⑫-2 About the Sky
奥に引っ込んでいた紫が、表に顔を出した時には既に涙は引っ込んでいった。ぐしゃぐしゃになったメモ用紙が、地面に落っこちていて言葉が入り乱れている。空と僕は、口を開けたり閉めたりして、声に出さず会話しあった。ここ数ヶ月一緒にいたこともあり、会話は弾む。
紫が僕たちに申し訳なさそうに間にはいり、食パンが入ったバスケットを差し出す。焼きたてのふんわりとしたパンの匂いが三人の間を行き来して、優しい温かさにまみれていく。僕がそっとパンを手に取ると、紫、空、と次々にパンを取り、頬張った。紫が僕の横に座り、なかなか美味しいなあ、とごちた。
「お・か・あ・さ・ん・の・パ・ン」と空は頬袋を作りながら、思い出し笑いをする。
そうだな、そうだな、と紫は三度彼女の笑顔に幸せを顔に痛ませた。
その後に、空が苺ジャムやはちみつと言ったものを持ち出し、食パンにつけて口にする。甘さと食パンの硬い耳や、すっぱさと食パンの柔らかい食感といった具合に上手い具合にハーモニーとなって、すぐに胃に伝ってしまう。海に濡れたからかすっかりお腹をすかしていたみたいだ。
紫が、こうして空の母とはよくここで食べてたんだよ、と僕に笑いながら話す。僕は母親の記憶がないので、物珍しげに聞いていた。おそらく、僕には母も父もいない。記憶が定かではないが、親という概念そのものに違和感がある。
「僕に父がいたら紫みたいな人なのかもな」
冗談で笑いながら言うと、紫が恥ずかしげに僕の頭をかいた。乾いた髪は、このハコに来たときよりも長くなっていたから、すぐに目に髪が落ちてしまう。
陰った視線から空の黒いスカートから伸びた白い足を見つける。艶やかに健康的な足があって、黒いパンプスが足に装着されている。そこハンディはなく、僕と紫の会話で楽しげに跳ねた。
「なあ、紫」
僕が声を落とすと、紫は悟ったように「なんだ」と応えてくれる。
「まずはあんたの本当の名前を聞いた方がいいな」
遅いくらいだ。
「紫じゃないんだろ?」
「もちろん。と言っても、そんなに変わらない。天の紫色を差す、竜胆(りんどう)だ」
「いつか本当の天を見れるときがあるのなら、その色を見れたらいいな」
「まずは空を見たいだろ」
「それもそうか」
ハコをわたっていた頃の会話が思い出される。空なんてあるのか、本当に地上なんていけるのか。ハコの外へ思いを馳せていた。一種の世間話だ。記憶もなければ仕事しかないカミサマにとっての話のネタは、自身のことよりも地上への思いだった。
紫は変わったやつで、人を知りたがっていたが。いろんなハコへ行って、僕にたくさん話しかけた。「年は?」「何か苦手な食べ物とかあるのか?」「このハコ、良いハコだな」
「どれも同じようなハコだろ」
いちいちハコのことやカミサマのことに囚われるカミサマ殺しがいてたまるか。
当時はそう思っていた。きっと空のことを少しでも思い出そうとしていたのだろう。
僕は、言いにくげに食パンを口に詰め込んで、空から口を見せないように逸らした。
「改めてだが、竜胆。空の耳について、聞いていいか。その、ハンディがあったまま、ハコにいるのは珍しくて」
すると、紫は食パンを吐き出しそうになりながら、
「青が他人に興味を持つなんて珍しいな」
それは僕も共通見解だが、紫と同じだ。僕も妹を知りたいと思っているんだ。妹がなぜ、こちら側にきていないのか。紫がこちら側にきて、空がまだ耳をカミサマに献上していない意味を知りたい。
一見して違うことでも、どこかで同じように交わるかもしれない。
それ以上に、
「空のことが知りたいってだけだ」
全てはここに帰着してしまう。
たはは、と笑いながら紫は深く腰を下ろした。食パンをもう一つたいらげて、考え込んだようにハコの天井を見た。いつしか空は、偽りの空へ塗りつぶされている。
いつか見れるよ、と伝えられ幾千年経った。
僕たちは本当の空を知らない。
「まずは、そうだな。俺が本当は機械義肢を持っていないことを言うべきだな」
「機械義肢がない?」耳を疑った。
「心臓にあるとは言われているけれど、本当のところ俺は何一つ欠損していないカミサマなんだ」
食パンにはちみつをべっとりとつけて、空は美味しそうに頬張った。口に詰め込みすぎて、苦しそうにしている。
「俺はさ、空のためにカミサマになろうと思ったんだ」
娘のために。
それは僕の記憶の中でもよく見知った理由だった。
僕は妹のために。
空の背中をさすってやり、紫は心臓に手を当てた。
だが、飛鳥はそこにある機械を見ている。実際紫は飛鳥の手で機械の調整を行っていた。
「ありえない」
そうだろうか、と紫は睫をはためかせる。
