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 それは老婦人の自宅から、歩いて数分のところにある敷地だった。老婦人は足取りこそ緩慢だが、杖も持たずにしっかりと歩いていた。高齢者の歩行に見られるような後ろ手に組むこともさほどなく、背筋も思ったより伸びている。白い麦わら帽子は、昨日見た時と同じようにかわいかった。


 自宅裏手のくだり坂の小道を伝って小さな階段を下りると、道路の向こう側に、川に隣接した有料の駐車場があった。真新しい水色のフェンスが川沿いに設置され、アスファルトはまだ黒々と光沢すら帯び、白線も鮮やかだった。八台停められる駐車場は、無人の精算機が入り口にあり、駐車をすると、地面から出っ張りが出てロックされるタイプのものだった。今は乗用車が四台、駐車されている。


「この辺りは大きな施設と言えば、老人ホームと病院があるくらいで、住宅同士もそれほど密集してる場所ではありませんけれども、狭い道路が多くて近所でも車を駐車するスペースがあまりないものですから、まああれば便利だろうということで設置いたしました」


 駐車場から見下ろせる小さな川は、来た時に渡ってきた川だが、ここから見ると河川敷はあるが細すぎるため、ほとんど人工の水路にしか見えなかった。

 青いフェンスは川沿いだけでなく、目の前の雑木林を遮る形でも建てられていた。その反対側は、もともとあったものなのか、昔ながらのコンクリート塀が設置されている。コンクリート塀のその向こうは、こちらからは何も見えない。

 駐車場の入り口に接する一車線の道路は、川と並行して延びていた。


 老婦人はゆっくりとした足取りで、コンクリート塀の奥の一端まで進むと、塀に縦長の黒いしみのついた箇所を指さして言った。


「ここに稲荷のお社が祀られていたのです」

「どこかに移されたのですか?」私は尋ねた。

「いいえ。管理しきれないので解体しました。と言いましても、ちゃんと宮司さんに来ていただいて、御霊もお抜きしたうえで、ですけど」


 雑木林から聞こえる蝉の声がうるさかった。涼し気というより、暑さを余計に倍加させているように感じる。

 老婦人は暑さはまるで気にならない様子で、話を続けた。


「以前、ここは義父の家があった土地だそうです。私が嫁いだ時には、すでに義父は上の住居に引っ越していたので、ここは更地になっており、ライラックやクチナシやアジサイなどの低木が生い茂る空き地になっていました。空き地の頃は特にフェンスもなかったですから、隣の雑木林とも繋がっていて、近所の子供たちが自由に出入りして走り回ったり、かくれんぼをしたりすることのできる公園のようになっていたのです。そしてその片隅に、敷石をたどるようにして、ぽつんとお社が立ってました。妻入り型で屋根を銅板で葺き、朱色の扉がついた、小さなお社です。

 義父が若い頃に国立くにたちの稲荷神社から御霊を授かり勧請したものらしいのですが、早くに亡くなってからは、夫が管理し、私がこの家に嫁いでからも、月に数回はお祈りを続けていました」


「義理のお父さんは、もともと何のためにそのお社を建てられたのですか?」


「商売繁盛の祈願だろう」と堂前さんが言った。「もともと稲荷神は稲作に関わりのある民間信仰の神で、後に宇迦之御魂神うかのみたまのかみなどの五穀豊穣の祭神と結びつき、平安中世の神仏習合しんぶつしゅうごうで仏教とともに全国的に広がった。江戸時代には農耕の神としてより、商売の神として商いの盛んな江戸を中心に爆発的に流行したと言われている。江戸の町中には、どこを歩いてもお稲荷さんの祠やお宮が目に入るというくらい、浸透していたそうだ。それだけ庶民の生活に密着した信仰であったわけだが、現代でも商売繁盛や家内安全を祈願して、家や会社に設置する人は多い」


