⑫-1 About the Sky

<This text>

 <about the sky>


 こんなことをしていていいのか。

 僕が海へ妹を探しに行ってしまって、空と紫が止めに入ってくれたために、三人とも潮水で濡れてしまっていた。

 唇を舐めとると、塩辛い味が染み渡る。空の髪はぺっとりと背中にはり付き、抱きかかえた骨壺にも水が沁みてきそうだった。紫の上着で空の体は冷えないようにしたが、僕と紫は素っ裸で歩く羽目になった。特に僕は機械義肢があるため、接続部分から冷えてたまらない。最初空と会ったときはそう感じなかったが、今は機械の機微があのときよりも鮮明で一層冷えが際立つ。

 空の家にすぐに帰ろうとしていたが、それよりもパン屋の方が近いため、そちらによることにした。紫が道をよく知っているため、近道を案内する。距離的にもパン屋『Haibane』は家よりも近いんだよ、と手慣れた動作で案内をしてくれた。入り組んだ赤いタイルの道を歩む。靴を海に忘れていることを見つけて、最初に空と歩んだ道のりを思い出してしまう。

 かっぽ、かっぽ。

 こん、こん。

 と、僕の革靴と義肢の音がタイルを叩いていた。

 こつ、こつ。

 今度はそこに加えて、紫の足音がする。

 三人で『Haibane』に行くなんて夢みたいに思えてきた。紫とはもう二度と会えないと思っていたから。

 パン屋に辿り着くと、パン屋のおばさんがオープンテントをはっているところだった。今日は昼過ぎからオープンするとは聞いていた。もうそんな時間らしい。

「お久しぶりです」

 紫が挨拶すると、パン屋のおばさんは焦げ茶色のくるくるの巻き髪を大きくたゆませて、どこ行ってたのあなた、と非難まじりに紫を糾弾する。そして三人の顔ぶれを確認した。何か言いたげなパン屋のおばさんに、行水してたらこんなことになってしまったので、体を乾かせてもらえないか、と紫が有無を言わさずに提案してきたのでパン屋のおばさんは何も言うことができずに、パン屋でタオルを分けてもらえることになった。

「奥でパンを焼いているから、ついでに受け取っておくれ」

 パン屋のおばさんは、紫を連れていってしまう。

 僕と空は店頭に置いてあるベンチで二人で待たされることになってしまった。タオルで濡れそぼった髪をがしがしとかいて、水を拭っていく。僕と空の間にはメモ用紙とペンが転がされていて、パン屋での気遣いや、働いて長いことになっていたことを悟った。

『お母さんの思い出が残っているここはもうつらくない?』

 僕は彼女に聞きたいことがたくさんあった。

『つらいよ。でも、このつらさだって、悪いものではないから』

『慣れたから?』

『そうかもしれない。『Haibane』で働いてからもう随分長くなるし、働くのも慣れたかもしれない』

 彼女は僕の言葉に真摯に受け取る。ペンを動かして、顔を見上げ、ペンを受け取る。ふと見上げると顔がすぐ傍にある。一緒の紙に幼い子らが落書きするみたいだった。目線が合って彼女は微笑む。僕の表情もほどけていく。

『お母さんのことをたくさんおばさんに聞くの。たまにわたしの動作とお母さんの動作が重なったり。お母さんが私のことを言っていたよって。そうしたらね、私の知らないお母さんが私の中で降り積もる。たまにつらくなるけれど』

『引きずっていることにならない?』

『引きずっているんじゃないよ。

 背負って生きることにしたんだ。

 お母さんのこと簡単に忘れられるわけないじゃない。つらいこともたくさんある。最初の頃は忘れられないから、一緒に死のうと思っていたんだ。忘れてしまうくらいなら、全部背負って死ぬ。でも、そこに来たのが青だった』

 僕はペンを受け取って、あの日のことを思い出す。何もない空っぽの空を立たせることなんて僕にはできなかった。薄情者とすら罵られたのに。

『僕のこと怒っていないの』

『まだ怒ってる』

『君のことを決めつけたり、無理矢理立たせたり、今思えば邪魔だったろ』

『でも、あなたは傍にいて私を、私の中のお母さんを生かしてくれた事実に変わりはないから。まるごと死ぬことじゃなくて、生かすことをしてくれた。

 たとえそれが、父を殺すための道具であったとしても』

 僕は、すかさず体を持ち上げた。機械の義肢が一斉に動き、空から遠のく。

 ──知ってたんだ。

『白を殺したの?』

 空は変わらず筆談を続ける。眉をひそませて、口元をゆがませる。答え続けることに胸が痛む。

 僕は空が僕へと視線を合わせるのを待った。それまで自身の中で心を落ち着ける。ようやく空は僕を見上げる。頭に置いてあったタオルが落ちていく。垂れ幕が下がり幕間のように、影が差す。

