第4話


 「呪いの絵、ってやつなんじゃないです? それ」

  戻ってきたナースステーションで、後輩の訝し気な声が上がった。下で起きたことを半ば呆然と説明していたせいだろう、つい余計なことまで言ってしまったようだ。ありもしない絵の輝きが、そして暗い穴が恐ろしかったなどと。

自分でもよくわからない妙な体験は、藤枝にとってセンセーショナルな刺激となったらしい。

 「絵の持つ呪いの力が皆を転倒させていて、先輩を引きずり込もうとしたんですよ」

「そんなのある訳ないでしょ。とはいえ、目の前で転倒が発生しちゃったし、あそこに転びやすい何かがあるってのは確かなんだろうけど」

 「けど、ここのところ噂になってるんですよ。あそこで転倒が増えているのは絵の呪いじゃないかって」

 わざとらしく体を震わせて藤枝は言う。絵画一つに随分と長い尾ひれを付けたものだと、寧ろ関心すら感じられる。決して褒められたものではないだろうが。薄く開いた半目に隠しもしない呆れを込め、瑞樹は藤枝へと視線を送る。

 「そんな目をしてますけど、先輩だってあの絵が恐く見えたんでしょ? 」

 「それは……そうね」

 あっけらかんとした藤枝の指摘に、瑞樹は押し黙るしかなかった。噂はただの噂に過ぎない。そう否定しようにも、自分自身があの絵に酷く恐怖を感じてしまった手前強く言い返せなかった。目の様に見えた輝きと、穴から覗き込まれている様な感覚。そして這いまわる怖気。目を閉じればすぐにでも蘇ってくるあれらを、単なる気のせいと断じることが出来ないでいる。転倒事故の原因が絵の不気味さだと言われれば素直に納得してしまうかもしれない。

 「それはいいから、早く記録終わらせちゃいなさいよ。いつまで経っても帰れないよ」

 「そう言う先輩こそ、さっきから手が全然動いてないじゃないですか」

 「私はただ、あそこの転倒対策をどうしたらいいか考えてるだけだよ、ほらちゃっちゃと書いた書いた! 」

 口ではそう言うものの、先刻から思考は白一色のままだった。実際に赴いても尚、あの廊下における追加の危険要素を見出すことが出来なかったのだ。これでは確実に予防につながる対策など立てようがないと、瑞樹は唸り、頭を抱えた。

 (『では、これよりインシデントに対するKYTを行いたいと思います』)

 重みの増した瑞樹の頭を過っていく自分の声。それは、遡る事先月の中旬の記憶である。


 この日、四階病棟では一件の転倒が発生していた。正確に言えば、入院患者の一人が一階での歩行リハビリ中に突如右側へ転倒。そのままリハビリは中止となり、右膝の擦過傷と共に帰棟したという出来事だった。帰棟後は医師の診察依頼にレントゲン撮影、そして患者に対する擦過傷への処置や全身の観察にと一時病棟が騒然となったものある。

 そして不運な事に、この患者を当日に担当していたのは他ならぬ瑞樹であった。対応と通常業務に奔走した後、漸くインシデントレポートを書き上げたのは、終業前のミーティングを直前に控えた夕方のことである。この時点で既に満身創痍であったが、瑞樹にはまだ安息の時間は訪れない。何故なら、終業前のミーティングこそが事象への対応における正念場となるからだ。

 夜勤者への申し送りが全て終わり、ミーティングの場となったナースステーションで瑞樹は声を上げた。

 「では、これよりインシデントに対するKYTを行いたいと思います」

 そう言うなり、瑞樹は『KYT分析シート』と呼ばれる用紙を机の上に置いた。

 有害事象の発生時はインシデント・アクシデントレポートが作成される。ここまではどこの医療施設においても共通事項だ。そして、作成されたレポートの内容を基に事象の分析と対策の立案が行わる事となるが、ここからが各施設によって明確に異なる部分になるだろう。事象の分析と対策の立案には、ただ闇雲に話し合いがされる訳ではなく、いくつかの確立された分析手法によって系統的に行われていくものである。

