〈Kamisama System〉

⑬ About the Blue

<This text>

 <about the blue>


 システムとの契約には何の抵抗もなかった。僕にとって当たり前のことだったから。何回も何回も契約をしても思い出して帰るよ、と彼女と約束していた。そうして実際僕は思い出すたびに自分のいたハコに帰っていた。

 彼女、妹は生まれつき足が不自由だった。車椅子に乗らないとどこにも行けない。一人で車椅子を操作することもできるが、僕たちにはそのための車椅子を買うお金がなかった。親はいない。母親と父親の記憶もない。気づいたら二人でいて、ハコの管理者であるカミサマと三人きりのハコに住んでいた。

 大きなハコなのに、人は誰も住んでおらず、最後の二人だとカミサマは言っていた。他の人たちは、違うハコに移り住んだ。

 人が少なくなる代わりに、萎れていた桜の木は満開に咲き散るようになった。ピンク色の甘い香りに年中包まれていた。木造建築の家々は古びていて、今にも崩れそうになっていたし、屋根瓦は半分の家は吹き飛び、四分の一は床が抜けていて、何か分からない生物がうろちょろと徘徊していた。

「にゃあ」と妹はその生物の真似をした。

「猫っていうらしいよ」

 けほけほ、と妹が咳き込む。

 肺が悪いんだよ。

 カミサマが診てくれて、ようやく妹が何がないのか理解した。幼い頃から妹とカミサマしか見てこなかったから、どれが正常なのか図りかねていた。

 桜の花は例年いつも通り咲くことも、人がいないことも、家がどれも崩れていることもさして僕たちは気にしていなかった。

 でもカミサマは違った。

 そのハコのカミサマは桜、と言った。桜は女性のカミサマで、僕らの親代わりとなっていろんなハコのことを教えてくれた。

「夜のハコでは星が地上に散りばめられたようなハコで、まるでおもちゃ箱のようなハコなんだ。海のあるハコは、海水が一部分を占めていてシステムが波をたたせている。そしてここ、桜のハコでは、桜の木が埋まっている」

 ピンク色の花びらが家にこぼれ落ちていた。猫が尻尾をくゆらせて、ハコの陽光を浴びてのびをしていた。妹は太ももに猫をのせて、一緒にあくびをしていた。

 カミサマの話は楽しかった。昔話に花を咲かせていろんな見識を広げさせてくれた。勉強も、治療も、自身の機械も診て、余生を過ごしているようだった。

 そこで妹の体のことを労った。

 妹はないものが多かった。肺が悪くいつも咳をしていたし、両足は動かなかった。だんだん左目が見えなくなっていくと同時に左の反応も悪くなっていった。左から呼びかけると聞こえていないのか、反応がなかった。聞こえていないわけではないが、それも日々なくなっていく。

 右もなくなっていくのではないか。不安に駆られながら、日々を過ごし、カミサマが持ってくるもので食いつなぐ。

 妹の何もない様は当たり前だと思っていたがカミサマはそうではなかった。カミサマは、妹がないことに関して珍しいことだと称した。

 僕が出会った人間はカミサマと妹しかいなかったから、女性はみなそうだと思っていた僕にとっては衝撃だった。

「たった二人の家族なんです」

 どうにかできませんか、と詰め寄ったときには、妹の左の感覚はなくなっていた。カミサマが持ってきた補聴器で左の反応の補助をしていたが、それももうまもなくなくなってしまう。

