……いいぃぃいがああぅんんんなあああいいぃいでええええ



 そう叫ぶ女が画面上に現れた後すぐ、パソコン画面はフリーズした。

ディスプレイ画面は、私たちの静止した顔と、もうひとつの真っ黒い画面を三分割したまま時間が止まり、壁紙と化していた。静止した私たちの顔が、まるで自分たちの顔ではないみたいに、ぐにゃりと歪んで不自然なものになっている。キーを叩いても全く反応がないので、堂前さんはパソコンを強制終了させた。パソコンは生命を失ったみたいに、ぷつんと息絶えた。

 一方、私のスマホの画面は、正常に動いていたが、女が映った画面はいつの間にか消えて、私と堂前さんだけの画面に戻っていた。


「藤沢がミーティングで現れた画面には、赤ん坊の笑い声や泣き声が聞こえたと言っていたな。すると、今、我々が見たものとは違うということだね」

「このビルの幽霊が映ったってことなのかな?」

「それならこのアカウントは、入力すれば、誰でもどこでも霊を呼び寄せることができるというわけか」

「まさしく呪いのアカウントじゃないですか。このビルで女性が自殺した噂って、本当だったんですか?」

「何十年も前の話だよ。新聞にも載っていたようだからね」


 私の知るネットの情報によると、この四階のフロアは、昔、法律事務所だった。ここで、不当な扱いを受けた女性依頼主が逆恨みして、男性弁護士を刃物で殺害し、自身も自殺したという事件があったそうだ。しかしネットでは、その女性を犯行に駆り立てたのは、この土地の霊の仕業ではないかと噂していた。


「不可解なのはその女性の自殺の仕方で、なぜか女性は水洗便所のタンクの蓋を開けて、そこに頭を突っ込んで溺れ死んでいたということだ。女性は金銭トラブルで多額の借金があり、この法律事務所で相談を受けていたらしいのだが、弁護士にも多額の裁判費用を騙し取られた疑いがあるという話が記事になっているよ。しかし一部では、弁護士に凌辱されたのではないかという話もあって、昔の事件だからその辺の真相は今ではもうわからない」

「詳しく知らなかったですけど、そうだったんですね。『行かないで』というのも、当時の心境を思うに、よほど苦しいことがあったのかな。さっきの顔は、夢に出てきそうですよ」

「問題は、藤沢のアカウントでどうしてこのビルの霊現象が引き寄せられたか、ということだな」


 再起動されたパソコンの画面に、ふたたびウインドウズのホーム画面が表示される。堂前さんがサインインすると、いつも通りのデスクトップ画面が現れた。

「考えられるのは、このアカウントが何らかの力を有していて、それを使用するものなら誰でも、身近な怪異を引き寄せてしまうということだ。違う者が別の場所でログインすれば、また違う怪異が発生するといった具合に」

「藤沢が一ヶ月前に会った女性が、どんな人物だったのか気になりますね。黒い靄の原因もそこにあるかも」

「本人が自覚していたか否かは別として、おそらくそこで、何かしらの体験をしているはずだ。それがわかれば、藤沢の案件も解明できるかもしれないんだが。メールにはなんて書いてあったっけ? たしか出会い系サイトで知り合った女性と言っていたな」


 メールボックスをふたたび開くと、藤沢からの新着メールが届いていた。文面を目で追いながら、堂前さんは声を弾ませて言った。

「お、その女性と連絡がついたらしいぞ。S駅前のスタバで待ち合わせをしているから、午後五時に俺に来てくれと言っている。依頼料の相談もそこでお願いしたいそうだ」

「良かったですね。これで進展するじゃないですか」

「大人の席だから、君は待っていたまえ。帰ったら、詳細を逐一報告するから」

「了解です」


 S駅までは徒歩で十五分くらいだった。五時まで少し時間があるから、堂前さんはゆっくりと支度を始めた。自分のスマホでしばらく操作をしたあとに、自分の使ったコップを洗いはじめる。

「堂前さん、気をつけたほうがいいですよ。あの男は、どこか嫌な感じがします」

「わかってるよ。それも含めて、どんな男がみてやろうと思っているところだ。面白そうな男だと、事務所に来た時から思っていたんだ。君のほうこそ、好奇心に駆られてズームをやるんじゃないのか」

「私がアカウントを入力すれば、堂前さんとはまた違った現象が起こるのかどうか、それをちょっと試してみたい気がしますけどね。でも、やりませんよ。またあの顔が出てきたら、恐ろしいですから」

 五時二十分前に、堂前さんは事務所を出た。夕方になっても、外ではまだまだ暑さが厳しそうだった。私はデスク裏の窓の網戸から、外を眺める。細い通りの向こう側に、同じような高さのビルやマンションが並んでいた。


 事務所のどこかで「ピシッ」という音がする。今まで周囲の環境音に溶けこんで気にも留めていなかったが、意識してみると意外によく通る音だった。そういえば時々聞こえる得体の知れないドスンという衝撃音も、え?と思った次の瞬間にはもう忘れていた。

 ビルの最上階である四階は、この事務所のフロアしかないから、衝撃音があるとすれば、下の階のテナントからなのだろう。だけど、下の階にあるテナントも、天井が高いのでそれ以外の音は全く聞き取れなかった。不動産会社と、教材を扱う通信販売の事務所と、ネイルサロンがあったと思うが、三階に立ち寄ることがほとんどないので、もしかしたら違う店舗になっているのかもしれない。


