発生し処置を行っています。画像上では骨折や脱臼にまでは至っていないので全てレベル3aとしました。病棟での対策としては、病棟でも同様の状況は起こり得ると仮定して立位や歩行前に周囲の環境を整える事と、障害物の有無の指差し呼称を行うとしました。以上になります」
若干駆け足気味に報告を終えると、五階病棟と、次いでリハビリ科が発表を行う。無断離棟や誤薬未遂、リハビリスケジュールの調整ミスといった、普段からままある事象が続けて報告されていく。しかし、どちらにおいても大半が転倒であり、設けられた対策も瑞樹の発表したものと似たり寄ったりな内容に終始していた。発表される報告を耳にしつつ、それにしても、とぼんやりとした考えが瑞樹の脳裏を過る。まともに聞いていたのは自病棟を含めた三部署分だけとはいえ、先月はやけに転倒が集中的に発生していたのではないだろうか。
「なんか、転倒が多くないですか? 今までこんなに集中して発生してた事ありましたっけ」
どうやら同様の感想を抱いたものは多かったらしい。声を上げた二階病棟の若い委員に賛同するように、その場にいたほぼ全員が首を縦に振る。その様子から、碌に聞いていなかった他の部署でも転倒が多発しているのだと伺い知ることが出来た。
確かに患者の転倒という事故は様々に発生する有害事象の中でもポピュラーな部類であり、自部署のみならず病棟やリハビリ科から毎月一件や二件は報告として挙がってくるものだ。しかし交わされる会話を聞くと、今回はそれぞれの部署で平均三件は発生している。その上医事総務課や薬剤科、栄養科でも転倒による物品の破損といった形で、患者のみならず職員を対象として事象が発生していた。総合的な件数としても、個々の内容としても、これは明らかに異常だ。
「ちょっと伺いたいんですけど、転倒された場所って一階の第二外来室の前が多くないですか? 」
リハビリ科の男性スタッフがおずおずと遠慮がちに手を上げた。彼の声に従う様に、手元のファイルを捲る音が会議室に広がっていく。瑞樹もファイルを読み返し、その目が発生場所に記されている共通の名に釘付けになった。
「本当だ。どれも第二外来室前になってる」
「うちもほとんどがそうですね。けど、あそこって何か段差とか障害物は無かったはずだけど 」
瑞樹の声に続いたのは三階病棟の看護師である村瀬だった。瑞樹よりも十年は長く病院に在籍しており、看護師としてのみならず医療安全委員としても彼女は大先輩である。そんな彼女の疑問に、誰もが沈黙を持って返答する。一階総合受付の直ぐ傍にある外来室は、計三室が廊下に沿って横並びになっている。その真ん中に当たる第二外来室の前といえば、ただ長い廊下が続いているだけの殺風景な場所だった。歩行を妨げるような段差は無く、横に長く伸びた手すりが等間隔に設置されている。その為、歩行リハビリの場として度々使用されてきたものの、ここ五年間での報告にはあまり挙がらなかった場所であった。
「例えば機材庫に入らなかった段ボールとかを置いてあったりしたとか」
「総務からはそんな報告受けてないですし、私達も受付から近いのでよく見ますが、それらしい障害物の様なものが増えたという様子は無いですね。精々壁に飾る絵が加わったってくらいです」
「ああ、あのどこにでもある様な普通の絵ね」
長橋が返した率直な感想に、説明をした医事総務課の職員が苦笑する。瑞樹も時折外来の前を通る事はあったが、そんな絵が増えていた事にすら気づかない程度には無関心だった。それは決して瑞樹だけではなかったようで、他の職員からも少なからず驚く声が続く。絵の一つが増えた所で何が変わるという訳ではないが、その一つの変化にすら気づかなかった無関心が廊下に現れていた危険を見過ごしてしまっていた、という可能性は無きにしも非ず。
いずれにせよ、これだけの件数は無視できるものではないと、長橋の鶴の一声により委員全員で第二外来室前に足を運んでの実地検証が決定した。
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