深緑の森の風

色褪せた書物(イロモノ)

プロローグ

 ―――いつだっただろう、最後に泣いたのは。


 空を仰ぎ、泣きじゃくる少女がいる。

 声が枯れてなお、その涙は止まらなかった。

 眼前の墓石はただただ、静かに佇むだけ。

 彼女の家族は、もう…戻らないのだから。



 再世暦797年の暮れ、酷い大雨の日。

 ここ、セムド王国には、恐ろしい奇病が流行っていた。

 それは――


「……いいかしら?エピーズ…」


「ダメだっ‼喋っちゃ…ダメなんだ…!」


 病室には、若い一家がいた。父と母と…娘が二人。

 ベッドに横たわる母親の美貌は、病によって過去のものとなっていた。

 彼女の輝く紫色をした絹のような髪は、無残にも抜け落ちてしまっている。

 痩せこけた体には、ドレスの代わりに包帯が巻かれていた。

 エピーズと呼ばれた男の隣では、まだ七つの誕生日を控えた娘たちが泣いている。

 

「死の奇病がなんだ‼きっと良くなるさ!だから何も言わないでくれ!頼む…」


 エピーズはくしゃくしゃになった顔で、縋るように吐き出した。

 だが果たして、その言葉は届いているのだろうか…

 彼女はなおも声を絞り出す。


「子供たちを……二人を幸せにしてあげて…」


 包帯に包まれた手を最愛の人の頬へと伸ばす。

 圧迫を避けるよう、ゆるく巻かれていた包帯は、いとも簡単にほどけてしまった。

 そこから覗く彼女の肌は、内出血で痛々しい青紫に変わっている。

 …この病気に罹った者の身体は、自壊してしまうほどに脆くなってしまう。

 それを承知で彼女は動いた。

 襲い来る激痛。耐え難い苦痛。

 それだけで死に至った者も、いる。…いたのだ。

 だと云うのに、彼女の表情はそれでもなお……穏やかな微笑みのままだ。


「動くんじゃない!ああ…こんなに血が……」


 彼女の手を握りしめながら、エピーズは涙を零す。

 賢しい理性が脳を支配しようとする。もう救からないと、諦めろとそそのかす。

 それすら振り切って、震える声で我儘な望みを吐き出す。


「幸せだなんて……君が居なきゃ幸せじゃない!みんな揃ってないと!」

「だから…だから逝かないでくれ!」

「今、他の国で薬を探させている!僕だって研究してるんだ!」

「特効薬の完成まであと少しなんだよ!それまで待ってくれ!」

「お願いだ!お願いなんだ‼」

「僕たちを置いて逝かないでくれ‼」


 外の雨が、その激しさを増す。

 風は衰えることを知らず、あらゆる物が軋む音を立てる。

 身体が、心が――


「…エピーズ、賢くて優しい、あなた。私がいなくなっても、私を追わないで」

「約束…した、でしょう?」

「子供たちの前では……しっかりするって…」


 弱まっていく声に、言おうとした願望が音を失う。

 まるで、最期の言葉を聞き逃さないために――

 彼女はベッドにすがる愛娘たちに目を向けた。


「ラニ…私に似てお転婆な子……私の代わりに二人を頼んだわ…」

「ニーニャ…パパに似て優しい子……ママはいつだって、あなたを見守っているわ」


 もう、この腕は、娘たちの頭を撫でることもできない。

 それでも、と足掻く。

 刻一刻と、命の灯が消えようとしている。

 白かったはずの包帯は、殆どが赤く染まってしまった。


「あなた…約束……守って、ね」

「あなた…と、逢えて……良か、った」


 だんだんと、瞳から光が奪われていく。

 エピーズは声も出せず、ただただ、首を振る。

 子供たちはシーツを握りしめる。その赤色は誰の物か……

 緩やかに動く唇は、最期に……



       うまれてきてくれて  ありがとう  みんな



 雨音にかき消されそうな幽かな声は、確かに、そう遺した。


  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る