 まるでこのハコの桜のように儚く散っていく。

「君は、普通を知らないんだったね」

「普通を知らないけれど、妹の状態がだんだん悪くなっていっているのは分かります」

 桜は、思案して最悪の手を示した。

「君の妹がカミサマになる、という方法がある」

 カミサマは知っての通り、システムと契約し足りないものを補う代わりにハコの管理者となる者のことだ。妹が知らない土地でカミサマになるなんて。まだ幼いのに。

 できない。

「私たちはそうやってカミサマになる」

 心臓に手をあてて、桜は木造の左腕の関節を僕の前に突き出した。もう随分前のもので機械の灰色鉄鋼と、桜のハコの木材とで組み合わせなんとか動いている状態だった。

 システムさまさまで存在しているのに、システムに嫌悪感を抱く。

「記憶がなくなるし、ここにはいられなくなる。でも妹は健康的に生きられる。何一つ欠けるところはなく」

「桜も記憶がないの?」

 桜は関節を撫でて、頭を振った。カミサマの禁忌を触れてはいけないことは、記憶をなくす以前から知っていた。

 最初、僕はカミサマシステムは反対だったんだ。あまりに非効率的だったのもあるが、記憶をなくした先で一人で生きるなんて考えられなかった。

 考えさせてくれ、と僕は一旦引き下がった。でもその間も妹の病状は悪化する。僕は見ているだけだ。ハコでの日常なんて何もない。ハコの余生を見つめつつ、システムから供給される食べ物や日用品を加工する日々。妹も手伝おうとするが、手伝う事柄が小さく申し訳なさそうにする。

「できる範囲でもやれるのは嬉しい」

 妹はその上でやれることを探すし、やれることを見つけたら楽しそうにしていた。猫がたむろするところに来て、僕は妹を持ち上げて、一緒に愛でたりもした。

 妹の左の感覚が消えていくにつれて、猫も減っていった。桜の色も褪せていく。だんだんハコの色も閉じていき、天井の色も暗くなっていく。

 何年もハコの駅には機関車は止まらない。

 僕は焦燥感が積もるばかり。

 ハコが暗闇に染まった夜、古びた家屋の縁側にカミサマ、桜は晩酌をしていたところへ僕は赴いた。散っている桜の色は光が点っているみたいだった。

「妹には話したのかい」

 とっくりを口につけて桜は物憂げに問いかけた。

「話してない」

「なら、カミサマの契約の話はなしだ」

 僕は考えたことを一息に、

「僕がカミサマになって、僕のものを妹にあげることはできないんですか」

 僕のものをあげる。

 何もかも。

「僕がカミサマになる」

 妹にあげるために、僕がカミサマになる道筋を立てた。

 システムは思ったよりも寛容で優しい。僕のものをあげる代わりに妹に分け与える契約を施してくれた。桜が未経験なカミサマの成り立ちに、心配になっていはしたが。

 僕はカミサマになった。

 あの夜、僕の左腕を献上し僕はカミサマになった。最初に言い渡された指令で紫と出会い、カミサマ殺しの任務につくことになった。

 紫は知らないが、たびたび僕は記憶が戻っていた。そのたびにやはりカミサマシステムという概念で戻らないように押し込んでいたけれど、桜の香りを引きずりだして記憶が芽吹く。桜の花びらが舞い散るのを契機に、妹のことを思いだし、帰らなければならないと、一旦任務から離れて桜のハコへと戻っていた。

 最初に記憶を思いだしたとき、カミサマになって二年が経過していた。桜のハコへ戻ったら、妹は数年前よりも体が細くなり、右の肩に比重を置き、左の口がつり上がっていた。体の歪さは一層際立つ。ただ僕が上げた左腕はきちんと機能しているようで、システムは上手く僕の腕を彼女の一部として組み込んでいた。他の体が思うように動いていないだけで、僕がカミサマになった意味はあった。

 桜が妹の世話を診ていてくれているおかげで、この二年何があったのか事細か教えてくれた。妹の病状は悪化し、右まで動かなくなっていった。

「体が硬くなるんだ。そこから動かなくなる」

 猫を追って慣れた左腕を駆使し、戯れる妹の姿にそれでもあげてよかったと思える。

「帰ってきてくれて嬉しいが、身体全体の話だから、契約しても……」

 妹を抱えてもちあげると、以前よりも重くなっていた。

「お兄ちゃん、どこ行ってたの?」

「どこにも」

 僕は内緒で彼女の左腕を、機械義肢の腕で触れた。柔らかい腕はまるで本当に妹に生えているようで。握ると彼女は握り返した。ぴくりと動く腕に、言い知れないものがこみ上げた。