 老婦人が頷いた。


「歴史について私はあまり詳しく存じ上げませんけれども、義父は建設会社を経営しておりました。その祈願の意味合いが大きかったんでしょう。お社はわざわざ宮大工にお願いして作ってもらったものだと、ずいぶん後になって知りました。長男である私の夫が義父の後を継ぐ形になり、最初は従業員も少ない小さな会社だったんですけど、事業を拡大してその会社を大きくしたのです。仕事以外のことには無頓着で、家庭をあまり顧みない人でしたが、その分働き者でした。

 夫も私も歳をとり心身が衰えてからは、お社の管理もおろそかになり、以前から世話役をしてくださっていた近所の方々は、あまりいい顔をしませんでした。個人が建てたものだからどうしようと勝手ではないかとお思いでしょうけど、この辺の土地柄はそういうことに関してはとても厳しいのです。お稲荷さんを撤去し、周囲の低木を伐採しようと考えたのも、夫が亡くなってからはお社の管理だけでなく、木々の手入れなどがひとりでは大変だったため、しかたなくそうしたまでです」


 老婦人は少し伸びをするように上体を起こした。それから、地面に落ちていたアイスの袋を拾って、それをパンツのポケットに入れた。


「こんなところにゴミを捨てるなんて、非常識だと思いません? ここが空き地だった頃は、こういうことがもっとたくさんあったんですよ。駐車場にした理由は、ひとつにはそれもあります。浮浪者や若い不良のたまり場になっても困りますから。このあたり一帯は、特にそういうものから守る必要があると思ってます」


 私は空のコンビニ袋をポーチに入れていたので、ゴミ袋代わりにそれをあげたかったのだが、取り出すタイミングが見つからないまま、次の質問を投げかけていた。


「では何が良くなかったのでしょうね。私には今のお話の限りでは、山岡さんが苦しまれる原因が何も思い当たりません。撤去の方法も、ちゃんとしたやり方で行われたのでしょう?」


「ええ。ちゃんと元の神社の方にご相談して、しかるべき手順を踏んで解体いたしました。だから私が思い当たるところがないというのも、実はそこなんです。ですがその一方で、個人のものとはいえ、実際に世話をしてくれた人がいて、その人がいるにも関わらず、何の了承も得ずに勝手に撤去してしまったことを、快く思っていない住人も一部いるようなのです。長い間、この土地に根差していたものだっただけに、惜しいと思う人たちもいらっしゃるのでしょう」


「でも、それだけで人を恨んだりとか何かしてやろうだとかは、いくらなんでも思わないのではないですか?」


「そうでしょうか。旦那が元気な頃は、近隣の方々とのトラブルも絶えませんでしたからね。なにしろ、お酒が入ると手がつけられない人でしたから。近所の評判は、もともとあまり良くなかったのです。夫が病いで倒れた時も、お社のことを引き合いに出して、おろそかにするから罰が当たったのだと言われたこともあります。夫と若い頃に大喧嘩をしたお宅は、ご挨拶しても昔のことを根に持って、今でも口をきいてくれません。現在の私の不幸を願う人がいたって、全然おかしくはないでしょう?」


 堂前さんは、私たちの会話を聞き流して、ひとりでフェンスを掴んでがしがしやったり、地面に這いつくばって、フェンスとの隙間を検分したりしていた。


「なにか気になる点でも?」見かねた老婦人が声をかけた。

「いやお構いなく」堂前さんは立ち上がって、フェンス向こうの川を眺めた。

「旦那さんが亡くなられてからは、会社の方はどうなったのですか?」

「長女の娘婿が跡を引きついでおります」

「一緒にお住まいになられたりはしないのですか? お身体が悪いなら、娘さんがいたほうが心強いでしょう」

「私が断ったんです。長女は私に似て口うるさいから、長く一緒にいると疲れてしまいます。次女のほうは大人しいんですけど、旦那の実家で暮らしていますから」


「なるほど」と言うと堂前さんは、またひとりでぷいと向きを変え、今度は雑木林のほうのフェンスに行き、屈みこんでなにかを見たり、背伸びをして雑木林の奥を覗いたりしていた。


