第19話


 「結局、呪いの絵なんてなかったんですねー」

 夕方のナースステーションに藤枝の声が響く。時刻は午後五時半を過ぎ、残っているのは瑞樹と藤枝だけだった。

 「だから、呪いなんてものじゃないって言ったでしょ。ただの視覚的効果のせいだったの」

 「けど、なんかつまらないじゃないですか。折角病院なんだからおかしな話の一つや二つあってもいいと思いません? 」

 山と積まれたカルテを前に、藤枝が拗ねるように言う。そんな事に拘ってるからいつまでも記録が終わらないのに。これ見よがしにため息をつくと、瑞樹は藤枝に据えた目を向けた。

 「あってたまるか、そんなもの。ほらちゃっちゃと書いた書いた! 」

 しっしと追い返すように藤枝へと手を振り、瑞樹は手元のカルテに目を落とした。横にはまだ数冊のカルテが積まれ、今か今かと開かれる時を待っている。このままではいつまで経っても帰れそうにないと、ペンを動かす手を速めた。

 瑞樹が倒れた日から、もうすぐひと月が経とうとしていた。課長の久保田は増員を図ると言っていたが、早々増やせるわけがなく。かといって仕事が勝手に減る訳もない。結局、復帰した瑞樹を待っていたのは、いつも通りの山のような仕事だった。体力勝負である病棟業務をこなすうち、初めのうちこそ感じていた体力の低下も、一月後の今では感じる事も無くなっている。だからと言って残業の日々に戻りたかった訳ではないが、時間内に終わらなかったものは仕方がない。

 「でも、今じゃ先輩も噂の的ですよ。呪いの絵に深入りしたから倒れたんじゃないかって」

 どきり、と瑞樹の心臓が跳ねる。

 「じゃあ噂してる人に言っといて。今西はただの過労でしたって」

「えー……分かりました。けど何にせよ、先輩が復帰してくれて本当に良かったです。皆本当にびっくりしてたんですよ」

 心底安心しているかのような藤枝の声に、瑞樹は胸をなでおろす。内心の動揺は、どうやら悟られずに済んだようだ。黙々とペンを走らせながら、頭の中で自分が言った“過労”と言う台詞を反芻する。医師の正式な診断なので決して嘘ではないのだが、自分で言うとどこか薄っぺらさが感じられてならなかった。誰よりも瑞樹自身が、ただの過労であったという事実に疑いを持っているからだろう。

 幾度も瑞樹の前に現れた女は、病室での邂逅を最後に姿を見せなくなっていた。あれ程瑞樹を悩ませた夢も、目覚めた日から一度も見てはいない。まるで最初から幻だったかのように、女は突然消えてしまった。そこへ舞い降りた過労という診断もあり、瑞樹も一度は思ったのだ。全ては疲れが見せた夢だったのではないかと。

 だが、事実として大沢の絵画は第二外来室前から移動しており、それからというもの転倒は発生していない。どうしてそれを瑞樹が把握しているかと言えば、四階に訪れた長橋から聞いたのである。その際に、大沢美登里に関する会話や、夜の廊下で会った事を瑞樹が聞いてみた所、長橋もそれらを確かに記憶しているという。そして肝心の大沢美登里の事故も確かに発生しており、閲覧したレポートの内容は瑞樹の記憶通りだった。

 そして、長橋と会った数日後にはロッカールームで村瀬にも再会していた。瑞樹の復帰を喜んでくれたものの、やはりあの朝は病院に訪れてはおらず、瑞樹にも会った覚えはないという。当然、西川の事故について話した覚えもないと言い、何故知っているのかと彼女は逆に驚いていた。

 三階病棟の医療安全フォルダから西川の名前を見つけたのは、その会話をした直後のことだ。十年前の十月中旬、九十歳の西川幸子は一階の第二外来室前を歩行し転倒。発見時、遠視である西川の眼鏡は離れた場所に落ちており、周囲の視認が困難な程に視界はぼやけていたという。右大腿骨頚部骨折及び座骨骨折にて救急搬送となったが、年齢を考慮し保存加療とレポートには記されていた。

 しかし、書かれていない話もある。ロッカールームで聞いた西川の第一発見者はやはり村瀬であったが、レポートには個人名までは記されていなかった。そして、瑞樹にはあの場以外に事故の詳細を知る機会はない。

 二つの事故の存在と、絵の移動による転倒の減少。そして、村瀬の顔をして事故を語った人物。これらが現実のものだと悟った瞬間、あの数日間の出来事が幻などではなかったと瑞樹は実感した。してしまったのだ。

 「でも、今回で実感しましたよ先輩。奇妙な出来事の様に見えても、絵の視覚効果みたいに科学的根拠ってやつはしっかり存在してるんですよね。つまらないけど、それが現実って奴ですかね」