 動いている。

 確かに動いているんだ。

 機械義肢の腕を耳元へよせると火山のように脈がうっていた。ごう。ごう、とうごめく妹の生きた腕。反対に右腕は青白く生気が感じられなくなっていた。二年前にあった血管は陶器の肌の向こうに閉じ込められて目にできない。

「桜、もう一度契約する」

 桜は、僕の提案に頭を強く振った。今回記憶が蘇ったことですら異例中の異例であり、カミサマの禁忌に触れることだ。カミサマ殺しをしているカミサマである僕だからこそこの危険は感じ取っている。いつ、妹や僕が殺されるかも分からない。

「それでも、妹の四肢を自由にしてあげたい」

 僕は桜の反対を押し切り、二度目の契約をした。今度は右腕。重くなった四肢に、幻肢痛が深く伴っていく。そのたびに僕の記憶は脆く崩れ去る。簡単に桜の木を思い出し、その下の妹の姿を拝む。

 ──僕には妹がいた。

 何度も通った道のりを辿り、再度僕の故郷であるハコへ。ハコへ帰ったら妹が喜んでくれる。「おかえり」と迎えてくれて、僕のあげた身体が上手くはまっているところを見て、安心する。でも反対に病状は一向に良くはならない。どんどん欠損していく妹にいたたまれなさを抱き、何度も僕は契約をする。妹の病状と僕の四肢の機械化は比例していく。左腕と右腕、上半身が効かなくなったなら、僕は心臓や一部の肌をシステムに献上した。システムはそのたびに僕の願いを叶えてくれた。

 忠実に、左腕を、右腕を、左足を、右足を、耳を、口を、心臓を、眼球を、いくらでもシステムに献上して、妹の身体を再生させていく。

 だけど、僕の身体を妹にあげるにしたがって、妹は不服を僕に示すようになっていった。

「お兄ちゃん、またどこか行くの?」

 僕の機械の腕を掴み、寂しげな声をあげる。

「いかないで」

 ちゃんとした四肢で妹は立ち上がり、ひょこひょこと身体を動かす。今度は臓器が動かなくなっていっているということだから、僕の臓器の一部を契約で差しだし妹に分け与えるつもりだった。

「いらない」

 妹が強く僕の身体を引いた。

「いらないんだよ。お兄ちゃん。こんな身体。私は最初からお兄ちゃんさえいればいいんだよ」

 妹の身体が人形のように崩れ落ちた。桜のカーペットの上で蹲る。猫はもうその姿を見せない。いるのは僕たち二人と、孤独なカミサマ一人だ。

 たった二人の兄妹であるから、僕は妹のことが大切で、妹は兄さえいればいいと思っている。でもその身体のままでは、すぐさま命が潰えてしまう。二人でいることは不可能なんだ。

 なら、僕は彼女の手を振りほどき、

「また帰ってくるよ」

 何度も思い出して帰ったように。

「約束しよう」

 僕は小指を差しだした。

「しない」

「何があっても帰ってくる」

「いらない。お兄ちゃんは、私のいるものが分かってない。なんで、わかんないの」

「帰ってくるから」

「私は、もうこんなに成長してるのに?」

 妹は背筋を伸ばす。女性らしい顔つきに、口紅がぬられており、化粧がうっすらと顔にのっていた。頬が弾けんばかりに大きくなって紅潮していた。その表情一つ、憂いが帯びている。