「あの人はなにをしているのですか?」

 眉をひそめた老婦人が今度は私に尋ねる。

「さあ」私は困り果てて、首を傾げた。


 老婦人は不審者をみるような目で堂前さんを眺めていたが、あきらめて口を開いた。


「私はこの辺の土地のことを誰よりも憂いているんですよ。新興住宅が増えて、この辺りも、だんたん様相が変化してきました。住みよい場所にするために開発は良いことだとは思いますが、それで本来の地域性が損なわれてしまえば、元も子もありません。役所も新規の人より、もっと地元の人々に目を向けるべきです。私がここを駐車場にしたのは、お金のためでも、地域の活性化のためでもありません。昔からいる住民の方々のためです。この辺りが少しでも便利になればよいと思って、こちらがしていることなのに、それでも揶揄する人は、一定人数おられるのです。

 現在の体調不良も、お金に目がくらんで商売をするから、罰が当たったのだという人がいまだにいて、びっくりする限りです。あきれて物も言えませんよ。ここを無料で開放したら、一体どうなると思います?それこそ車が殺到して、近所迷惑になるのではないでしょうか。この場所を私物化する人だって、おそらく出てくるにちがいありません。お社を見てくださった方々は、その空き地の管理までもしてくださるというのですか。どうしてそんなことにも考えが及ばずに、平気で陰口を叩けるのかが、私には理解できません。

 お金なんて、今さらこの年で増やして何になるというんです? 空き地だって、子供たちが遊ぶくらいなら構いませんけれど、これから変化していく町のために、治安が悪くなったりしないようにと思ってのことなんですよ。こちらは全て、地域のために良かれと思ってしていることなのです」


「うわっ、びっくりした」


 駐車場の利用者の男性が、精算機の下で這いつくばっている堂前さんに驚きながら、支払いを済ませていた。


 堂前さんは利用者には目もくれずに、探査に余念がない。


 老婦人は気をもんで男性を見守っていたが、男性は敷地に入って老婦人を目にすると、「あ、山岡さん、どうも、おはようございます」と挨拶をした。

 ふたりは顔見知りらしかった。老婦人は先ほどとは一転して、愛想笑いを見せた。


「たしか四丁目の矢作さんのお知り合いの方ですね。おはようございます。いまちょうど、不動産登記の調査に来ていただいてるんですよ。気にしないでください。それよりも——」

 老婦人はポケットから先ほどのゴミを取り出した。

「このアイスの袋に見覚えはありませんか。ちょうどあなたの車とフェンスの間に、これが落ちていたんですけど」

「そうですか、いやあ、知りませんねえ。停めた時からあったかなあ、わからないです」

 苦笑いを浮かべて、男性は答えた。明らかに老婦人に、気後れしているようだった。

「いや、それだったらいいんですけどね。最近ポイ捨てする人があとを絶たなくて困っているんです。もしお見掛けしたら、山岡まで連絡していただけると助かります。直接注意するのはお止めくださいね。時節柄、なにかと物騒ですから」

