第3話

 次回の院内勉強会と、月一回発行の医療安全だよりの担当者を決め、総勢十八名が一斉に立ち上がる。そのままぞろぞろと並びつつ、一行は薄暗い廊下を抜けて外来前へと訪れていた。

 向井リハビリテーション病院では『地域に開かれた病院』というモットーの元、外来診療も受け付けている。しかし、療養型とは診療科目で言えば内科に属し、勤務医も大半が内科を専門とする。その為、訪れる一般患者の診療は内科に限って受け付けていた。しかし、外科医がいないという訳ではなく、医師の中には院長を始め外科を専門とする者も何名か存在する。その彼らによる在宅患者の胃ろうやIVHの交換といった外科外来も、元入院患者に限り完全予約制で行われており、昼間の外来室前ではそれなりに賑わう光景が広がっている。

 そんな外来室前も、診療を終了した今は人影の一つすらない。まるで時が止まってしまったかのような寂寥感だけが漂う中、廊下の感触を確かめる委員の足音だけが響き渡る。物一つない殺風景な廊下を何人かに混じって廊下を歩いてみた瑞樹だったが、どれだけ神経を研ぎ澄まそうとも、やはり障害物どころか段差の一つすら見つけることは出来なかった。

 「滑り具合も変わらない様子ですけど、どうしてあんなに転倒が集中したんでしょうね」

 「何でかしらね。見通しもいいし、今はそんなに特別転びやすい場所には思えないんだけど」

 皆この絵にびっくりしたんじゃないかしら。そう言って長橋が指さしたのは、壁に掛けられている一枚の絵画だった。黒と紫が混ざり合った宵闇の空を背景に、二羽の白い大きな鳥が翼を広げて向かい合っている。広げられた翼は雄大かつ繊細に描かれており、それなりに迫力があった。

 少し下を見ると、立派な金縁の額の下には『寄贈 大沢美登里』と掲示がされている。

 「寄贈品なんですね、これ」

 「ええ。当院に入院されていた大沢様という方のご家族が是非にと。院長も気に入られてここに掲示することになったんです」

 なるほど、元々入院患者だったのか。医事課の説明に、それならと瑞樹は得心を得た。他の場所にも絵画は飾られているが、その殆どが入院患者やその家族からの寄贈であるのは周知の事実だ。日頃コスト管理に目くじらを立てているあの院長がわざわざ飾るための絵を買うだろうかと疑問だったが、寄贈という事であれば納得も出来る。

 それにしても、と視線は自然と絵に向かう。見れば見る程迫力のある絵は、描いた者の気迫や生命力を感じさせた。向かい合う二羽の鳥を通して、作者に見られている様な感覚さえ覚える。

 暫く絵を見つめていると、瑞樹の目の前で翼がゆらり、と揺らめいた。

 「え? 」

 二三度瞬きをして、再び絵を覗き込む。近づくと、羽根の一枚一枚を縁取る七色の光が目に映った。メタリックな艶が印象的な、とても美しい輝きだった。瑞樹は注意深く観察しようと、首を動かして様々な角度から覗いていく。すると、僅かな視線の動きに合わせて羽根はその輝きを変化させた。面白いじゃないか。同じ絵を見ている筈なのに、一時として同じ輝きは見られない。目まぐるしい変化が面白く、気づけば夢中になって眺めていた。

 もっとよく見ようとして、瑞樹は絵に顔を近づけていく。それは意識的な行動というよりも、絵に吸い寄せられていくといった感覚だった。

 そして、絵まで後数センチと迫った時、輝きはまた変化を見せた。

白い翼の全体に散らばっていた光が、その中央に集まって幅の広い輪のような形になる。まるで虹色の花が咲いたようだ。あまりにも美しい光の輪に、瑞樹はすっかり魅了されていた。他の全てを放り出して、いつまでも眺めていたいとすら思えた。抗い難いその魅力が思考を、そして目を動かそうとする意識さえも奪っていく。それでもなお、瑞樹は覗くのを止められない。

 覗き込むほど、光の輪は輝きを増していく。より艶やかに、そして鮮やかに。そうして光の輝きが増していくと、突然輪の中央に小さな暗い影が生まれた。その小さな影はどこまでも暗く、深い。まるで底なしの穴のようだ。瑞樹の視線は光を越え、その暗い穴の中へと吸い込まれていく。目が離せない。暗い穴が、瑞樹の意識を奥へ、奥へと誘っていく。逃げられない、と思った。けれど、何からだろうか。近づき、覗き込んでいるのは瑞樹のはずだ。だが、いつの間にか主導権は奪われ、穴が瑞樹を支配している。

 果たして覗き込んでいるのは自分なのか。それとも、穴の方なのか。

 もしくは――その奥にいる得体の知れない何かが。

 脳髄を這い上がってきたような不穏な思考に、ぞくりと背筋に怖気が走る。心臓が早鐘を打ち、全身が粟立った。一歩、二歩、と穴の前から瑞樹は下がる。足が酷く重かった。生まれたての小鹿のようによろめく足を叱咤して後ろへ下がると、穴を取り巻く光の輪が見えてくる。だが、そこまでだった。目線が、顔が、身体が石の様に硬く、動かせない。目の前には暗い空に白く映える向かい合った対の翼。暗い穴を囲む光の輪は、左右の翼それぞれの中央に見えていた。どちらの光も艶やかで、色鮮やかに輝いている。

 ――不意に、その輝きがぎょろりと、動いた。

 「きゃあっ! 」

 ドスン、と大きな音と共に、足裏に伝わる振動。その衝撃が、凍り付いた瑞樹の体を解きほぐす。

 自由になった目に映ったのは、向かい合う白い翼だった。そこには光の輪も、底なしの穴も無かった。そんなはずはない、翼はもっと光り輝いていたはずだ。その輝きが生んだ光の輪と、その中心の深い穴が確かに見えていたのに。混乱する瑞樹の耳が、小さなうめき声を聞く。慌てて絵から離れて横を見ると、すぐ傍の床で村瀬が尻餅をついていた。

 「ちょ、大丈夫ですか? 」

 「だ、大丈夫です。ちょっと、滑っちゃって」

 瑞樹が差しだした手を握り、村瀬が起き上がる。滑ってしまったという言葉とは裏腹に、程よくワックスが効いた廊下は滑りやすい感触には思えない。しかし現にすぐ横で転倒が発生したのだ。もしかするとそこに根本原因の手掛かりがあるかもしれない。

 更に言葉を重ねようとした瑞樹は、けれど村瀬の顔をみて口を噤んだ。俯きがちなその顔は血の気が引いたように青く、全身が微かに震えていた。

 「ちょっと、顔青いわよ。大丈夫なの? 」

 「だ、大丈夫です。ただちょっと、驚いちゃって」

長橋の声に、村瀬が訥々と答える。その声に、何に、とは聞けなかった。村瀬が徐に顔を上げる。その視線が向く先を、瑞樹は追うことが出来ない。忘れかけていた輝きが脳裏を過り、怖気が再び全身を這おうとする様に感じた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る