「……と、言うわけで報告はこれで以上です」


 私は手帳を閉じて、テーブルの上に置いた。グラスの氷はすでに解けていたが、番茶はまだ冷たかった。グラスをコースターの上に置き、濡れた手をスカートの生地で拭いた。


 堂前さんは今日は私の向かいではなく、デスクチェアに座って話を聞いていた。相変わらず事務所は扇風機と網戸からくる風だけで、十分涼しかった。


「もっと黒々としたものを君は期待してたんじゃないのかね?」

 堂前さんがおかしそうに言う。

「ええ。予想外の展開でしたね。でもまあ、堂前さんの推理が外れていることがわかったから、それだけでも調べた甲斐はありましたよ」

「推理はあくまで仮説だよ。大枠さえ外れていなければそれでよろしい。仁鳥くんの母親が高校時代の恩師からもらったプレゼントまで、見通せるわけがないよ」

「それでも、外れは外れですから」


 堂前さんは苦笑した。


「まあいいさ。霊障の結果が、呪いの儀式とは全くの別物だったからね。外れだと言われても、それは仕方ない。手紙で簡単に判断するものじゃないな」

「そうですよ。余命幾ばくもない恩師が、ぬいぐるみにお母さんへの恋文を入れてたんですよ。そんなの実際に調べてみないと、わからないじゃないですか」


 私は先日の蜘蛛がいないか周囲を見回してみたが、どこにも見当たらなかった。


「それにしても、湯原王ゆはらのおおきみの和歌に兎とは、贈り主もだいぶ粋な人だったんだなあ」

「楓と書いて桂と読むということも知りませんでした。この湯原王という歌人は、恋多き人だったみたいですね。残っているもののほとんどが恋歌です」

「それにツクヨミの歌を多く残している」

「ツクヨミ?」

「うん。ツクヨミつまり月讀尊つくよみのみこととは、古事記や日本書紀に登場する神様のひとりなんだ。イザナギから生まれた三姉弟、アマテラスとスサノオの間に位置する神だよ。謎の多い神様でね、その名の通り暦に関係する神で、夜の世界を支配していると言われていて、この神の話だけでも様々な憶測や解釈がなされている。和歌では月をツクヨミと詠むことで手の届かない人に見立てたりもするし、桂の木も月に生えていると信じられていたものだから、湯原王の歌と兎は、同じ月にちなんだものとして意味深いものになる」


「仁鳥のお母さんが慕っていた先生は、万葉集が特に好きな人だったそうです。それに影響を受けて、自分も和歌を詠んだりするようになって古典が好きになり、それから大学の国文学科を受験するまでになったと言っていました」

「そこで今の仁鳥のお父さんと知り合ったというわけだね」

「先生の好きだった和歌に、自分の娘の名があるのもなにか運命的なものを感じます。ぬいぐるみは、不治の病で亡くなった先生の思いが込められたお守りでもあったんですね。そんなぬいぐるみを使って、よりにもよって母親に呪いをかけようだなんて」

「そりゃ死んだ人も報われないな」


 西日が窓から差し込んで、部屋のなかがオレンジに染まった。

 私は仁鳥の母親に、その和歌の存在を知らせた時のことを思い出した。

 母親はその歌を聞くなり、床に膝から崩れ落ちて泣いた。


 先生がそんな思いを自分に抱いていたなんて、露ほども思わなかったそうだ。自身の一途な思いだけが、恩師との関係をつないでいるのだとばかり思っていた。


 先生は何度も病院には来なくていいと言った。それでも無断で面会に行くと、血相を変えて追い返されることもあったという。だが、亡くなる直前になって、先生は仁鳥の母親にそのぬいぐるみをプレゼントした。いつかお礼をしようと、まだ手足の自由が利いた時に買っておいたそうなのだが、ついつい渡しそびれて今になってしまったのだと先生は言った。


 母親もお返しをと思い、次行くときは先生の大好きな苺大福を買って行こうと思っていた矢先、先生は帰らぬ人になった。


「堂前くーん、買ってきたよーん」


 ミケが勢いよく事務所のドアを開けて入って来た。テーブルの上にコンビニの袋を勢いよく置いたせいで、ハーゲンダッツのアイスが転がって出てきた。


「おお、ミケ。今日は太っ腹だな」

「えへへ。これで今度ゲイバー連れてってよね」

「最近、この子そればっか言ってるんですよ」

「荒太さんに会いたいの!」そう言いながら、私の隣にどっかと腰を下ろした。すりすりと身を摺り寄せてくるのが暑苦しいので、私はバレないように少しづつソファーの端に尻をずらせた。


 堂前さんが洗い場に行き、スプーンを持って戻って来た。ミケがストロベリーで、私がクッキー&クリーム、堂前さんはバニラ。各自ふたを開けて、スプーンをアイスに突きさした。


「ミケは素直だな。わかりやすくていいよ」

「バカみたいだなって言いたいんでしょ。あたしだってね、考えるときはちゃんと考えているんだからね」

「うん、それもわかってるよ。でもそういうことひっくるめて、はっきり言える君はやっぱりえらいよ」


 堂前さんの言葉を理解できたのかはわからないが、ミケは笑みを浮かべて満足そうにアイスを食べた。


「ねえ、堂前さん。あのぬいぐるみは開けたほうが良かったんですかね? 仁鳥のお母さんはあの事実を知って良かったんでしょうか」

「さあね。本人は知らせるつもりはなかったんじゃないかな。知らなくてもいい真実だって世の中にはたくさんあるだろう」

「そうですね」


 しばらく無心になって、私たちはなかなか溶けないアイスをつついていた。硬い硬い真実の答えがそこにあるとでも言うように。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る