「あっ、わかりました。そうさせていただきますよ。ありがとうございます」

 恐縮した様子で、男性は車に乗り込む。

「それでは、ごきげんよう」と老婦人は言った。


 車のガラス越しに、男性は最後にもう一度老婦人に会釈をすると、車は静かに駐車場を出ていった。


 堂前さんが膝小僧や手を払いながら、こちらに戻って来た。


「お稲荷さんのあったところは、調べなくてもよいのですか?」

 皮肉たっぷりに、老婦人が堂前さんに尋ねる。

「いや結構結構、あんなところ調べたって何にもありゃしません」

「あんなところ? 水無川さんも不思議な力がおありなら、あの黒いしみを見て何か感じたりはしないのですか?」

「はい、残念ながら手を近づけても、何も感じなかったですね。すいません」

 急に振られてあたふたしながら、私は答えた。

「あなたたち、老人にたかる詐欺師ではないでしょうね」


 これがこの人の本心なのだ、とその時に感じた。

 話をすればするほど、初めて会った時とはまるで印象の違う老婦人に、私は驚きを隠せなかった。


「いやあ、もうだいたい検討はつきましたから、ご安心ください」

 と堂前さんはあっけらかんとした口調で言った。

「やはり実際に来てみないとわからないことは、たくさんあるもんです。この辺りは町並みが長閑と言いますか、人通りも少なく、大変過ごしやすそうな場所ですね。やはり住んでいる人たちの心が上等なら、その土地も上等になるというのは、いくら偏見と言われようとも、否めない感があります。こんな上等なところに、わざわざ悪さをしに来る人間なんていませんよ。ポイ捨てのひとつやふたつ、取るにたりません。それぐらいなら田園調布や六本木にだって、ありますよ。いや、ああいうところのほうが存外、治安が悪かったりするもんです。上等というのは、何も物質的なものを言うのではなくて、精神的なもののほうが、むろん価値は高いですからね。これくらい心が上等でないと、近隣の地域意識というものは、保たれません。たとえば川を御覧ください、誰もゴミなんて捨てていないでしょう。キレイに澄んでいます。あの雑木林もそう。ゴミ箱がなければ空き缶くらい落ちてそうなものなのに、それすらない。この地域の品位の高さが、しっかり現れているというもんです。私がもし空き地のあった頃にここを見つけていたら、川べりに寝転んで、文庫本でも読みながら、一日中昼寝をしていたことでしょう。そういうことを許される空気みたいなものを、この土地には感じますよ」


「なんですか急に。今度は老人をおだてる作戦に、鞍替えしたのですか? ずいぶんお忙しいことですね」


 そう言いながらも、老婦人は内心嬉しそうに答えた。


「ではあなたが、だいたいついたとおっしゃるその検討の結果というものは、いつこちらに知らせてもらえるのですか?」

「いやあそれが、ちょっと裏をとらないといけないので、少しばかりお時間をいただけませんか?向こうの都合もあるから、はっきりとした時間を申し上げることはできませんが」

「向こうの都合って、何なのですか? こちらの都合はどうとでもなるというような言い草にも聞こえますけど」

「そんなに突っかかられても、お身体にさわるだけですよ。気長にお待ちいただければ、それでよろしい。山岡さんは、特になにもしなくていいんですから。ところで、依頼料のことなんですけど、解決すれば本当に頂けるのでしょうね?」

「そりゃ治していただければ、相応のお返しはするつもりです。でも実際に治せるのか、現時点ではこれっぽっちも、信用しておりません。お稲荷さんじゃないですけど、本当に狐につままれている気分です」


「じゃあ、こうしましょう。これから三日以内に、あなたの苦しみを全て取り除きます。もしそれができなければ、依頼料は交通費含め、びた一文不要です。それから、以後、我々のことを詐欺師でも悪魔でも狐でも、なんでも好きなように呼んでくださって結構。私の稼業に関する風説・流言・罵詈雑言も、あらゆる手段を通して、いくらでもしていただいて構いません。甘んじて受け入れますよ。それでどうですか?」


「なかなか面白そうな趣向だと思います」

 満足そうに老婦人は答えた。

「ただし、条件があります」

「まさか腰痛まで治してほしいとは、私も思っていませんからね」と言って、老婦人はほくそ笑んだ。

「いいでしょう。条件は何です?」


「これから三日間のあいだだけは、我々がなにをしようと、我々のやり方に従ってもらいます。その協力なくしては、うまくいきません」

「具体的にどのようなことをするのか、少しでも教えていただけませんと、了承しかねますね」

「たとえば、駐車場を半日だけ封鎖させていただくとか、そのようなことです」

「それくらいなら、何の造作もありません。半日と言わず一日かけて調べてもらっていいですよ。お祓いも目立たないようにしていただけるのなら、全然構いません。こんな場所の儲けなんて、あってないようなものですから」

「ありがとうございます。ご近所の迷惑になるようなことは絶対にしませんので、それだけはお約束します」

「いいでしょう。契約はたった今成立しましたよ。それでは何卒、よろしくお願いします」


 老婦人が深々と頭を下げる。


 堂前さんは不敵な笑みを浮かべていた。

 この笑い方は、どこかで見たことがあると私は思った。

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