何の詳細も知らされないまま、三日目になり、私は老婦人と空っぽの駐車場の前で、立ち尽くしていた。そのあいだに、堂前さんから来た連絡と言えば、今朝「少しばかり遅くなるから、先に老婦人のところに行っておいてくれ」ということだけだった。


「あなたが何も知らないなんておかしくないですか? 一緒に働いてる従業員なのに」

 老婦人は、今日会ってからずっと不服そうな表情を浮かべていた。

「従業員といいますか、まあそうですね、お手伝いさせていただいてるんですけど」

「あなた、高校生ですよね? 今日は平日ですよ。学校には行かないくていいんですか?」

「夜間学校に行ってるんですよ。だからご安心ください」

「夜間学校ってどこですか。この辺りに夜間学校のある高校なんてあるんですか?」

「ありますあります。もうちょっと都心寄りなんですよ。夜間というか、通信みたいなところなんですけどね」

「夜間の通信? そんな学校があるのですか」

「ええ」


 私は笑ってごまかした。どんどん嘘がおかしな方向になり焦りを感じていると、ほどなく黒いバンが駐車場の前で停まった。運転しているのは、堂前さんだった。堂前さんは運転席の窓を下ろして、挨拶した。


「茜くん、遅れて失敬。山岡さんも大変失礼しました。車を停めるところがないので、中に置いてもいいですか?」

「ええ、構いませんよ、どうぞ」


 大きな車は駐車場を頭から入り、白線を無視して、そのまま縦に停車した。

「茜くん、祭壇を作るから手伝ってくれ」

 運転席から降りた堂前さんは車のバックドアを開けた。外からはスモークガラスで見えなかったが、車内は後部座席のシートを倒したところに大量のダンボールが積み込まれていた。ダンボールの脇に収納されていた折り畳み式のテーブルと椅子を二人で引っ張り出し、堂前さんの指定する場所に設置する。設置場所は、駐車場の中央の川側のフェンス前だった。


 除霊師のお祓いに立ち会ったことは何回かあったが、祭壇のセッティングなど大掛かりなものは初めてだったので、何をやっていいのか私には全然わからなかった。堂前さんがダンボール箱のひとつを両手で抱えて持ってきて、地面にどすんと置いた。箱の中には、儀式に使う道具一式が整頓されて収まっていた。

 白い布をテーブルに掛け、そのテーブルの上に、四つ足の横長の台を置く。台には、白地に色鮮やかな金の刺繍の施された三角の布を敷き、さらにその台の上に、ロウソク立てと花瓶と香炉を並べる。最後に、台の真ん中に仏像の描かれた小さな衝立を置く。


 老婦人が衝立を見るや、慌てて言った。

「ちょっと待ってください。祓えの儀式は神式ではないのですか?」

 堂前さんは作業しながら、それに答える。

「ええ、亡くなられた方の宗派に合わせてます。ご本尊は阿弥陀如来です。だからまあ、お祓いというより、ご祈祷ですな」

 堂前さんが助手席の扉を開けると、たった今買ったばかりというような色とりどりの菊の花が置いてあった。

「亡くなられた方?」

「覚えておられるはずですよ。再三、あなたがこの場所から出ていくように催促したホームレスです。大八木敏郎おおやぎとしろうさん、六十八歳でした。しかし、年齢も名前もさだかではありません。宗派も本人の証言にもとづいたものだから、実際には違うかもしれない。東北の生まれだと知人には言っていたそうです」


 老婦人は唖然としたまま言葉を失っていた。しばらくのあいだ、作業する堂前さんを睨みつけるように眺めていた。構わずに私たちは準備を進めていたが、そのうちに婦人はくるりと背を向けると、自宅の方に帰ってしまった。私は老婦人を追いかけようとした。


「いいから。放っておきなさい」

「でも」

「ご祈祷だけでも、我々で済ませてしまおう。もうすぐお坊さんが来る」


 堂前さんの言われるままに菊の花を花瓶に活けて、ロウソクに火を灯し、線香を焚いた。香炉から煙が漂い、芳しい香りが鼻をかすめる。それは蝉しぐれの真夏の空気に、厳粛さを添えた。

 堂前さんはそのあいだに、車内からお供えものを運び出してきて、籠に入ったそれを簡易祭壇の空いたスペースに所狭しと置いていった。最終的に堂前さんが「これでよし」と言って飾り立てた祭壇は、とても賑やかなものになった。


 十時過ぎに、袈裟姿のお坊さんがタクシーでやって来た。お坊さんと言っても、剃髪はしておらず、七三に分けた白髪がとても美しい。お年の召した男性僧侶で、重々しい袈裟姿によって、その威厳がうかがえた。

 お坊さんは紫の風呂敷に包んだ荷物を手に持っていたが、祭壇の前の椅子に座ると、その包みをほどく。その動作のひとつひとつに落ち着きがあった。包みには木箱が入っていて、お坊さんはそこから読経の際に鳴らす鐘(鈴『りん』と呼ぶのを後で知った)を取り出して祭壇の上に置いた。


 堂前さんが彼に近づいて、耳元でなにやらつぶやいた。お坊さんは数回頷いてからぼそぼそと返答し、堂前さんが引き下がると、大きく鈴をひとつ打った。蒸し暑さを一掃するような、張り詰めた響きだった。

 読経が静かに始まる。堂前さんが数珠を貸してくれた。私と堂前さんは、お坊さんの後ろに控えて、目を閉じ耳を澄ませた。


 しばらく時間が経ってから、私の隣に気配を感じた。見ると、老婦人が数珠をはめた両手を合わせ、目を閉じていた。ひとりづつ焼香をすませて、ご祈祷はだいたい三十分ほどで終了した。

