〇霊的現象2(はじめてのかなしばり)

 最初はお経だと思ったんだ。

 でも、なんでこんな真夜中、ラジオやテレビなどの音源以外からそんなものが流れるんだ? なんて思考は、睡眠中の頭ではまとまらなかった。


 覚醒の度合いに応じ、耳元で鳴り続ける音は、お経から別の音と感じるようになっていた。

 一言で言うなら、呪詛。

 抑揚のない呟くような音だったが、そこに込められた想いは、私に対する憎しみと感じられた。


 そこまで考えると、急に身体的な異常に気付く。


 体が、動かない。


 仰向けで、愛用の分厚い布団を目深に被っている感覚はいつもの姿勢なので、自室で就寝中であることは間違いない。

 瞼も開かないが、濃密な闇は深夜であることを理解した。

 触感も温感も問題ない。


 ただ、体が、動かせない。


 “金縛り”という言葉が思い浮かぶ。

 ただそれは、体が寝た状態で、意識が目覚めた結果発生する脳の誤認であると理解していた。

 自分にそんな現象が起こるなんて、夢にも思わなかった。


 呪詛は続き、体が動かない事実に恐れを抱く。


 ふと、もう一つの異変に気付く。


 布団の上から、下腹部の辺りに、重みを感じた。

 例えるならば、誰かが腹の上に跨っている。


 家族の誰かだと思った。

 だが、両親も祖母も、真夜中に私の部屋に来て、寝ている私の上に跨る合理的な理由が存在しない。


 恐怖は増大し、何としても体の自由を取り戻さなければ! と意識した瞬間、腹が押された。

 押された部位から力が吸い取られる感じがした。

 腹の上のナニカが、私の腹を両手で押し、抵抗する力を吸い取っている。そんな確証めいたイメージが浮かぶ。


 私が動きを諦めると、腹を押される動きも止まる。

 動こうとすると、腹を押され気力が抜かれる。


 金縛りを解かせないため監視し、私の抵抗を妨害するかのように、腹の上のナニカは私を翻弄し続けた。


 恐怖は恐慌に変わり、声なき叫びを上げ、私は動かない体を懸命に動かそうとする。

 その強さに応じ、腹を押される力も増える。

 きゅっきゅっ、から、ぎゅっ、ぎゅっと押され、更に、ギュウギュウギュウギュウギュウギュウギュウギュウ!ギュウ!!ギュウ!!……。

 その動きだけで体力や命を抜き取るかのように。


 ふと瞼が開くことに気付く。

 闇の中、分厚い布団が視界に入る。

 でも、腹の上までは見たくなかった。

 見てしまったら戻れないと思い、固く目を瞑った。


 抵抗を止めても、腹を押す動きが止まらなくなっていた。

 念を押すように、ゆっくりじっくり、空気を抜くように、私の腹は押され続けた。


 記憶の中に、金縛りの解除方法が浮かぶ。

 指先からゆっくりと動かすといい、そんな言葉だった。


 人差し指から、第一関節、第二関節、……よし、動く!

 その瞬間、狂ったように腹を押され、人差し指は再び石像のように固定される。


 悟られた。

 でも、やるしかない。


 再び人差し指から始める。

 動かせた部位を動かし続けていないと、再固定されると知った。

 右手の指を全部、起き上がろうとする虫が、足をジタバタするように動かす。

 腹は押され、呪詛の声も続く。


 やがて恐怖は臨界点に達し、怒りに変化していた。


「……ふっざけんな!」


 手首まで自由にした後は、裂帛の気合と同時に右腕を振り上げる。

 実際に大きな声も出たのだと思う。

 布団を跳ね除け、上半身を起こす。


 先ほどまで感じていた重さの主は、そこには何も存在せず、お経の様な音も聞こえず、ただ暗闇の中に濃密な気配の残滓が漂っていただけだった。

 

 真冬にも関わらず、ぐっしょりと汗で濡れたまま、呆然とベッドの上で荒い息を続けていた。

 しばらく待っても続く怪異は訪れず、やっと緊張を解いた。

 体のどこにも異常は認められず、あれほど動かなかったことが嘘のように、体は簡単に、自由に動いた。


 立ち上がり照明を灯し、窓を開け深夜の冷気を誘い込んだ。


 心身は落ち着きを取り戻していたが、得体のしれない事実だけが、実体験として記憶に刷り込まれていた。


 先ほどの体験を全て“あくむ”と折り合いをつけることはできる。

 そうしないと平穏が保てないことも理解している。


 全ては、ただの“気のせい”だったんだ。

 何も証拠はないし、私の主観でしかないのだから。


 その夜、私はベッドから離れ、ソファで毛布にくるまって朝を迎えた。

 だんだん白み始める黎明に涙がこぼれるくらいの喜びを感じたことを思い出す。



 おわり


 以上が、私が初めて体感した不思議体験です。

 作中にある通り、客観的に事実を証明できる記録はなく、ただ私の主観だけのお話ですので、夢や幻覚の類だったのだと思います。

 それでも、私の魂には、不可逆的な痕が残りました。

 忘れることもできず、今でもあの空間を思い出すことができます。


 それはまるで呪いのように。

 誰かの恨みを忘れるなという警告のように。

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