院内怪異リスク

彼方

第1話

 カチリ、と針が動く音がして、瑞樹は広げたカルテの看護記録から目を離した。

 音のした方を見やれば、ナースステーションの中央に掛けられた大きな丸時計が午後五時半を示している。今日の日勤はこれにて終了。ここからは長い残業の始まりだ。内心でうんざりしつつ、椅子に坐したまま大きく背伸びをした。

 すると、遠くから近づく足音が聞こえてくる。夜勤者が空になった経管栄養を回収しているのだ。総勢三十二人分もある経管栄養は回収だけでも一苦労で、その大変さは瑞樹もよく知っていた。しかし、夜勤は経管栄養を回収してからが本番である。回収が終わると、物品を乗せたワゴンを片手に夜勤者は検温と痰吸引に回り、それが終われば記録し、そしてまた病棟を回る。合間に入るナースコールに対応しつつ、それを一晩繰り返すのだ。まさに体力勝負そのものの夜勤だが、これは瑞樹の病棟に限った話ではない。この病院の全ての病棟ですべからく行われる日常の光景である。

 ここ、向井リハビリテーション病院は全198床を抱える療養型病院だ。一階に外来及びリハビリ室、薬剤科や医局、食堂といった外来患者や職員に向けた設備を供え、二階から五階の各階全てが慢性期の医療療養病棟となっている。療養病棟とは、急性期医療を終えて病状が安定してもなお、引き続き医療管理の必要性が高く入院加療を要する患者の為の入院施設だ。生死の境を超えはしたが、それでも継続的な医療行為や観察を要する重度の障害を負った状態の者が患者の大半を占めている。有り体に言えば、寝たきりの高齢者が多いのだ。自分自身にまつわる全てを他者に依存している患者達に対し、看護として介入すべき役割は多岐にわたる。特に夜勤中の看護は看護師一人で行わなければならないのだ。それがいかに大変なことであるかは、身に沁みてよく理解している。

 今夜一晩頑張ってください。近づいて来る足音に瑞樹は胸中で頭を下げ、瑞樹は再びカルテへと目を向けた。

 瑞樹が今書いているのは、日中に転倒した患者に関する記録だ。病室の入り口で倒れていた患者は八十六歳の女性で、病棟では介助のもと車椅子での移動を要する人物だった。しかし全く歩けないという訳ではなく、リハビリでは歩行訓練を行っているという状況でもあった。だからこそ気を付けていたのに、と瑞樹は唸り頭を抱えた。

 寝たきり患者が大半を占める療養の患者の中にも、このようにリハビリで歩行訓練を行えるまでに身体機能が回復する者はいる。それ自体は非常に喜ばしい事だ。しかし、認知症も患っているとなれば、病棟看護師として抱く感想は少し変わってくる。  

 訓練中という中途半端な歩行能力は、それだけで転倒の危険が高い。故に、トイレや食堂へといった病棟での移動には車椅子の使用が選択される。しかし、認知症があると不十分な歩行能力への認識そのものが危うくなり、便意や尿意を感じた際や自宅への帰宅願望が高まると、車椅子を使わずに歩き出してしまうのである。運が良ければ転倒前に見つけられる事もあるが、今回瑞樹が引き当てたのは不運の方であった。

病室の入り口に倒れている患者の姿を目にした時の衝撃と落胆は、とても言葉にはできそうにない。

 「終わりそうですか、先輩」

 「終わらないわよ、後輩」

 机の真向かいに座る藤枝ののんびりとした声に、瑞樹は疲れを滲ませた声で返す。ちらりと見た彼女の傍には、数冊ずつ積み上がったカルテが山を二つ作っていた。一言で言うとマイペースな現代っ子である藤枝は、瑞樹の二年後輩にあたる。どんな時にも落ち着いて行動できる胆力は、こうしてカルテの山を前にしても遺憾なく発揮されている様だ。そんな姿を頼もしいと思いつつ、瑞樹も負けじと手を動かす。とはいえ、今書いているのは手元にあるインシデントレポートの概要欄をそのまま写しているだけなのだが。