「殺したよ」

 僕は僕の口から、その事実を告げた。

 彼女に言わなければならないことがたくさんあった。一気に芽吹いた桜の花びらのように、細部にわたるまで。彼女なら僕は言える。

『僕はカミサマを殺すカミサマとしてシステムの中で存在しているんだ。記憶が蘇ったカミサマを、殺して回っている。君の父もそうだった』

 僕は紫が言わない言い訳を彼女に注いだ。

 僕が出会った紫という人物。いろんなハコでの出来事。白には言わなかったハコをわたる旅のことも、そしてそこでいろんなカミサマを紫とともに殺して回っていたことも。

 ──ハコのための均衡を。

 最初は空だって紫を殺すためにいたんだ。

 言い訳だった、全部。僕は彼女の傍にいたいと、出会った時から思っていたから、これすらも全て言い訳。

 紫は、君に会うためにカミサマをやめた。そして今、再び出会えた。

『いずれ、父を殺すの?』

 僕は彼女の切実な言葉にやられる。

『分からない』

 殺せなかった。

 本当は殺さなきゃならない。

『システムのために白を殺したのに』空が手早く筆を動かす。『もしかして、私のことを想って殺せないの?』

『本当に分からないんだ』

 こんな気持ち初めてで。

『今は、僕の記憶を思い出したいと思っている。君のこともそうだけど。もっと気持ちを思い出したい。君のように背負いたい。カミサマってやつは何にもないやつらのことだけど、奥底に何もないわけではないから。

 ありがとう。僕はようやく僕を生きられる』

 空が、もし、と声を漏らしていた。

『もし、私のためにあなたは生きようとしていたのなら。もし、私のために殺さないのなら。

 あなたは、』

 僕の手をおもむろに握る。怒りなんて感じない。柔らかく慈しみに溢れていた。

「優しい神様ね」

 僕の視界がぶれた。

 そんなことはない。

 だって、僕は白を。

『だから、あなたの優しさはあなに向けてほしい。私はあなたの優しさを十分受けたから、あなたはあなたを生きてほしい。あなたが生きられるために、私も生きたい。誰かのためじゃなく、優しいあなたのために。

 私は祈り願いたい』

 空と初めて会ったとき、骨壺を額に当てて誰かに祈っていた。彼女は、死のうとしていたとき何かに祈っていた。その先に何もなくても。

 確かな願いなのだ。

 誰かが自分のために生きてほしい。

 僕も祈っていた。

 傷ついていたとしても、記憶を引きずって背負い込んでも、二本の足で立って、優しく強い人であってほしい。 僕は祈っていたのかも知れない。彼女に生きてほしい。そのために彼女のために何かをしたい。

 システムに祈って、僕は殺したけれど。違うんだ。システムではなく自分に祈るべきだった。自分に願うべきだった。

『優しい優しい神様。

 私も優しいあなたのことを知りたい』

 白い肌に黒い色の喪服が映えている。

 それは彼女なりの祈りの制服なんだろう。

 忘れないための。

 背負い込むための。

『コンサートの時、私、決めたの。

 もう大丈夫。

 だから、いらない。

 つらいことも、苦しいことも、悲しいことも、卑しいことも、醜いことも、全部捨てない。

 死なせない。

 青、お礼を言うのは私の方。

 あの時、私を助けてくれてありがとう。

 私の神様でいてくれてありがとう。

 私の傍にいてくれてありがとう。

 もう、いらないの。

 もう大丈夫。

 十分なんだよ。

 私の神様、今度はあなたのために祈らせて』

 今度は僕がペンを受け取る番だったけれど、力が入らなかった。義肢が上手く動かない。手元にある紙を握りしめる。くしゃくしゃになった紙の上に、ぽつ、ぽつ、と雨のような雫が落ちていく。彼女の言葉が僕の中でふやけていった。にじんでいく。

 僕は僕を生きていいのかもしれない。

 システムの感情をぬきにして、カミサマでなくとも。

「君の神様でいていい?」

 空は僕を抱きしめて。

「私の神様」

 血まみれの機械義肢が涙で汚れが落ちていく。

「あなたを生きて」

 祈りを注がれた僕の脳内に妹の幻影が過った。

 ──いらない。お兄ちゃんのために生きてよ。

 これは、僕ための祈りの言葉。

 拒絶ではなく。

 君たちの愛の言葉。

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