 用いる手法には『SHELモデル』や『背景要因分析手法』といったいくつかの種類が存在するが、瑞樹達が用いているのは『KYT(危険予知トレーニング)』と呼ばれる手法だ。一つの事例に対し『現状把握』『本質追求』『対策樹立』『目標設定』四つの段階をかけて分析し、対策を立てていくが、短時間で実用的な対策が立てられるのが利点である。そして分析の際に用いられる用紙を、瑞樹達はKYT分析シートと呼んでいた。

 「では、どんな問題があったのか、推測を含めて挙げていきましょう」

 分析開始の慣用句を瑞樹は口にする。普段であれば、この号令に合わせて推測も含めた様々な意見が挙げられていくものだ。だが、この時のナースステーションは妙に静まり返っていた。その場にいる誰もが何を言うでもなく沈黙を守っていたのだ。それは瑞樹とて同じであり、白紙状態の思考を必死に巡らせるのが精一杯であった。

 「正直ねぇ、これで三件目でしょ? 思いつくものも無くなっちゃったわよ」

 介護士で病棟副主任の西口が言う。彼女が言うように、四階病棟では今月だけで三件もの転倒の話し合いを行っている。どれも日中、一階でのリハビリ中と似通った状況での転倒だ。違いと言えば精々認知症の有無くらいである。誰から転ぶ度に要因であろう状況を考え、挙げて、そしてその背景をまた考え、挙げての繰り返し。故に、思いつく要因が似通ってきてしまうのは必然的と言えた。

 「廊下が滑りやすくなってたとか、手すりが上手く握れてなかったとか、同じ事でもいいんです。とにかく色々挙げていきましょう。」

 「そうよね。挙げてくしかないわよね。なら、外来で来た人に驚いてバランスを崩したってのを挙げとくわ」

 瑞樹の提案に、西口も意見を出す。彼女に続くように、他の者からも声が上がり始める。そうして挙げられた幾つかの中で、選ばれたのは『人を避けようとして、バランスを崩した』というものだった。

 次に、そうなってしまった背景要因を挙げていく事になるのだが、ここで再び声が止まってしまう。またか、と内心で思いつつ瑞樹は努めて慇懃に促した。そして漸く『外来患者の多い時間帯でのリハビリ実施』や『患者の注意が散漫になっていた』等の幾つかが挙がり、ひとまず胸をなでおろす。

 さて、肝心の対策であるが、これがまた問題だった。

 今回の転倒では発生はリハビリでその後の対応は四階病棟と二つの部署が関わっている。このように、発生からその後の対応に至るまでに複数の部署が関わっている場合、向井リハビリテーション病院ではそれぞれの部署でレポートの作成と対策の立案をすることとなっていた。つまり、自分達が直接関わっていなかった事に対する対策が求められてくるのである。しかし、現実的にそんな対策は立てられない。

 ならば一体どうすべきか。瑞樹達の立てた対策は『立位や歩行前に周囲の環境を整える』『障害物の有無の指差し呼称を行う』というものだった。つまり、自分達の部署で同様の事象が発生すると想定して対策を立てたのである。それらの対策を取り入れた目標設定と指差し呼称項目を設定し、今回の転倒についてのKYTは終了した。 

 だが、違う患者の転倒事案について書かれた物のはずなのに、やはり先の二件と似通ったものになってしまっている。まるで出来の悪い金太郎飴を作り続けているみたいだ。声にならない呟きが、瑞樹の口から零れていった。

 話し合いが終了し、仕事を終えた同僚達は休憩室へと去っていく。記録が残っている瑞樹は、取り残されたように一人ナースステーションでカルテを開いていた。

 「今西さんお疲れ。私先に帰るわね」

 「お疲れ様です。今日はありがとうございました」

 声を掛けてきた西口に瑞樹は笑顔で礼を返す。話し合いの際の、最初から諦めたかのような態度に思う所がないわけではないが、表立って反発するつもりは無い。それに、彼女の声があったから意見が出始めたのもまた事実であり、ありがたかったのは確かだった。

 「まだ記録残ってるの? 大変ね」

 「けど、今日のインシの事を書けば終わりなので大丈夫です。ありがとうございます」

 「そう? なら、お先に失礼しますね」

 そう言って踵を返そうとした西口だが、瑞樹の手元にあったレポートを目にとめて立ち止まる。

 「原因は分からないし、結局同じことの繰り返しだしで、このレポート自体に意味あるのか分からなくなってくるわねぇ」

 そう言って去っていく西口の背中を、瑞樹はただ見送るしか出来なかった。

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