 『インシデント』とは、英語で“事件”や“出来事”を意味する言葉であり、医療に限らず、近代社会においては危機管理に関わる重要な単語だ。あらゆる企業や産業の場で行われる業務には、その過程で害や不利益をもたらす有害事象が発生することがある。発生した有害事象そのものはアクシデントと言うが、そのアクシデントに至る一歩手前の段階が危機管理の用語としてのインシデントだ。そして、インシデントの中でも、有害事象をもたらしかねないエラー行為が未遂の段階で発見されたものはヒヤリハットという。現代では広く社会に普及しているこれらの単語は、医療業界においても大いに活用されている。

 医療業界におけるアクシデントは医療事故とも言い、医療従事者による医療行為の過程で発生した重大な害や不利益の全てを指す。その内、医療従事者側の過失を前提として発生した有害事象は医療過誤と呼ばれている。一方で、インシデント(またはヒヤリハット)は医療行為の提供はなされたものの有害な事象にまでは至らなかったもの、または未遂ではあるも害をなしうると推定される行為をいう。こうしたインシデント・アクシデントは、発生したその都度レポートとしてまとめられ、発生した有害事象の管理とその予防のために活用されている。その中でもインシデント、とりわけ未遂での発見になるヒヤリハットの存在が危機管理において非常に重要だ。有害事象の予防につなげるために、影響度が低い段階でのリスクの発見がされる事が最も望ましいのである。

 だが、いつも未遂で発見できるとは限らないのが現実だった。

 「それにしても、センサーマットをしいて頻回に訪室もしてたのに……」

 「ナースコールを押す様に表示もしてたけど、目に入らなかったって言われちゃね……あの人に代わりに記録書いてもらいたいよ」

 「……レポートの鬼と呼ばれる先輩がそうまでいうとは」

 「そう呼んでるのあんただけでしょ。こんな時は私だって面倒の一つくらい思うわよ」

 藤枝の言葉にため息をつき、瑞樹は大きく肩を落とす。発生したインシデントまたはアクシデントは所定の様式に従ってレポートに纏めることになり、そして同時にカルテの看護記録にも事象の発生について記録しなければならない。レポートの作成者は当事者または発見者と定められているが、もし患者の担当者が他の看護師ならばレポートの作成と記録記載を分担できるはずだった。だが今回は発見者も担当者も瑞樹だった為、どちらも行うことになってしまったのである。インシデントを見つけ、対応に奔走し、レポートも作り、こうして記録を書いている。午後からの数時間は殆どインシデントに費やされたようなものだ。正直にいえば、非常に面倒くさいと感じていた。しかし、藤枝からの指摘に妙な罪悪感が湧き上がってくる。

 事故防止を図る上でのインシデント、特に事が未遂に終わったヒヤリハット相当のレポートを提出するのは重要な意義を持つ。この病棟において、自分は“その意義を最も理解しておくべき立場”であると瑞樹は理解していた。故に、日頃からインシデントレポートの提出を同僚に口酸っぱく言っていたのは事実だ。だから、本来は面倒だなどと思うべきではないのだろう。それでも、鬼とまで呼ばれる謂れは無いのだが。

 まるでトドメを刺されたような脱力感に襲われ、瑞樹は持っていたペンを置いて背凭れに身も凭れさせた。

 「ほんと、今日は不運続きだわ私」

 「ドンマイですよ、先輩」

 「ありがとう。でもせめてこれが電カルだったら、記録ももう少し楽になるんだろうけどねぇ」

 瑞樹は起き上がり、だらしなく頬杖を付く。気だるげに視線を彷徨わせ、手元にある開かれたカルテと、藤枝の周りに積み上がったカルテを見比べてため息をついた。いくらレポートという見本があるとはいえ、それを写すだけでも手は疲れるのだ。これがパソコンで作成できる電子カルテであればどれだけ楽だろうか。手首に覚える鈍い痛みが、学生時代に触れた電子カルテへの憧れを想起させた。

 向井リハビリテーション病院では今なお紙カルテが現役である。医療ドラマなどで世間一般に電子カルテが周知されて久しいが、一般診療所や小規模病院における電子カルテシステムの普及率は50%を下回っており、決して高いとは言えない。理由としては『紙カルテでも支障がない』『スタッフのITスキルが乏しい』などがよく挙げられるが、どこの施設にも共通するのはやはり高額な費用の問題だろう。

 電子カルテシステムの導入には、それだけで巨額の費用が必要になる。採用するシステムや患者数、利用する職員数によって増減はあるが、大体数百万はくだらない額になるだろう。その上毎月の使用料やメンテナンス費用といった運用を続ける上での必要経費もかかってくる。トータルとして見た場合、かかるコストは決して安いとは言えない。抱える患者数の多い大規模病院であれば、かかるコストに対して業務の効率化や省スペース化といった費用対効果が充分に見込めるのだろう。