「こう考えることもできる。もしかしたら、心臓に記憶を消す装置をシステムが埋め込んでいて、それが機械の心臓に見えたのだとしたら。カミサマは全員共通して機械の心臓を持っていることになる。君の中にも装置が埋まっているかもしれない」
「記憶を司る装置は脳に埋め込むものではないのか」
「心臓にだって記憶を制御する場があるんだよ。心臓を移植した人間が、移植もとの人間と嗜好が似通ってきた例もある。システムが脳ではなく心臓にかかわり、そこから脳へとケーブルをつなぎ、記憶を消していることもありえる。よく言うじゃないか。心はどこにある。心臓(ここ)だ、と」
紫は心臓に手を当て続けている。
「いかんせん、数千年前の、陸にいた人間が作ったカミサマシステムという不完全なシステムだ。これも憶測にすぎないし、俺たちカミサマは、カミサマになった直後のことは記憶にないだろ」
システムの話はこれぐらいでいい、と紫は念頭に置いて、ここからは空の話だ、と区切った。空はようやく食パンをのみ込んで、「み・ず」と席をたった。自身の話をしているとは知らないのに、空気を読み取って行ったかのよう。
空は案外めざとい。
「あの子は昔から耳が聞こえなかった。だから、カミサマになれる年齢になったら、早くから契約をしないかと、あの子のことを思って空の母と相談していた。カミサマになったら不自由もなくなる。記憶はなくなって俺たちの知らないところで育っていくが、あの子が元気に育ってくれればそれでいい」
寂しい判断だと紫は言うが、ハコの親子間ではよくある光景だった。小さい頃からカミサマでいる方が蘇る記憶は少ない。そもそも記憶が蘇っていることすら気づかないから、システムにも有り難い話だ。
だから欠損を抱えた子どもはシステムと契約し、カミサマとなる。
空もそうなる、はずだった。
「契約当日、僕はシステムへと空の手を引き、連れて行った。だが、直前になって空はシステムに耳を献上することを拒絶した」
──いらない。
「そう、はっきり告げたんだ。あの子は自分の耳をそのままでいいと、お父さんは何も分かっていない、と叱りつけた。そこからだ。契約は簡単には止まらない。俺はそのままカミサマシステムに組み込まれた」
心臓のカミサマ。何も接続していないからこそ、システムはカミサマ殺しのカミサマとしてシステムに近い部署に配属したのか。
紫の存在は行方不明になり、たった一人空だけが家に帰った。空の母親は、父親のことを察していたのだろう。知らないのは空だけ。
「あの子には黙っていてくれ。俺たち親子があの子の想いを無碍にしたために起きたすれ違いだ。あの子の想いをくみ取ってやればよかった。ハンディがあったところで、あの子には関係なかったんだよ」
「聞こえなくとも、多分あんたがいれば良かったんだろう」
あの子は神様を探していただけなんだろう。
たった一人の。
そうだな、と紫は空を見上げて、
「空は強い子だ。俺たちが何かをあげる必要なんてなかった。それなのに一人で母親を看取っていった。耳も聞こえず、父親は蒸発していた。空でも、つらかっただろう」
「それは違う」彼女の力強い声が聞こえてきそうだった。「つらいけれど、背負っていくために入水自殺をしたんだ。事実は変わらないけれど、根本的な強さは変わらない」
「それなら、生きてほしかった」
紫の声が震えていた。ぎりぎりと肌が痛む音がして見下げると、紫が手を強く握りしめて大きな拳を作っていた。拳の隙間から赤い雫が滴り落ちる。ベンチに一滴の痛覚が通った。
「それでも、生きてほしかったんだよ。
俺は空の幸せを願っているんだから」
これ以上は、僕は介入できない場所だ。
紫の願いと空の願いや想いは、得てして一緒になることなんてない。祈りも願いも一方的なものなのかもしれない。それならば仲違いすることも、ありえないことでもない。 祈りも願いも一方通行だ。
エゴでしかない。
心配事もつらいことも醜いことも、背負っている本人にとっては健やかなことでも、周囲の人間はそうではない。
空との会話はハンディもあって難しいけれど、
「僕が言うのもなんだけど、いなくなっていたときの分、たくさん話せばいい。僕にやったみたいに。紫なら、できるだろ」
「そのつもりだよ。いつか、妻の話も、俺がカミサマになった理由も空に話すつもりだ」
僕たちの中にある心臓がどく、どく、と動き出す。こく、こく、と空に赤みが差してきて、潮風が赤いタイルの道を吹きすぎる。海のあるハコに血液が通るように、世界が映えていく。
後ろの方でパン屋のおばさんと、空がパンの追加の話をしていた。シナモンロール焼く? 食パンはもうたくさん? クロワッサンあるけど……ときていたので、僕たちはもうお腹いっぱいです、と笑い混じりに断りをいれた。
「どれも、妻が好きだったものだ」
紫はパン屋のおばさんに、照れながら話すのだ。妻の最後は、と。積もる話を紫はオープンテントの中に入り、空と話す。
