十一月三〇日 はじまり 下
「か、缶、けりも……し、したことが、ないの、かって」
何度もつっかえたり
穏やかに優しくと念じる空木の心情など露知らず、杏は目をきょろきょろとさせていた。まだ、何か言いたそうに口をまごつかせている。
「どうして、そんなことを言われたのですか?」
誰がと聞きたい気持ちを抑えて、空木はそう問うた。
目を真ん丸にした杏は大きく瞬きをした後、口を一文字に結ぶ。こぼれ落ちそうな瞳ににじむのは焦りと困惑だ。
空木は打つ手を間違えた、と言葉を変える。
「おはなしの練習をしましょう」
その言葉を聞いた杏は青ざめた。
今にも逃げ出しそうな生徒を空木の言葉が慌てて止める。
「おはなし、と言っても手紙からですよ。皆、連絡帳に書いているでしょう」
半身を返していた杏は振り返り、目だけで問うてくる。
興味が引けたことに空木は息をついた。改めた声音でゆっくりと諭すように説明していく。
「先生が質問するので、鈴宮さんはそれに答えてください。お帳面を出してもらえますか?」
空木の言葉に杏は素直に従った。肩から下げた鞄から連絡帳を差し出す。
受け取った空木は新しい項に質問を書き連ねた。
「どうして、缶けりもしたことがないのか、と言われたのか。誰が言ったのか。最初はこんなものにしましょうか」
帳面を開いたまま、空木は杏に返した。書いたばかりの字の横の空白を指差す。
「文字を書くことなら、ゆっくりとできるでしょう? 言いたいことが言えなくても、書くことならできるかもしれません」
先生とおはなしの練習をしませんか、と優しい声が杏にかけられる。
杏は帳面を見つめ、先生を見つめ、帳面を見ながら、頑張ります、と小さな声で答えた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます