⑧ White Memory side White

<This text>

 <white memory side white>


 僕にはピアノの天才である姉がいたんだ。

 いつだって彼女の方が僕よりも上手く弾いていた。

 双子の姉なのに、僕は双子の片割れであったのに。彼女のような天才的なセンスはなかった。彼女の弾く音色は澄んでいて一点のくもりもなく、その演奏を聞いた観客は涙を流すほどだった。一音弾くごとにみな涙を流すから、コンサートにはいつだって涙を拭うためのハンカチが配られた。一音たりとも逃しはしたくないため、寝る人も席を立つ人もいなかった。

 よそのハコからも人は押しよせて来ていたので、観光名所のようにピアノでハコの再興を行っていた。

 僕がいたハコも今いるハコのように衰退していたから、そのハコのカミサマは躍起になって姉のピアノを広告として貼り出した。

 いろんなハコから人が姉に訪ねてきた。

 姉はまだほんの小さな子どもだったのに。

 姉は弾くことを拒まなかった。まるで才能の奴隷のように、自身の感情を廃してピアノに全てを捧げていた。食することも、眠ることも忘れ、楽しげに音に人生を捧げる。楽しげな様も狂気に映ったものだ。まだ小さいからということもあるけれど、ピアノしか瞳に映していない姉は、他の全てを欠落させていたから。

 コンサートに訪れる人に挨拶もしない、姉をわざわざ尋ねてきた遠くのハコの人にも言葉を交わさない。音に対して妥協がないから、無音を好み、耳に心地よい声しか受け付けない。僕の服の擦れた音すら不快に思うこともあり、時として僕に拒絶反応を示した。

 それほどまでに姉はピアノが命だった。

 ピアノの才能はなくても、僕もピアノを弾いていた。姉がいない間にピアノに触れて、彼女の真似をするのだ。ただの真似っこだったから、彼女の音の何十倍も濁りはあった。僕の耳でも彼女の音の何億倍も下手だということは嫌でも理解できた。でも、楽しかったんだ。誰にも賞賛されなかろうが、これは僕の心に深く杭を刺した。ただただ弾きたかったから、弾いただけ。

 姉は時折、死んだように眠ることがあった。いつもは敏感に寝ている時でも僕が息をする音に気づくのに。そんなときにピアノが置いてある部屋に忍び込むんだ。そこは天井の星明かりが降り注いでいて、ピアノの音と星を存分に浴びれる場所だった。目を閉じて姉と僕の姿を重ねて。澄んだ空気を吸って。ピアノの鍵盤を押した。

 弾いたら、姉への劣等感は吹き飛んだ。呪いは祓われ、僕にとってピアノは願いになった。

 僕がピアノをこっそり弾いていたことが暴露されたのは、姉と僕とでピアノのデュエットをしてくれと依頼されたときだった。姉はこいつは弾けない、と断じていたが、依頼人は、そんなことはない、いつも夜中におぼつかない音をたなびかせているではないか、と教えてしまったのだ。

 気まずくなり逃げようとしたが、家は一緒だし、帰るところなんてない。すぐに引っ捕らえられて、僕をピアノの前に座らせられた。姉主導のもと、弾けと命令されるまま、僕は姉よりも何倍も劣る音を鳴らした。

 弾いているときは、手に汗をにぎっていた。音は濁り、淀み、つっかえていた。一曲弾ききったら、姉はむすっと顔を膨らませていた。

 長い前髪を払い、もう一回、今度は私が教える、と口を挟んできた。

 彼女はスパルタだった。練習中僕の音を一回も褒めなかった。つっかえたら、なんでつっかえるのもう一回、なんでそんなテンポなのもう一回、そこスタッカートで弾む音なのにどうして指を下ろしたままなのもう一回、と食事も睡眠も取らずに練習させられた。ようやく一曲弾き終わった時には、姉も僕も頬が痩せこけていた。二日間飲まず食わずで幼い子どもがそこまでやるか、とも思うが僕たちは特殊だった。

 依頼されたデュエット当日、僕は姉の音に負けていたが、なんかと弾ききった。姉はあまり納得のいく出来ではなかったらしく不服そうにしていたが、僕は、満足だった。

 天才の姉とデュエットしたなんて。

 僕には万に一つもないチャンスをもらったんだ。

 嬉しくてたまらなくて、僕はハコの中をはしゃぎまわった。両手をぶんぶん回して、広場で一周して、踊り狂って、そこにいる老人に挨拶をして「元気だな坊やだ」と言われて、他の目なんて気にせずに。


 そうして帰ったら、僕たちの家に見知らぬ男が立っていた。

 手足を縛り姉をピアノの椅子に座らせていた。男は姉の手を取り、目をうっとりととろけさせていた。姉の口にはテープが貼り付けられていた。男が姉の指を撫でるたびに姉の悲鳴がテープの奥から漏れ出ていた。

「君の音を僕の中で永遠のものにさせたいんだ」

 僕は呆然と立ちすくんだまま、男の言葉に耳を傾けていた。足は根を下ろし、地面にはり付いたまま。

 男は僕に気づくと、にんまりと唇を横に大きく引き延ばして、歪な笑みを見せた。あまりの赤い唇にお化けかと思うほど。僕は男にすぐさま捉えられ、姉の前に転がされる。

「同じ顔だ。双子だったんだね」

 どうしてこんなことになっているのか分からなかった。何か悪いことでもしたのだろうか。姉の発言が悪かったのだろうか。僕が姉の思うように上手く弾けなかったのがいけなかったのか。

 姉の指を撫でていた男は、次にペンチを取り出して指を挟みだした。姉の悲鳴が僕の鼓膜を突き破る。命乞いに近い言葉を僕は漏らした。

 やめてください。お願いします。姉さんの指にそんなことしないでください。僕が何でもします。何でもしますから。姉さんのピアノの音を殺さないで。お願いします。

 僕の言葉に力はなく。

 姉の指を一本、男はひねった。

 姉は泣きわめき、声が裏返った。姉の声ががらがらになっていく。男はもう一本、容赦なく小枝のように折った。一本、一本折るたびに、姉は泣き叫び続けて、途中嘔吐がテープの中で内包される。

 僕は目の前で何本も姉の指を折られるのを見続けるだけで。次第に弱っていく彼女の悲鳴に、力なくうなだれるだけだった。

 全ての指が折られた後、今度は僕の方へ男は歩みを進めた。僕は、悲鳴一つあげずに自身の指が折られる様を見ていた。姉の死んだような横顔を僕は目と鼻の先で見ていた。指がぽき、ぽき、と折られていく痛みの中で、絶望に沈む姉の瞳を見つめ続けた。消えていく生気に、涙が零れ続けた。


 僕のハコのカミサマが駆けつけて、男を殺して狂気の犯行を止めるまで、僕たちの指は徹底的に折られ続けた。指を撫でられ、噛まれ、舐められ。べとべとになった指を今度は噛み下される。そんなことしなくとも、僕たちの指は再起不能なことはわかっていたのに、男は姉と僕の指に執着し続けた。

 死体となって転がる指を折った男。僕たち二人のあっちこっちへ折れ曲がり、ゆるゆるになって皮しかない指。視線を上げると、機械の腕が垂れ下がっていた。男の血が機械を伝っていく。ぴちょん、と姉と僕の間にカミサマに飛んだ血が滴った。

「なんで、カミサマ」

 僕は男に折られた指でカミサマの足に縋った。

「カミサマ、なんで姉さんを助けてくれなかったの」

 カミサマなんて大嫌いだった。


 僕たちの指がなくなって、数日。

 姉は死んだように虚空を見つめ続けていた。ピアノの前に座って、黒く反射する自身の影を見て。何も言わず、何も食べず、一睡もせず。ピアノだけで構成された人だったから、指がなくなり、何もすることができなくなった。姉の発する言葉は欠落はしていたが、ピアノに関することであればつながれたのに、今は何もできない。

 僕は姉に対して、姉のピアノに対して愛おしさを感じていたことをなくなって初めて気がついた。

 姉のピアノの音色を二度と聞けないと分かると、物寂しさが腹にたまっていく。砂時計のようにたまっていった寂しさに、今度は外を歩いても涙が噴き出す。

 泣き虫だと言われ、近所の餓鬼にからかわれた。泣きながら、僕は指のない手を見せてやると、意気消沈して代わって餓鬼たちは泣き出して僕から逃げていった。

 指は切断されて、掌のみとなった手は異様で。姉は手首までまるごと切られてしまったので、棒のような腕が垂れ下がっているだけだった。それを思うと、僕の指はまだ軽傷で。姉を思うと、より深い悲しみに落ちていく。悲しみに足を取られながら、広場を歩いていると、目の前にカミサマがたたずんでいた。

 僕がいたハコのカミサマは、若い女性のカミサマだった。目玉が機械で透明な水晶玉のような瞳となって埋め込まれていて、右腕も機械の腕で灰色が鈍色に光っていた。

 ハコから雨が降る。

『雨のハコ』が僕のいたハコの正式名称で、憎らしいほどベストタイミングで僕の涙をぬぐうように雨が降っていた。髪はべたつき、体は冷たくなっていく。

「間に合わなくて申し訳ない」

 僕は食いかかる勢いで、カミサマに詰めた。彼女の胸ぐらをつかみたかったけれど、指がないから、体当たりをしてしまう。カミサマはよけずに僕と共にその場に倒れてくれた。

「姉さんの指が、ピアノが、」何も言えなかった。涙だけがこみ上げてきて、僕の愛おしい音を記憶で追ってしまう。「いっそのこと全部忘れたい。あの大好きな音も。全部」

 カミサマは僕の頭をそっと撫でた。分厚い装甲の手は僕を温かく慰めてはくれない。

「一つだけ方法がある」

「何でもするよ」

「だが、その方法だとね、今の君の記憶も想いも全部消えてしまうことになる。もしかしたら今そうやってお姉さんのことを思ってやろうとしていることも全部なくなってしまって、今の君もろとも消えてしまう」

「言っただろ、何でもするって」

 カミサマは、躊躇いがちに目を泳がせて、でも最後には言ってくれた。


「カミサマにならないか」


 広場で誘いを受けて、僕は一目散に家に帰った。

 カミサマになれば、指はシステムから与えてくれる。記憶はシステムが消してくれる。だけど、指を再び与えてくれるということは、ピアノがまた弾けるということ。僕はいらないけれど、姉の指だけはなんとかできるかもしれない。カミサマになることで。

 姉に伝えなければと思った。

 家に帰宅してピアノの部屋を開けた。

 姉は珍しくいなかった。どこにいるか探したが家の中にはおらず、外へ探しにでた。僕の家の周辺は高層の家が建っていたので、ゆっくりとそちらを見上げながら歩き出した。雨はまだ降っていた。目を細めて、雨を顔に受けて。そして、誰かが上から降ってきた。

 目の前で落ち、ひしゃげたそれは僕の脳内は受け付けなかった。爆弾のように頭から血が飛び散って、花火のように生を散らした、小さな女の子。その両手の手首から先はなく、痩せ細っている。落ちた拍子に全身の骨が折れまがり、何か分からない化け物のように見えた。

「姉さん」

 血だまりにかまわず、僕は姉さんを抱きしめた。赤に沈んでいく。姉さん、と何度も言って、今まさに冷えゆく体を全身で感じ取る。

「システムが、助けてくれるよ。カミサマになれば、またピアノが弾けるんだよ」

 双子の姉の口元から吹き抜ける息は消えかけていた。

 無理だよ、とようやく僕と口をきいてくれた。

 今にして思えば、この解決方法は不可能だった。機械義肢は、なくなった元の指のようには動かない。いくら脳から直接信号を送って、動かしているからといって偽物である事実は覆らない。もとのように指を動かすことなど不可能なのだ。

 彼女の音は二度と戻らない。

 姉は、知っていたのかもしれない。男が永遠すると言っていたのと同様、指は一度欠けてしまえば戻らないのだ。

 僕は姉を抱きかかえて、システムに願った。あれほど恨んだカミサマに祈った。

 背後に気配があるのは知っていたから。

「僕が姉さんの代わりにピアノを弾くよ」

 浅はかな願いだった。二度と戻らないのに、それでも姉の代わりに。だって、僕は彼女の片割れなのだから。一緒ではないが、この顔は、指は、体は、彼女の魂の片方は宿っていると信じていた。

「だから、カミサマ、僕に指をください。記憶も感情も、何もいらない。ピアノさえ弾ける指だけあればいい。カミサマに僕の全てを捧げます。もらった指は姉さんの音に、記憶はシステムに、感情はカミサマに」

 カミサマは、姉さんの体まるごと抱きしめて、システムへと案内してくれた。

 僕の記憶はそこで途絶えている。


「飛鳥に出会わなければ、ピアノなんて弾けなかった。機械義肢の指は思ったように、動かない。やっぱり指はもとの指でしかまかなわれない。けれど、こうしてもう一度ピアノを弾けている。姉のために」

 白は、黒いタイルに目線を漂わせていた。

「私は、姉さんの代わりでよかった。でも姉さんの全てを忘れていたから、音すらもあれに近づけることはできなかった。記憶は、感情は、音に必要だった」

 僕も白の目線を追った。黒いタイルの上を飛び交う女の子の姿が見えるかのようだった。

 白はピアノの音を鳴らしていく。それは鎮魂歌のようにたおやかで、慈しみに溢れていた。透き通った音は、純粋無垢。一点のくもりもない、音の粒達。妥協なくお別れの曲を流していく。最後にたっぷりとピアノの音を残痕させて息を引き取った。

「完璧だ」

 うっとりと記憶に浸りながら白は僕に向き直った。

「もっと弾きたかったな」

 記憶を取り戻したカミサマに与えられることはただ一つだけ。

 死、だけなのだ。

 僕は白に近づく。

 義肢に隠していたナイフを抜き取り、白へと切っ先を向けた。

 喉笛に突き立てて、

「お前の音は最高だったよ」

 貫いた。


 <white memory side white>

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 <white memory side white>

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