病気を患って長かったけれど、元気なパン焼くときや仕事に出ていたときは明るく見せる人だった、と思い出話を咲かせ出した。空も熱心に目を傾ける。
僕は、彼らの前からそっと姿を消した。
赤いタイルを辿り中心街に足を向けて、黒いタイルの広場へと顔を出す。傘の屋根は閉じつつあった。赤、青、白、紫、と黄色の傘が僕が通るにつれて閉じていき、広場の市場の市場テントを横目に、コンサート会場にぽつんと置いてあるピアノを目に焼き付ける。
白の死体はなく、彼が座っていたところには赤いしぶきが飛び散っていた。白い鍵盤は赤に塗れっていて、黒いタイルには清掃が追いついておらず、赤錆がこびりついている。
グラウンドピアノの扉を押し上げる。
中から一斉に紙が吹き上がった。
潮風にゆられて、ひら、ひら、と。白い紙が舞い散る。黒いピアノ、黒いタイルに白い雪のように浸透していき、僕の周辺に舞い散る。
一枚一枚拾い上げると、引き継ぎ書の様式を呈していた。『白から青へ』
最初の文面と大量の資料から、何日もかけて用意していたものだと分かる。ここに僕が戻ることを知っていたように。
僕は大切に拾い上げて、腰に挟み、白が持ってきてくれた清掃用の液体が入ったバケツを持ってきて、血液を洗い落とす。一滴一滴白だった痕跡を。
引き継ぎ書だけは確かにここに秘めて。
システムがするのは、死体の処理だけだ。システム自体が人を殺すことはしない。生み出すことしかシステムは権限を与えられていない。それは徹底されていた。
死体を片付けるのはシステムで、後処理をするのはいつだってカミサマだ。
欠損を補うかわりに、ハコの治安や処理を行う。
ではカミサマの死体は?
液体にして骨壺に遺体の一部を入れる文化はあるのは知っているが、カミサマがそれをされるところは見たことがない。カミサマは人知れず死んでそこで終わりだ。
カミサマシステムはなぜ存在しているのだろうか。
システムはなぜ血をかぶらないようにできているのだろうか。
僕はバケツを持ち運びながら夜の潮風を全身で浴びて、空の家に戻る。僕はまだカミサマだから、ハコの処理を行う。治安の維持に努める。ハコは優しくカミサマを無買い入れる。
四角い明かりがハコの家々に点っていく。目の端で捉えながら、こつ、こつ、と。まだ息づいているハコに、ピアノの音が紛れ込む。
ここは『海のあるハコ』でもあれば、『ピアノのあるハコ』でもあったのかもしれない。腰に抱えた引き継ぎ書の重さを確かめながら、空を見上げる。
なぜカミサマは空を見てしまうのだろうか。
冗談交じりでも、空のことを気にしてしまう。
見上げすぎて首が痛くなる。目の前の道を辿っていくと、そこは空の家だった。ちかちかと人影が過る。空の長い髪が影となってきて、次に背が高いが猫背気味な紫の影が外窓から覗く。
家の扉を開けて中に入ると、空が、どこ行ってたの? と大きな声をだして僕に抱きついてきた。
「探してたんだ。『Haibane』から姿を消したものだから、また海に身をなげてるんじゃないかとか」
ぎゅっと、僕の体を確かめる空に僕は抱き返して、
「もう何も言わずにどこにも行かない」
白の後処理をしていたんだ、と付け加えて言葉に痛みが伴う。死体はなかったし、ピアノはそのままだった。ハコの清掃だけした。僕はこのハコのことなんて何も知らないから、できることなんてこれくらいしかない。
あとは、引き継ぎ書だ。これは僕よりもふさわしいハコの管理者であるカミサマにわたすべきだ。
僕は空を離して、自身の荷物の場所まで歩き出し、指令書を引っ張った。〈white_91〉についての詳細なことから白のこと、このハコの気候について、治安や人々のリスト、あまりに情報が多すぎる。指令は数個あって、白が申請したものが大半だ。情報が多いのはこのハコで次のカミサマがくるまで長期滞在するためのもの。僕がハコの管理者となることを示していた。
もし、次の管理者が来なかったら。
このハコは、僕のハコになり、空といつまでも一緒にいれるかもしれない。
だけれど、僕にはある約束があった。
──お兄ちゃん、帰ってきてね。
忘れていた記憶の一つをすくい取り、手にしていた指令書を破いた。びりびりと星くずのようにその場に落ちていく。
システムからの指令も、このハコの情報も、カミサマである僕には必要がない。これから知っていくのに書類はいらない。
「空、竜胆」息をついて、
「僕のことについて言わなきゃならないことがある」
僕の記憶の葉脈は端から端まで冴えわたっていた。
<about the sky>
<end>
<next text>
<about the blue>
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