 対して患者数や職員数の少ない一般診療所や小規模病院では費用対効果が見込みにくく、導入が躊躇われてしまうに違いない。ただでさえ医療施設とは運営にお金がかかるものだ。こと2019年からの三年間では、流行が続く新型コロナウイルスによる影響もあり、各地の医療介護施設が大なり小なり収益に影響を受けている。独立行政法人福祉医療機構が出した病院経営動向調査の結果によると、療養型病院は2021年12月時点では多少の黒字傾向にあるとしつつも、先行きとしては低下の一途をたどり、厳しい状況に立たされるという見方を持つ病院が多いとしていた。うちもきっと同様なのだろうと、瑞樹はコスト削減を声高に語っていた院長の渋い顔を思い出す。

 新型コロナウイルスは潜在的な問題をより顕著にしただけで、ウイルスの流行前から国の医療財政は悪化の一途をたどっていた。特に高齢者医療とのかかわりが深い療養型病院・病棟はその存在から議論の的になる事も多く、病院の存続と利益の確保はいつの時代も課題であった。お金が無ければ病院は存在できないのだ。しかし、収益の向上となるとそう容易なものではない。だからこそ、少しでも消費コストを抑えようとしているのである。

 かような厳しい資金繰りの中では、高額な電子カルテシステムの導入はさらに渋られるかもしれない。もう暫くはこの手首の痛みと付き合うことになりそうだと、瑞樹の口から乾いた笑い声が零れた。

 とはいえ、残っているカルテは後一冊。そこへ今日の看護記録を記入しサインをし終えればめでたく業務からは解放だ。瑞樹は気合を入れ、手にしたボールペンの先端をカルテへと向けた。

 「そういえば、先輩今日委員会じゃなかったでしたっけ? 」

 隣で同様にカルテを記載していた後輩から声が掛かり、一瞬頭に疑問符が並ぶ。だが、それはすぐさま消え去り、引き換えにずしりと重い疲労感が身体全体に圧し掛かってきた。

 「そうだわ。今日委員会じゃん……忘れたままで帰りたかった」

 「多分そろそろ呼び出しの電話が来るから無理だったと思いますよ。あ、噂をすれば」

 後輩の台詞が終わらぬ内に、机の中央に据え付けられた電話機がけたたましく音を鳴らす。受話器を取って耳に当てれば、やはりというか、それは瑞樹へのお呼び出しであった。

 「お疲れ様です。間もなく委員会が始まりますが来れそうですか」

 「すみません、大至急そちらへ向かいます」

 相手の了承を待って受話器を下ろす。どうやら逃走には間に合わなかったらしい。項垂れながらため息を零すと、横から労いを込めた声が掛かった。

 「お疲れ様です先輩。いってらっしゃい」

 「ありがとう。ちょっくらいってきますわ……」

 開いていたカルテを一旦片付け、隅にある棚から“医療安全委員会”とラベルが張られたファイルを取り出すと、瑞樹は煌々と灯りの付くステーションを後にした。

 病棟のある四階から階段を使って一階へ降りる。夕食を前にしたこの時間でも廊下を利用した歩行リハビリはあちこちで行われており、歩行する患者やスタッフに注意しつつ足早に病院の奥を目指した。向かう第一会議室は一階の最奥にあり、各種委員会の他院内勉強会といった催し物の会場となる事が多い。薄暗い廊下を進みつつ途中にある医局や看護部長室、院長室を素通りし、漸く辿り着いた引き戸の前で立ち止まり深呼吸をする。緊張の中、意を決して取手を引くと、一斉に振り返った何十もの視線が瑞樹を刺し貫いた。

 「お疲れ様です、遅くなって申し訳ありませんでした」

 「良いのよ。丁度今始めようとしてたとこだから。さ、座って座って」

 そう言って席を勧めるのは五階病棟の課長であり、この委員会の長も務める長橋だ。彼女の勧めに従い、刺さる視線に会釈を返しつつ瑞樹は一番端の席に腰を下ろした。机を介して向かい合わせに並ぶ総勢十八名を見やり、長橋が声を上げる。


 「今西さんも来たことだし、では、これより医療安全小委員会を始めたいと思います」

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