⑩ Purple Bargaining
<This text>
<purple bargaining>
佇む影に背筋がのけぞる。朝日がひょろりと長い影を伸ばし、空の背中へ差していた。僕はその影を払うように、影の主を睨みつけた。空をもっと強く抱きしめて振り返らせないように。
影の背景にあるハコの朝焼けは、茜と橙のグラデーションを受けて徐々に青をにじませ紫が浸される。天井の星が涙のように流れた。そうしてハコの海へ落ちていく。僕の涙は乾き、海へとふり落とされた。僕の先に赤いタイルの道は続き、海へと繋がっている。背後から追い風が通る。
「紫、僕が誰だか覚えているか」
たなびく風に空の髪が不自然に揺れる。髪先には紫。光は僕らの背後にあり、紫から見たら逆光になっている。僕の姿を目を慣らしようやく気づき、足を腰を引かした。僕もその頃になると、落ち着きを払い、紫の姿を認められた。質素なニットにジーパン。頭は白髪が数本見え、ぼろぼろの肌を持っていた。
息が荒い。ここまで走ってきたのかもしれない。
「……青」
紫はそれでも引かなかった。しっかりと僕を見据えて、目線を僕へと合わせる。
「追っては僕だ」
だが、既に僕の刃はさびていた。さっぱり紫を殺す気にはならない。空を紫に合わせたくないばかりに、腕の中にある桜の匂いを強く抱きしめてしまう。
「冗談だろ。俺を殺せるのか」
僕はゆるやかに、紫の言葉を心に溶解させた。甘やかな桜の匂いが糸を僕の腕を解いていく。
肩で息をしていた紫がゆるりと肩を落としていく。息を整えて。返って僕は紫に弱みを握られたかのよう。肩が上がり、心臓の鼓動が速くなっていく。
「殺すさ」
僕は空の首を震える腕で巻き付けていく。人質にとりさえすれば、大人しく紫だって殺されてくれる。
本来はそうするための、紫の娘だ。
システムからの指令書は彼の娘を使うことだけ念頭に置き、情報が記載されていた。彼女の娘の顔、素性、どこに住んでいるか。耳のことまでは書かれていなかったのは、システムの理解の及ばぬところであったからか。
僕は彼女の耳が聞こえなかったことに感謝しつつ、
「動くな、今動けば、娘を殺す」
紫は踏みとどまる。背後の天井がじりじりと明るくなっていく。まるで朝日が上ったような、明るいハコへと変貌していく。
これまでやってきたことをしているだけ。
僕はシステムの指令書を諳んじる。
紫を殺せ。
システムから外れたカミサマを殺せ。
ハグレモノを殺せ。
さび付いたナイフをもう一度研げ。
「どうした、いつものお前ならもう殺してるんじゃないのか」
周囲はすっかり昼間のように明るくなっていた。機械義肢は動かない。動かす気力がない。
「ど・い・て」
対して腕の中の空が僕を柔らかく拒絶し、動き出した。僕は何もできず、彼女の意思のままに。僕は制止することもできなかった。
「だぇと話ひてる、の?」
彼女の頭が紫の方へ振り返ることすらも、止められない。
「空」
紫が呼びかける。
空は瞬時に飛び上がり、紫へと駆け寄った。
「おとうさん」
桜の匂いが過ぎ去る。
僕から消えた桜を追い求めて手が勝手に上がった。視界に機械の腕が捉えた。鈍痛をはらみ始める。僕の足は上がらない。
目の前で起きている、親子の再会を止めるなんて、僕にはできなかった。
彼女が満面の笑みで父を捉えた。紫は、僕のことなんて気にとめず空へ。空も紫を抱きしめた。
システムからすれば、この再会はさせてはいけないものだった。僕はカミサマだから、あってはならないことをしているのも分かっている。けれど、さきほどまで喉につっかえていた胸のつっかえがなぜか軽くなっていた。
近くの家の壁に背中を預けてずり下がる。機械の腕で顔を埋めて、赤タイルをじっと見下げる。まっ赤になった血管のようにハコのあちこちへと繋がる道に身を沈めて、システムの一部になりたかった。
「僕は、カミサマになりきれない」
こんなに機械義肢を持っていようと、感情や記憶は規定されない。システムは完璧ではない。
華々しく咲く記憶の数々に身を浸し、僕はシステムと乖離する。これまでシステムに刻んでいた日記は廃棄し、自身の頭の中に記憶を刻む。
「僕もシステムから外れてしまった」
血まみれの機械義肢を持ち上げる。赤い血液は凝固し、かぴかぴに乾いていた。片手でこすると、機械が削られる音がする。赤いタイルの上に赤い血液の粉が舞い散った。僕の服まで白の血一緒に染め上げられていて、立ち上がる気力をそぐ。
紫が空が手で示しているのを、うんうんと頷き、会話をしていた。僕のときよりも滑らかに会話がなりたっていた。僕が眺めているのを悟った紫は、
「これからどうする気だ?」
空を傍らに、僕へ近づく。僕はそっぽを向いて、海に目を細めた。海風が僕を呼んでいた。あそこに僕の足を沈めてしまえば、空よりも早く溺れることができるだろう。機械の義肢を必要以上に持っている僕は金槌だから。
──お兄ちゃん、金槌。
いいや、この四肢を持たずとも金槌と言われていたみたいだ。
