7

暗闇。振動。恐怖。優越。嫌悪。凌駕。敗北。憔悴。焦燥。沈泥。消却。


 額に汗、まだ汗をかく季節じゃないのに、じっとりと前髪が湿っている。夢を見ていたようだったが、思い出せない。とても嫌な夢、ということだけを覚えている。動悸が速い。忘れてしまった夢が、しかし見てしまっている事実が気持ち悪い。

 隣に敷いてあったサナの布団は行儀よく3つ折りにして壁際に寄せてあった。

 次第に日常の世界に戻されていく。朝の音、子どもたちの声。

「おはよう、ニシ兄ぃ、寝坊?」

 モモはエプロンを着て、卵を焼いている。魔導ではなくガスコンロとフライパンで。

「おはようございます」

 サナは焼いたスクランブルエッグとウィンナーを子どもたちに運ぶ役。

 チーンとトースターでパン×2が焼けた音。あと4枚必要。

「パン、焼いておくよ」

 寝ぼけていても、その程度の魔導なら造作もない。パンの一切れが空中を飛ぶ。皿に着地する頃には、こんがり焼けていた。トースターのパンも、空中を飛んで着地した。

「魔導!パン!」

 ハナは嬉しそうにかぶりつく。まだ、ジャムを塗ってないのに。

「こらー『いただきます』っていえー」

 朝から全力の母親役たるモモ。

 ニシは、子どもたちの朝食を眺めながら、もうひとつ別の魔導を唱えた。インスタントコーヒーの瓶&ミネラルウォーターのボトルが中を舞う。マグカップにそれぞれをいれると、魔導で熱せられたそれは瞬時に湯気を立て始めた。さながら見えない触手を自在に操るタコのよう。

 大人1人vs子ども5人でも、魔導でマルチタスクを行うことでなんとかやってきた。今はモモが母親役をしてくれているので、ダブルタスクくらいで済んでいる。

「いってきます」「じゃあ」「いーてきます」「いってきますー」

 子どもたちそれぞれが、玄関から出撃した。

「じゃ、行ってきます」モモ「今日の予定は?」

「今日はフリーだ。サナの転入準備が午前中。午後は、掃除でもするかな」

 サナの部屋は元・物置だった。ダンボールに詰められた雑多な荷物は廊下に出たまま。

「俺たちも行くか」

 自室に戻って、クローゼットの奥からスーツを引っ張り出す。久しぶりの正装に袖通して、緩めにネクタイを締める。シャツは白、ネクタイは紺=大学生の就活スーツを使いまわす。

 革の靴を履いて玄関を出ると、制服姿のサナが立っていた。どこにでもいるような感じ。

「そうだ、これを」

 ニシは鍵をサナに渡した。サボテンのキャラクターのストラップがぶら下がっている。

「子どもたちはみんな魔導で鍵を開け閉めできるから、鍵を使って。大丈夫、簡単な術だからすぐに使えるようになるよ。それまではこれを使って」

 サナはうん、とうなずくと、かばんのポケットに鍵をしまった。制服の袖が少し長い。

「そしてもうひとつ」

 ニシの声なき魔導の詠唱。緑に光る魔導陣サナをを包む。

「これは?」

「スカートを引っ張ってみて」

 サナは言われたとおりにした。スカートの裾は、膝より上に動こうとしない。

「これは、その、どうして?」

「今日はバイクで行くから」はい、とヘルメットを渡す。「それなら100% 見えない」

 サナは再びうん、とうなずいた。サナの好き嫌いがまだわからない。

 ニシが先にバイクに跨って、サナはあとから恐る恐るまたがった。

「どう? 乗ったことある?」

「これは、絶対初めてな感じ」

「お尻の横に掴むところがあるでしょ。そこを掴んで。大丈夫、ゆっくり走るから」

 エンジン始動。ブルブルと振動が伝わる。チェーンがガチャガチャ音を立てる。魔導セルの電動バイクじゃ、この“楽しさ”は味わえない。

 バイクはするすると土手の上の道を進んで、国道の交差点近くのバス停で停まった。

「ここが能登のバス停。明日からは、ここでバスに乗って行く」

 コクコクと後ろのサナがうなずく。カチカチとヘルメットが当たった。

 バイクは緩やかな丘を登っていく。通勤時間は過ぎているので交通量はそこまで多くない。赤信号で停まって息をつく。

 スーツの男と制服を着た中学生が、ガソリンバイクに乗っている。異様な絵面。もう少し気を利かせて、外見を変えるような術式を使ったほうがよかったか。住民にバレなければ、魔導の使用は自由だと思う。

 中学校の校門横にバイクを停めてエンジンを切った。インターホンで呼びかける。

「すみません、転入手続きに来たんですが」

 少々お待ち下さい、とノイズ混じりの返事があった。

「緊張してる?」

 2人はバイクを降りた。

「はい、少しだけ」

「あのオジサンから聞いていると思うけど、高位の魔導が扱えることは秘密。魔導が使えるのは、皆が知っているけど、話題にはしないように」

「どうして、ですか」

「この街の人も、というか世界中がそうだけど、魔導災害から立ち直ったばかりなんだ。魔導士に差別とか、偏見とかそういうのは減ってきたけれど、魔導に対していいイメージを持つ人ばかりでもない、ということ」

「でも、魔導を科学に応用することで、生活がよくなったんじゃ」

「人はなかなか割り切れない生き物なんだ。怖いのも事実、便利なのも事実。その折り合いをつけるための手段が『話題にしない』ってこと」

「なるほど」

「他に、何か心配なことは?」

「友だち、できるか不安です」

「背伸びしないことが大切だ」

 サナは目をぱちぱちした。そしてつま先で“背伸びした”。

「身体測定なら、そうだね。そうじゃなくて、ありのままの自分でいようとするんだ。いい人を演じたり、無理に笑ったり、嫌なことを嫌だと言わなかったり。女の子の人間関係は、正直よくわからないけど、素のままで接せられる人が友だちだと思う」

 サナはうんうん、と頷いた。

「じゃあ、バイクは楽しかった? ほら、正直に」

「ちょっと、怖かったです。でも楽しかった、かも」

 初めて本音が聞けた。

「その調子」

 ニシ=笑顔でサムズアップ

 校門へ、初老の男性が近づいてきた。着古したセーターにゆったりとしたスラックス。昔こんな先生がいたな、という印象。個性がないことが個性、という学校の先生。

「どうも、はじめまして。榎本えのもと です。ここの教頭をやっております」

「先日、連絡した者です」

「電話してくれたのは代理の、田中さん、でしたか。今日は保護者の方がいらっしゃると」

「ええ、そうです」

「では、中へ。ほう、バイクですか」

 榎本教頭は、ガチャガチャと鍵を差し込み、錆びた鉄のゲートを開けた。

「まあ。半分趣味のようなものなので」

「わたしも昔は乗り回してましてねぇ。ずっと昔の話ですが。あ、バイクは門の横に停めておいてください」

 言われたとおりにする。サイドスタンドを立ててハンドルをロック。ヘルメット2つをミラーに引っ掛ける。そして素早く魔導を唱える。魔導の光るロープが地面とバイクをロックする=希少なバイクの盗難対策。触ったら電流が流れる。

 懐かしいチャイム音、遠くから聞こえる子どもの声、白線の引かれた運動場=今は教室で授業中。ここの中学校に来ていたわけではないけれど、懐かしい空気と匂い。サナは緊張しててそれどころではなさそうだけれど、教室の方を見て人影を探している。

 校舎の1階、職員室の隣の応接室に通された。壁のショーケースにはピカピカ光る優勝杯に優勝旗がならぶ。

「保護者の方はこちらへ。書類の確認とサイン、それと通学における注意事項などを確認します」

榎本教頭はサナを手招きする。「君はこっち。簡単なテストをするから」

 若干、サナの顔がひきつる。

「はい」

「大丈夫。1時間くらいで終わるから」

 パタパタというスリッパの音が応接室から離れていく。ニシはふかふかのソファに腰掛けると、低いテーブルに書類を広げた。田中から渡されたファイルそのままだが、あの人のことだから、不備はないと思う。

