十二月七日 おやすみ 壱
今日は空木と約束した休みの日だ。使いを頼まれた杏は急いでいた。
勝手知ったる裏口から裏庭を抜け、本条家の厨房の勝手口を叩く。
「ごめんください。鈴美屋です。お届け物です」
杏が早口で言えば、閉じた扉の向こうから、入っていいぞと言葉を投げかけられた。
扉を開ければ、ぶわりと甘い香りが広がる。ほのかではあるが
「アン、ご苦労」
勝手口まで克哉が出迎えてくれた。本条家の御曹司がするようなことではないが、父親でもある家長がいない時はよくあることだ。今日も異国の菓子を作っているのだろう。杏もおこぼれをもらうので、その菓子の美味しさを知っていた。餌付けられていると言っても過言ではない。
使いの煎餅を押し付けた杏はすぐに礼をする。
珍しいものを見たと目を丸くした克哉は小首を傾げた。
「今日は食べていかないのか?」
杏は釣り餌にひっかかるまいと首を振り、踵を返す。
克哉はますます驚いて目を瞬かせる。
「出来立てだぞ」
杏は反応せずに一歩踏み出した。
「クリスマスプティング。酒と香辛料を控えて作ってみたんだ。アンズの干し果も入れた。どうだ、食いたいだろう」
杏の好物はアンズだ。共食いしてるとからかわれた時は兄と辰次が鬼のような形相で黙らせていた。正義感が強い性分らしい。
まんまと克哉の口車にのせられた杏はしぶしぶといった様子で、厨房に足を踏み入れた。
杏が待つ間もなく、てるてる坊主みたいな塊が出てきた。湯気の上がるそれから、慎重に布がはぎ取られ、現れたのはゆで玉子のようなつるりとしたもの。
杏は胸の高鳴りを感じながら、柔らかい生地を糸で切る様を見守った。
ところどころ上手く切り分けられなかった干し果がこぼれたり、橙や黄色、茶色の顔を見せている。砂浜に色付いた貝が散らばっているようだ。
克哉が一切れを手で取り、口に放り込む。杏もそれにならった。
もっちりとした食感は蒸し饅頭の生地よりもぎゅっとつまっている。やわらかい干し果を噛み締めれば、甘味が広がり、わずかな苦味と共にコクが後を追いかける。でも、何故か味気ないと思うのは、酒や香辛料が入っていないせいだろうか。
正解のわからない杏は克哉を見た。難しい顔で口の中のものを舌に馴染ませているようだ。
「いまひとつ、だよなぁ」
不満そうな顔でぼやいた克哉は杏に無言で聞いてきた。
杏は言う勇気が持てずに視線を泳がす。
「ほら、何でもいい。言ってみろ」
そう言った克哉はいつまでも待っている。無遠慮だが辛抱強いので、杏は根負けした。
「す、すっぱい、味が、あったら、もっと、た、食べ、ややすくなると、思い、ます」
緊張で震える声に顔をしかめることなく、ふむと克哉は唸った。口角は上がっている。何事か呟き始め、もう一切れを咀嚼した。
胸を撫で下ろした杏は、言いたいことがあったと思い出す。空木が店に来ることばかり気がかりで忘れていた。作業を始めた背になかなか声をかけることができずに幾ばくか時間が過ぎる。
材料を取ろうとした克哉が振り返り、不思議そうに口を開く。
「なんだ、アン。吐くのを我慢しているような顔をして」
クリスマスプティングはきちんと腹に収めてある。そんな顔をしたつもりのない杏は、じとりと克哉を睨み付けた。あまり心配してなさそうな顔に突き当たる。
「明日、缶けりを、します」
杏は胸を張って言うつもりでいたが、妙に情けない気持ちで報告する形となった。それもこれも、変な顔と言われたからだ。
仏頂面の杏とは反対に、克哉は歯を見せて笑う。
「そうか、楽しんでこい」
頭を撫でられた杏が家に戻ると、空木は帰った後だった。お使い、頑張ってくださいね、という言葉を残して帰って行ったらしい。
杏は泣きたい気持ちを我慢して、帳面に向かった。
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