 「……そうだったら、良かったのにね……」

 脳裏で呟いた瑞樹の声は、ため息と共に外へ出ていたらしい。何ですか、先輩。と藤枝が訝しむように聞き返してくる。瑞樹は慌てて茶を濁すと、止まっていた手を動かし始めた。このままでは、この口が何を言い出すか分からない。さっさと記録を済ませて帰ろう。その一心で手を動かしていた時だった。

 プルルルル、と机の上の電話機が音を立てる。藤枝が手を伸ばし、受話器を取って耳に当てた。

 「はい、四階病棟看護師藤枝です。……はい、わかりました。伝えますね」

通話を終え、藤枝はそろりと受話器を置く。そして、瑞樹に視線を向けた。

 「先輩、今日は何曜日したっけ」

 「え、今日は確か十月の第一火曜日……あ」

 ぽかん、と口を開けた瑞樹を見て藤枝はにんまりと笑った。

 「というわけです。先輩、いってらっしゃいませ」

 「完全に忘れてたわ。仕方ない、ちょっくら行ってきますか」

 広げていたカルテをラックに片付け、瑞樹は重い腰を上げた。片隅にある本棚から『医療安全小委員会』と書かれたファイルを取り出すと、急いでステーションを後にする。

 中央階段を降り、一階の廊下を奥へと進む。職員専用と書かれた扉を抜けて更に進むと、会議室と掲示された部屋の引き戸が姿を現す。歩いてきた勢いそのままに、瑞樹は取手に手を伸ばそうとした。

 ……コツ……コツ、コツ……

 不意に、耳が小さな足音を拾う。不規則なその音は、まるでよろめきながら歩いているようだった。どこかで聞いたような音に、足元から怖気が這い上る。

 瑞樹は、恐る恐る背後を振り返った。けれど、視界の先には殺風景な廊下が伸びているだけだ。他には、何もいない。

 だが、見えないだけが不在の証明ではないと瑞樹は既に知っている。目には見えなくとも、そこにいた人の思考や思いといったものは残り続ける。そして、時折は今を生きる者の前に何かしらの形で表れるのだろう。一人の患者が遺した負の感情が、大沢の絵を通して転倒を引き起こしていたように。

 科学的根拠の領域外であっても、否定が出来ない現実は存在する。瑞樹の前に現れたあの女は、藤枝の言葉を借りればまさしく“呪い”だったのだ。

 その呪いは、恐らく今も傍にいる。瑞樹は殺風景な廊下を見つめた。電灯がついていても少し薄暗い廊下には、やはり何の痕跡も認めることは出来ない。けれども、そこには何かがいる。瑞樹にはそんな気がした。

 (「西川、って言っても、あなたは知らないわよね」)

 瑞樹はふと、ロッカールームでの声を思い出した。知らないという前提を語った彼女は、あの時どんな思いだったのだろう。事故はおろか、己の存在すら知らぬ人間ばかりとなった病院を、どんな思いで見つめていたのだろうか。

 目に見える痕跡がなかったとしても、過去が無くなることは無い。発生したインシデントやアクシデントが無かったことにならないように。しかし、残念ながら人は忘れる生き物だ。時はいつも残酷に、人から記憶を奪っていく。どれほど重大な事故であっても、過ぎ去る時の前では砂漠の砂となりかねない。

 だからこそ、レポートという確かな形が必要なのだ。インシデント・アクシデントレポートの意義は事象の分析と周知を図り、そして再発を防ぐ事にある。レポートと再発防止策という確かな形に残す事で、時代を超えて事象の存在を、そこにいた人々の在りようを受け継いで行くことが出来るのだろう。

 だが、それで事故を防げるかと言えばそうではない。一連の出来事を通し、あらためて思い知らされたのはそれだ。レポートで満足するのではなく、目の前にある事故のリスクを常に捉えられるよう、見ようとする目を持つ事もまた必要なのだと。

 たとえそのリスクが、科学的根拠の及ばぬ領域にあったとしても。

 「見ていて下さい。ちゃんと向き合っていくから」

 何も見えない廊下に声を残し、瑞樹は取手に手をかける。引き戸を引くと、集まっていた二十名ほどの目が一斉に瑞樹を見た。それらの圧にたじろいでいると、聞きなれた声が瑞樹を呼ぶ。

 「今西さん。さ、座って座って」

 「すみません。遅れてしまって」

 既に来ていた四階の同僚を見つけると、隣の席に腰掛けた。そして長橋を見ると、彼女はいつも通りの笑顔で頷いてくる。さあ、気合を入れるか。瑞樹が背筋を伸ばしたところで、長橋が高らかに宣言した。


 「では、これより医療安全小委員会を始めたいと思います」

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