 事務所のブザーが鳴った。ドアを開けると、藤沢の声がした。

「あれ、小林さんはいないですか?」

「ついさっき、駅前のスタバに向かいましたよ」

「そっかあ、じゃあ行き違いになったんだな」

 藤沢は残念そうに声を落とす。

「どういうことですか?」

「いや、メールで五時と送ったんですけど、女性から一時間遅れるということなので、知らせに伺ったんです。間に合いませんでしたね。そしたら、今から小林さんにメールを送っておきますよ」

 スマホにすばやく文字を打ち込んだあと、藤沢はスマホをポケットにおさめた。何も言わずにこちらを見ているらしいのは、私に笑顔を向けているためか。

「女性のほうが、遅れて申し訳ないから小林さんの事務所に向かうと言ってるので、ここで待たせてもらってもいいですか?」

「えっと、あ、えーっと……」

「ん?」

 おそらく今、藤沢は不思議そうな顔をしているのだろう。

だけど私には何も見えなかった。正確には見えなくなったというべきか。

「あれ、どうしたんです?」

 なぜなら、藤沢の顔面は黒々とした煙の渦に包まれていたから。


「良かったら、これ。一緒に食べませんか」

 藤沢だとわかるのは、その声と顔から下の姿からだった。その彼が洋菓子店の手提げ箱を差し出している。

「さきほど、小林さんに当てられたときはびっくりしましたけど、実はこれをあなたにあげようと思って」

「え、わたしに? どうしてですか?」

「あなたはここのモンブランが好きかなと思ったので」

 この店のモンブランは有名な人気商品で、実を言うと私も堂前さんの事務所に来る前に、よく遠回りして覗いたりすることがあった。購入して一時間以内に食べてくださいというふれこみのその商品は、平日でも昼過ぎには売り切れていることが多く、予約なしではほぼ手に入らないものだった。ミケと一緒に寄る時は、こいつが食いてえと二人で悶絶しながら空のショーケースを覗くのが常で、結局いつも手ごろなものを買ってすごすご帰った。


「あ、ありがとうございます。じゃあちょっと堂前さんが帰ったら一緒にいただきましょうか」

 ——やばい。明らかにこれはやばすぎる。

 しかし、事務所のドアのチェーンはあいにく外れていた。事務所を閉めるとき以外、チェーンはずっと外したままなのだ。

「え、中に入ったらだめなんですか?」

 差し出したものを受け取らない私に、藤沢の声のトーンも若干低くなる。

「そうなんですよ。本人が不在のときは、誰も入れてはいけない決まりになっていて」

「へえ、そうなんですね」

 と言いながら、藤沢は手をのばして私の手首を掴んだ。その一瞬のひるみから、右足をドアに挟み込み、強引に押し広げる。緊迫感のない間抜けな音を立てて、お菓子の箱が地面に落ちた。

「大きい声出すんじゃねえぞ。出したら刺すからな」

 お菓子の箱の代わりに、刃先の長いナイフが握られていた。


 藤沢に掴まれた私は、この男から受け取る映像を「見て」いた。

 中学生くらいの幼い女の子が泣き叫んでいた。逃げ惑う彼女を執拗に追いつめ、喜びの声をあげているのは、藤沢だった。命乞いをする彼女をナイフで脅し、服を脱がせてさまざまなポーズをさせながら、スマホを向ける。傍らにあるパソコン画面には、何分割もされた画面のひとつに彼女の様子が映っていた。そのほかの画面には、目を血走らせた男たちの顔、顔、顔。それから藤沢と女の子の行為に及ぶ様子がまざまざと脳内を駆けめぐった。彼女の悲痛な叫び声が、その場に居合わせているかのように耳に鳴り響く。

「俺のアカウントどうだった? 面白かっただろ? こないだ襲った女に呪われたのかなあ。でもあんなもん見えたってどうってことねえんだよ。俺はお前に会いにきたんだよ。前々から目ぇつけてっからよ」


 映像の強烈さで意識が朦朧としかけた時、突然大きな物音がして、私の手首は解放された。見ると、堂前さんの幼馴染である蓮岡ママが藤沢を組み伏せていた。床にはナイフが転がっている。私は走ってナイフを廊下の一番端へ蹴り上げた。

「はい、もうすぐ警察が来ますからねえ。いたいけな高校生をね、そんなに簡単にヤらせないわよ」

「ママ、来るの遅いよぅ」

 来てくれたことでさえ奇跡に近いのに、安心した途端、礼も述べずに不平を言う私はまだまだ子供だった。

「ごめんごめん。堂ちゃんからの連絡で急いで車ぶっぱなして来たんだけど、停めるところが見つからなくて。あんたももうちょっとドアのところで粘んなさいよ。男にはね、時にはドンッと突き放すくらいことしなきゃ、扱いやすい女だと思われるわよ」

 藤沢はオネエ語を話すいかつい男性に、度肝を抜かれたようだった。

警察が来るまで、ほとんど抵抗するそぶりも見せず、藤沢は地面に顔面を押しつけられたままになっていた。もしかしたら、圧迫されて気を失っていたのかもしれない。蓮岡さんはアメリカの警官のように、後ろ手に締め上げた藤沢の背中に両膝をのせて取り押さえていた。

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