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テーブルの上にはモンブランの入った箱があった。もちろん、あのお店のものである。こないだ台無しになったのをぶつぶつ不平を言っていたら、堂前さんが予約をして買ってきてくれたのだ。早速ミケに連絡をすると、バイトを早退して今から事務所に向かう、とのこと。
「そんなに簡単に早退できるのか?」
「みたいですよ。店長ににゃんにゃん甘えたら許してくれるんですって」
「大人をなめくさりやがって」
「ですよねー」
箱を開けて中身を確認する。中身が消えるはずもないのに、少し時間が経つとまた開けて覗いては、ひとりでニヤついている。そんな私を呆れたようにデスクから眺める堂前さんには、この気持ちは一生わかるまい。
「どうだい手首は少しはましになったかい?」
「まだ左に傾けると、少し痛いです」
「病院に行ってきなよ。労災がおりるように手続きしておくから」
「いえ、大丈夫です。そこまで酷くはないです。それよりも精神的なショックのほうが強いかも。親にもこっぴどく叱られました」
「今見るかぎり精神的なショックを受けてるようにも見えないが」
「そうでしょうか」
また箱を開ける。おお入っとる入っとると思う。
肩肘をついた堂前さんは、間のぬけた息を吐いた。
「あの男のことは気にならないのかね?」
「別にい。捕まったんだからいいんじゃないですかあ」
「知らないあいだに、君は後をつけられてたんだぞ。もしかしたら君の自宅も把握していたかもしれない」
「でももう当分出てこれないっしょ。児童に対する痴漢で前科のあった者が、高校生に暴行罪で現行犯逮捕され、今度の明るみになった出会い系サイトの件では、児童ポルノ画像所持・製造、強制わいせつ致傷および殺人未遂で再逮捕、ですからね。実刑確定ですよ。そして刑期を終えて出てきたころには、わたしはもうすでに大人になっている。藤沢のような人間は、幼く見える子供にしか興味が持てないんですよ」
「パラフィリアの一種だからな」
「抑制がきかなくなる人が多いんですよね。だから、一週間前に会社を解雇されていたにも関わらず、わざわざここにも来たし、出会い系や盗撮もやめられずに、自身の欲望を抑えることができなかった」
そう言いながら、箱を開けたり閉めたりしている自分に気がついて、私はソファの背もたれに身体を預けて大人しくした。
「冷蔵庫に入れといたほうがいいじゃないのか」
「ですね」
自分で動こうとしない私を見かねて堂前さんが事務作業の手を止めて立ち上がり、いかにも無造作に箱を手にすると、洗い場にある冷蔵庫にそれを放り込んだ。
「もう乱暴に扱わないでくださいよー」
「崩れても味はかわらん」
冷蔵庫を開けたくなる衝動から気を紛らわすために、私はソファのスプリングを使って意味のない動きをする。
「でもわたしふと思ったんですけど、ZOOMで見た水に濡れた幽霊いるじゃないですか? あの女性が言った『行かないで』っていう言葉。あれ実は堂前さんに向けた言葉じゃなかったのかなって思ったんですよ」
「俺に?」
「はい。だって、彼女も男性弁護士に乱暴されてたかもわからないんですよね。それがもし本当なら、同じような目にあった者として、ここで藤沢にも同じ匂いを感じたんじゃないでしょうか? 彼女にはこれから藤沢の起こそうとしていることがわかっていて、だからこそ堂前さんが事務所から離れないように、『行かないで』っていう警告を発していたようにわたしには思えるんです。じゃないとなんでわざわざそんなことを言うのかなと思って」
「まあ、都合のいいように考えれば、そのように解釈することもできなくはないね。しかしあのアカウントだって、被害を受けた人たちの呪詛により不可思議な現象が起きるようになったと説明することは容易いが、ではどうして呪いを受けるべき当人だけでなく、入力した者なら誰でもその場所の怪異が引き起こされるのかということについては、結局わからずじまいだからね。説明できないことだって山ほどあるんだよ。今でも入力すれば、新しい画面が追加されるんだ」
「その文字そのものに呪力が宿っているのかな」
「どうだろう。そのうちに、使えなくなってしまうかもしれないが。とにかく、こんな一銭にもならない仕事をやったって、こっちには何の足しにもならん。今後二度とごめん蒙りたいもんだね」
「依頼人が犯罪者じゃどうにもなりませんからね。わたしはまあ、モンブランが食べれるから文句はないですけど」
「まったく、なんでこっちが金払わないといけないんだよ」
「まあまあ、そのうち良いことがありますって」
事務所のブザーが鳴った。私はすばやい動きで入口に向かう。
ドアを開けると、そこには誰もいなかった。
「だれ?」
「え、いつものやつですよ」
ああ、という声とともに堂前さんが事務作業を再開する音が聞こえた。ノートパソコンのキーボードがパタパタと小気味の良い音を立てる。
ドアを広げて、私は廊下を見渡した。クリーム色のビニールシートの床がエスカレーターまで一直線に伸びている。ビルと同じ年月を重ねた床は黒ずみ、ところどころに靴跡や理由のわからない擦り傷がある。そのどれもが、過去にそこを通過した人の生きていた証だった。彼らはどんな気持ちでこの廊下を歩いていたのだろう。そんなことがつい私の頭をよぎった。
エレベーターの赤いランプが一階、二階と上がり、四階で止まる。ミケだと思って、私は廊下に一歩踏み出した。エレベーターの扉が音もなく開く。誰もいないエレベーターの鏡から、遠くにいる私がこちらを見ていた。
私は少し笑みを浮かべて、事務所に身体を戻しドアを閉めた。
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