未だ記憶と現実の境目がおぼろげだ。思い出し笑いみったいなことをしてしまう。紫と空を見上げて、安堵していることもあり、ふっと笑いつつ。
「どこかに行くあてはないよ」
行く理由もまだ持ち合わせてはいなかった。記憶が定着するまで、まだかかりそうではあったので、僕も紫みたいに記憶を完全に思い出せば会いたい人がでてくるかもしれない。
本当は目を背けていただけだが、頭の中でいつも僕を揺るがせてくる『妹』の存在に気にかけていないわけではなかった。
妹の言葉は思い出すが、その全身を思い出してはいない。あるいは、この部分を突き詰めていけばいいのかもしれないが。やっていることは僕が殺してきたやつらと同じだ。
「どうしたらいい」
僕は、わからない。
行く当てもない根無し草状態に、ひどく不安を感じてしまう。
四肢を義肢に変えた直後の、記憶がない状態を思い出す。あのときはシステムとのアクセスは分かるが、何をすればいいのか分からず、動揺していた。
なりたてほやほやのカミサマは、システムからの指令だけが頼りだ。だから、システムへ多大に依存してしまう。僕はそこで、紫に出会った。カミサマ殺しは普通二人組で行われる。僕の相方は紫であった。殺しを行うからなぜか記憶の復帰が多いのがカミサマ殺しのカミサマであるので、相方が落ちてしまえばもう片方の相方が殺すことになっていた。
僕は殺せなかったが。
「このハコのカミサマに許可をとれるなら、しばらく任務の内容を隠していれるんじゃないか」と紫が知ったような口ぶりをする。
「いないよ」
「確か、このハコのカミサマは白って言ってまだ小さな少年だった気がするんだが」
「もういないよ」
僕は壁に背中を沿わせながら立ち上がった。黒くなった血は服に糊のように染みついていた。これ全部が白の返り血だなんて思えなかった。僕が殺して軽々しくなっている指令書の数を思いやる。
「もういないんだ」
黒くなった血液をあまさずに、空と紫にケラケラと見せびらかす。紫が悪い予感を受け取って、
「まさか」
「次のカミサマが来るまでは、僕が臨時のカミサマだ」
ふらぁっと、幽霊が漂っているように。
「だが、このハコにいる理由なんて僕にはない。カミサマ殺しであったはずなのに、紫を殺せなかった時点で僕はシステムから逸脱してしまった」
今更になってどうして白を殺してしまったのだろうか、と思考を追いやってしまう。あまりにも自分の中の考えがまとまらず、笑いしか零れない。
「どこにもいけないのなら、」紫がまた僕に近づく。「一緒に住もう」
「それこそ冗談だろ。お前の寝首をかくかもしれない。僕は未だにお前の命を狙っているんだぞ。お前みたいにシステムから完全に離れたわけじゃない」
「それでもいい」
「空はどうなんだ」
僕は触覚の方向を空へ向けた。
「彼女は聞こえていない」
カミサマ殺しはおろか、白がいないことも知らない。
「そんなこといいのか」
紫と僕だけ知っている。空は知らずに。誠実さを欠けている。紫のことだって、僕が紫の命を狙っていることだって、自分が利用されていることだって、全部彼女を利用していることだって。気づいているんだろうか。「いらない」という一言で気づきは垣間見えてはいたが、事実自体は知らないのではないか。
この血は誰の者か、僕がさっき狂って彼女にしてあげたいと一方的になじった理由は知らず、僕はこれから紫を殺すまで共に住む。
表面的な幸せ。
彼女のための幸せを演出するのだ。
「それでいいのか?」
機械ではない重い人間的な重さのある頭を抱えた。もたげた頭に、「いけない」と罪悪感が過っては、紫の甘言になびきそうになる自分がいる。踏みとどまるために唇を噛む。
「僕はカミサマ殺しだ。紫、お前の殺しを延期するだけ。僕のスタンスはそういうことになる」
「俺だって、そっち側だったし青よりは長かった。システムに逆らうこと自体重いことだって分かっている。だから、青はそれでいいんだよ」
「相変わらずのお人好しだな」
「空も喜ぶ」
紫の手がさっきよりも長く伸びている気がした。僕の体にまとわりつき、ぐるぐると蛇のようにとぐろを巻く。美味しそうなりんごが実っていたら食べたくなるのは必然だろう。
僕だって既に記憶が脳内で開花しているのだから。
まとわりついた紫の手を握り返して、立ち上がった。空が、ふんわりと微笑みかける。彼女の匂いが漂ってくる。
この匂いは桜の匂い。僕の記憶の中でも最前線にくる匂い。僕のハコ『桜のハコ』の思い出が蘇ってくる。彼女に触れるたびに、噴き出しそうになる想いは過去と彼女への好意だ。彼女は僕の妹に似ていた。
思い出さなければならない。
カミサマの禁忌であろうと。
僕を生きるために必要なものだ。
「じゃあ、帰ろうか」
僕たちは三人で家へ向かう。
紫が先頭で、僕たちは後ろ。紫の足取りは赤いタイルを軽やか彩っていた。
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