 お坊さんは立ち上がり、私たちに向かって合掌する。

 タクシーが指定の時間にやってくると、お坊さんは帰っていった。堂前さんと私は言葉を交わすことなく、すみやかに片づけを始めた。


「その人は足の悪いひとでした」

 私たちが片づける様子を黙って眺めていた老婦人が、突然口を開いた。

「そのため他のホームレスのようにあちこちの公園を回ったりすることができなかったそうです。休めるところがほしいとその人は言いました。彼が言うには、商店街に行けば酔っ払いに殴りかかられ、橋の下に入れば、小中学生に石を投げられるから居場所がない。誰にも迷惑はかけないから、夜のあいだだけでもここに居させてほしい、とのことでした。

 私は断固拒否しました。役所に保護申請をするべきだし、そのために法律があるのでしょう。自立支援の政策もここ二十年で大分変化してきていることは私も知っています。その政策を利用せずして、個人にお願いするのはおかしくないですかと言いました。その人は、申請をして、実際に施設にも入ったのだが、そこでの集団生活に馴染めなくて出てきてしまったのだと言います。私にはその言い分が、その人のわがままにしか思えませんでした。そんなことは私は知らない、それはあなたの自業自得でしょう。とにかくここは私有地だから、どんな時間であろうと居つかれては困ります。次から見つけ次第、警察を呼びますよと言いました。それでも懲りずにその人は来ていましたが、そのたびに注意して、最終的に私がここを駐車場にしたことで、その人はぱったりと見えなくなりました」


 私たちは作業をやめて、老婦人の話を聞いていた。蝉の声だけが変わらずあたりに鳴り響いている。堂前さんが言った。

「ここは、本当にいい場所ですよ。静かで、時間が穏やかに流れ、カリカリとした雰囲気のないところだ。そのホームレスの人もきっと居心地が良くて、離れたくなかったんでしょう」

「それでも、私は間違ったことをしたとは思えません。大変気の毒で申し訳ないことでしたけど」

「ええ、あなたにはあなたの生き方がおありでしょう。私もあなたが間違っていると胸を張って言えるほど、大した人間でもありません。でも申し訳ないという気持ちが少しでもあるなら、あの人のために何かしてあげてほしいと思います。ただ時折、ここに来てその人のことを思い出したり、手を合わせたり、それくらいしてあげてもいいのではないですか?」

「ええ、わかりました。これからは出来るだけ、花を手向けることにします」


 私が仏具をダンボールにしまい終えて、いざテーブルを片付けようとすると、堂前さんは「ちょっと待って」と言った。

「テーブルは使うよ。実はまだ終わってないことがあるんだ」

 言われてみれば確かに、車の後ろに積み込まれた大量のダンボールは何のためにあるのだろうとずっと気になっていた。ご祈祷のあいだも下ろさずに、そのままの状態にしてあった。


 堂前さんはそのダンボールを、手際よく積み下ろし始めた。私がそのひとつを開けてみると、ビニール袋に小分けにされた飲料やお菓子やパンが詰められていた。

「ざっと、二百人ばかりはあるからね。これを今からここで配るから。正午開始とお知らせしておいたから、そろそろ来るんじゃないかな」

「配るって、誰にですか?」

「決まってるじゃないか。ホームレスの人だよ」

「マジですか!」

「茜くん、早くしなさい。さっきの祭壇の供えものも、籠から取り出して小分けにして、袋に入れておくんだよ」

「えー! あっあ、はい」


 とりあえず言われた通りにやるしかなかった。大量の供え物を均等に配分し、手提げのビニールに詰めてテーブルの上に置いていく。堂前さんはすでに小分けにされたものが詰まったダンボールをテーブルの両隣にぼんぼん積んでいく。一番上の箱を開けて、そのまま袋を渡せるようにしてあった。

 大方準備を終えて、ぜえぜえ言いながら何気なくフェンス越しの川向こうを見てみると、橋付近の歩道を多くの人がぞろぞろ歩いているのが目に入った。普段の通行人にしては、明らかに人数が異常である。


「え、もしかしてあの人達ですかね。めっちゃ来ますよ」

 堂前さんもフェンスの向こうを眺めた。

「うわあ、ありゃけっこう来るね。予想以上だな」

「予想以上って。大丈夫なんですか?」

「だいたいこのあたりのホームレスの人数は調べて、それでも多めに用意したつもりなんだが。昨日、ちゃんと告知もできなかったからね。まあ足りなかったら謝るしかない」

「えー。暴動が起きますよ。やばいですよ」


「足りなかったら、その分は私が負担します」

 それまでフェンスのところで、日傘をさしながらずっと私たちを見守っていた老婦人が言った。

「ほんとにいいんですか?」

「ええ。足りない分は小林さんが買ってきてください」

「申し訳ないです」

「それから今自宅に電話したんですけど、飲み物とあなたたちの日除けを準備させましたから、小林さんには悪いですけど、取って来てもらっていいですか? なにぶん年寄りしかいないもので」

「承知しました。ありがたいです」

 堂前さんは駆け足で老婦人の自宅に向かった。

「私も手伝いますよ」

 私の隣にやってきた老婦人は言った。


 正午が近づき、今日も相変わらず暑さがピークに達しようとしていた。雑木林の蝉の声が、耳の中でがんがんうるさい。

 テーブルに小分け袋を置き、そのまわりに大きな段ボールで脇を固めた私たちは、二人並んでホームレスが来るのを、いまかいまかと待ち受けていた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る