「静かな子ですね」

 榎本教頭が戻ってきた。

「ええ。“いろいろあって”記憶障害なんです」

 そうですか、と教頭は小さな声で言った。潰瘍発生から5年も経っているのに、という疑問を持っていそうだが、詮索しないという先生らしい判断をしたらしい。

「まあ、うちにはそういう子、多いですから。いえ、記憶がないわけじゃないですけど、少なからずアレの被害を受けているので。うちのカウンセラーの評判は、けっこういんですよ」

 もごもごと、ひとり言のように言いながら書類を並べ、ニシにそれぞれに記名と捺印を求めた。通学保険、給食、定期を買うのに使う学生証etc。

「それなら安心です」

「保護者さんは、あの中でお仕事を?」

 父でも兄でもないので、そういう呼び方なのだろうか。無難さが取り柄、といった感じ。榎本教頭はニシの書類を眺める。

「はい、常磐の東京潰瘍監視基地です」

「そして、魔法使い」

 榎本教頭は、ニシの白い腕環をちらりと見た。

「魔導士ですが、99%普通の人間なので、ご心配なく」

サナあの子 も、ですか。校内では“そういうの”を使わないよう、ご家庭でもよく言い聞かせてください。“そういうの”にいい印象を持つ者ばかりではないので」

 今度は、住民票──オジサンが根回して偽造済み──を見る。「特記事項」に「橙」と漢字がひとつだけ書いてある。

「ええ、大丈夫です。」

 サナはまだ魔導が扱えない。本人がそう望むのであれば普通の子どもとして普通の生活に慣れるよう促すべきだろうか。

「ああ、念の為、わたしはいい印象の方ですよ」

「えっ!」

 思わず声が出た。

「5年前、潰瘍が広がり怪物たちがこの街にも迫ってきました。でも、守ってくれたのは魔法使いたち。危険を顧みずに守ってくれたのに邪険に扱うのはバチが当たるもんでしょ」

「はい」

「“あの時”は、どちらに」

「自分は、新宿にいました」

「それは、それは」空気を読む教頭。「ほう、他にお子さんを5人も」さりげない話題転換。

「みんな、潰瘍や怪異の騒動で親類をなくした子たちです。みんな魔導を扱えるので、訓練をしながらいっしょに暮しています」

「にぎやかでしょう」

「おかげで、昔のことを思い出さずに、子どもたちのために働けるんです」

「働きすぎには、気をつけて」

 榎本教頭にサイン済みの書類を手渡す。パチン、と印鑑の蓋を閉める。

「保護者さん、どうされます? この後、テストが終わってから、担任教師と面談をして、校内を一通り案内しますが」

「ええ、お願いします。来年も1人、入学すると思うので」

 その時、スマホが鳴った。甲高いアラームのような音。普段の回線とは違う、緊急回線の呼び出し。

 教頭に断りを入れて、応接室の外に出た。スマホのスクリーンに電話番号と「刑事さん」のニックネームが映る。

「もしもし」

「すまんな、ちょっと時間いいか?」

 ガラガラのしわれ声。緊急回線でかけてきたのだから、ニシに拒否権はない。

「どうしたんです、刑事さん。事件、ですよね。怪異が出たんですか」

「それだったら、市役所の駆除課を通して依頼するんだが、今回は怪異かそうでないか、よくわからない。ちょっと来てくれないか」

「いいですよ。でも遠くないですよね」

「下田町のほう」

「30分くらいで」

「おう、頼む」

 ニシはすっと回れ右をした。

「教頭先生、緊急の仕事が入ったので、失礼します。昼までには戻るので」

「ん、いいですよ」

 まったりとした教頭。

 ニシは駆け足で応接室を後にした。学校の玄関で律儀に合皮のスリッパを揃えて置いた。

 ヘルメットを被りながらバイクに跨って、エンジンをかける。サナのヘルメットはリアシートに魔導の紐で固定した。

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