「最初から、私にはいらなかったのに。どうして一緒にいてくれないの?」

「君のためを思って」

「何もいらないのに」

 悔しそうに妹は僕を抱きしめた。

「いらない。私の欲しいものは最初から全てここにある」

 妹の言葉が上滑りしていく。抱きしめた感覚は薄く、感情も揺れない。彼女の身体の力は、僕の力よりも弱くて今にも消え入りそうだった。通常の人よりも力が弱いのは病気のせいだ。顔がゆがむことがあるのは、表情が固まっているからだ。

 何もかも足りないじゃないか。

「僕は行くよ」

 無理矢理妹を引き剥がし、小指に僕の指の義肢を絡めた。必ず戻ってくる、と言い残し。

 システムに祈る。僕の身体をあげる代わりに妹の身体を楽にしてやってくれ。

 どうしてもこの世界が許せなかった。何もできない僕も許せない。妹がただただ死ぬ様を横で見ているなんてできない。妹のためにあれない、自分も許せなくて。

 最後に妹から離れた時、桜が煙草を吹かせて黄昏れていた景色が頭にこびりついている。彼女の肌はぼろぼろになっており、皺が積み重なっていた。手の平の肌のはりはなくなっていたし、眠そうに目を細める。

「また行くのかい」

 それ、と僕は煙草に指を差した。

「嗜好品さ。君がよく駅を使ってくれるから流通が通るようになってこういうものも手に入るようになった」

 煙たい匂いが桜の木にこびりつき、蛇のように巻き付いていた。赤い下がちろちろとしゃべるたびに覗く。

「あの子の本当に望んだことじゃないだろう」

「人の幸せを願うことの何がいけないんだ」

「幸せを決めつけているだけだろうに。

 例えば、人のために泣くことはいいが、それは君が悲しいと感じているからであって、その本人は悲しく思ってはいないように。

 その人のために喜んでいるように見えて、本当のところは喜んでいるのは自分だ。

 君は、妹の幸せのために動いているのに、結局幸せにしていない。

 あの子は君が君自身の思う幸せのために動いていることなんて、とっくの昔に知っているんだよ」

 煙草の箱底を、とん、と叩き僕へ向けた。白い筒を傍らに。桜の目線に射すくめられる。まるで共犯者として誘っているかのような誘いに、僕も手に取るしかない。白い筒を受け取ると、桜は咥えるんだよ、と僕に見せてくれる。咥えて、四角い箱を取り出し赤い丸がついた小さな木の棒を箱のやすりで擦った。炎が燃え上がる。僕の頬に右手を添えて、桜の方へ向けられる。目の前の咥えた煙草の先から煙がたつ。吸い込んで、と桜が言って、口内に煙草の煙をたくわえた。喉へ、押し込んで、と桜が次にごくりと唾を飲み込むみたいに深く息を吸った。煙が身体の奥底へたまり、喉が焼けるように熱くなる。

 げほげほ。

 思わずむせかえった。

「こんなものなんで吸っているんだ」

 僕はあまりの苦さに目が潤む。

「これが私にとっての幸せだから」

 桜の木は疲れているように萎れていた。絡められた煙で灰をかぶったように。夜の暗闇を全身に受けて、頭をもたげる。

「私は、このハコに残って一人で死ぬことが幸せ。

 君の幸せは?」

 妹が何不自由なく生きること。

 最初に出てきた言葉は、すとんっと、僕の胸の中に落ちて、落ちて、身体から出ていってしまう。


 今は違う。

 妹が幸せであること。

 空と共にいること。

 いつしか本当の空を見たいと思ったこと。

 僕の幸せは、近場にあったのだ。

 僕は誰かの幸せよりも、自分を生きるべきだったのだ。


 だから、届いているか分からないけれど、桜と妹ともに、終わりを見届けるために帰るよ。

 僕は最後を見たくなかったから遠ざけていたけれど、終わりを見届けることだって幸せの一つなんだから。


<about the blue>

 <end>

 <next text>

 <reconciliation>

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