第5話


 通常、事故防止策とは一律にこうすればいいというものではない。発生に至った原因を細かに分析し明らかにしたうえで、個人の資質に頼るのではなく業務手順や制度といったシステム全体での予防策を立案するのが適切とされている。例としては、患者の転倒に対してまず現状の立位や歩行の可能とされるレベルが適切に判断されているかどうかを再検討し、一律に活動を禁ずるのではなく確実に職員が付き添えるようルールの改定や、現場となった場所から活動の障害となり得る要因を排除していく(設備の変更)といったものなどが挙げられるだろう。

 だが、それらは原因が判明して初めて立案可能となるものだ。肝心の原因が分からぬままでは『注意しましょう』『気を付けていきましょう』のようなお粗末な評語くらいしか思いつく物は無い。だからこそ事象の分析をし、原因に対して改善をしていく為にレポートを提出するのである。

 しかし、同じような話し合いで、同じような対策を立案する。繰り返されるという事は、事故の性質的に繰り返されるものなのか、それとも根本原因の排除に至っていないかだ。効果的な対策も立てられず何件も続いてとなると、辟易してくるのも頷ける。

 一体何が原因なのか。そう考えた瑞樹の脳裏で、色鮮やかな光の輪がぎょろりと瑞樹を覗きこんだ。

 「……一体何がどうなってんのよぉ~」

 「煮詰まってますねぇ、先輩」

 逃げるように机に伏せた瑞樹の頭に、笑いを嚙み殺したような後輩の声が突き刺さる。まるで他人事の様な後輩の声が恨めしい。患者が転倒しているというのに、実に呑気なものだ。あんたにも無関係じゃないのよ、看護師三年目。先輩として情けなさを抱きつつ、すわ言い返さんと顔を上げた時だった。

 「あら、煮詰まってるわねぇ今西さん」

 背後から聞こえた声に振り返れば、ステーションの入り口で朗らかに笑う長橋の姿があった。その手には委員会に持参していたファイルではなく、大量の資料の束が抱えられている。

 「それ、課長にですか? 」

 「ええ、資料がある事自体は先に言ってあるから大丈夫よ。ちょっとデスクに置かせてもらうわね」

 聞けば所属長会議で配られた資料を届けに来たらしく、一抱えもある資料をステーションの隅にある課長用デスクに置いていた。

 「それで、今西さんは何かいい案浮かんだかしら」

 振り返って長橋が見せた笑顔に、対する瑞樹は神妙な面持ちで返す。

 「いえ、何も浮かびませんよ。障害物もないし、段差もない。特段滑りやすいって訳でもない。さっき村瀬さんが何で転んだのかも正直よくわからないです」

 「そうよねぇ。滑った、とか驚いたとか言ってたけど、他の人もそうなのかしらね。まあ、確かに美登里さんのあの絵は迫力あってびっくりするのは分かるけれど」

肩をすくめながら長橋は言う。その言葉に、瑞樹は妙な引っ掛かりを覚えた。これは直接聞いた方が早いと、浮かんだ疑問をそのまま口にする。

 「長橋課長、あの絵の作者の方をご存じなんですか? 」

 「ええ、うちの病棟に美登里さんは入院されてたのよ。ここでリハビリしてから退院していったわよ」

 あんな絵を描かれていたとは知らなかったけど。啞然とする瑞樹に長橋はにこやかに言った。

 長橋曰く、絵の作者である大沢美登里とは上品かつ気品のある女性であったらしい。意識障害や高次脳機能障害もなく、身体に麻痺もない療養型病院には珍しい自立度の高い患者だったという。

 「身なりや人付き合いには非常に気を使ってらっしゃる方でね。キョロッとした目が可愛いお婆ちゃんだったわよ。毎朝出勤すると車いすに乗って朝の挨拶をしに来てくれてね、家に帰るんだって歩行リハビリも頑張ってたのよ」

 「そうだったんですね。うちの病棟もだと最近は医療区分Ⅲの寝たきりの方ばかり来るので、歩行リハまで行えるくらいの自立度の方は少なくて。だから自宅への退院支援に関われる機会も少ないから羨ましいです」

 医療区分とは、一人の患者に対しどれだけの医療を必要とするかに応じて国が設定した枠組みである。三段階あり、数が増えていく毎に重症度も上がっていく。区分が高い患者を受け入れるほど得られる診療報酬が高くなるよう設定されており、これは重症度が低い者に対し、医療施設ではなく在宅や施設といった地域での療養を促す方針の為とされていた。よって、受け入れる患者の多くは必然的に重症度の高い寝たきり患者が殆どとなり、瑞樹も自立度の高い患者を受け持った経験が乏しい。

 「家に帰るんだって言ってたって事は、その方は自宅退院されたんですね。凄いなぁ~」

 後輩がにこやかに感想を述べる。看護師三年目になる彼女も接する患者は殆どが寝たきり状態だ。経験が乏しい故の珍しさが勝っている、という心境が如実に感じられる声音だった。

 しかし、一方でそれを聞いた長橋は顔を少し曇らせている。

 「課長? どうかされたんですか」

 「いえね、自宅に帰れれば良かったんだけど、あの人施設退院になっちゃったのよね」

 「え、歩行リハビリが出来る位の方だったのに。勿体ないですね 」

 けれど、恐らくは仕方がなかったのだろうと瑞樹は思う。歩けるようになれば誰でも自宅に戻れる、という程自宅退院とは簡単なものではない。それは、看護師として承知すべき基本知識の一つだろう。

 まず、一言で“歩ける”と言っても、その一言が指す到達レベルは様々だ。完全自立なのか、杖などの補助具を使用するのか。それとも手すりなどを使っての伝い歩きなのか、と言った違いが挙げられる。また、一度に歩行可能な距離がどの程度なのかという事も、歩行状況を評価する上では重要となるだろう。

 そして、それらの違いを把握したうえで、自宅で生活する為に必要なレベルと比較し、目指すべきは自宅退院なのか、その為にはどのような支援が必要なのかを検討していく。求められるレベルは各々の自宅の形態等にもよるだろうが、求められるレベルに対して歩行を含めた身体機能の他、高次脳機能障害や認知症の有無といった脳機能の状態、利用可能な介護サービス、そして家族の支援の有無等々の諸状況を鑑みた結果、自宅退院を断念せざるを得ない場合は少なくない。恐らくは大沢にも断念せざるを得ない事情というものがあったのだろう。

 向井リハビリテーション病院のような療養型病院においては、自宅退院が視野に入る患者そのものが実に稀なものだ。だからこそ、認知機能の低下もない大沢の様な患者が自宅へ帰れなかった事が瑞樹には尚更残念に思えた。

 「やっぱり歩行できるような方でも自宅となるとまた難しいんですね」

 「それがねぇ、違うのよ」

 苦笑を浮かべて長橋は言う。違うとは一体どういう意味だろうか。首を傾げた瑞樹達に、長橋は一言で簡潔に説明した。

 「入院中に転倒しちゃってね……骨折箇所が悪くて歩けなくなっちゃったのよ」

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