十二月二十四日 聖夜祭―克哉
克哉は腕が痛くて痛くて仕方がなかった。しかし、それと同時に絶対に驚かせると確信していた。使用人と一緒になって、教頭と名乗った初老の男についていく。
事の始まりは日曜日までさかのぼる。その日の午前中は杏とカスタードプティングを作る約束をしていた。
朝、調理器具を準備している克哉の元に贔屓にしている八百屋が転がり込んできた。たまにかぼちゃの数を間違えたりするが、新鮮なものを美味しい状態でが信条の熱い男だ。ねじり鉢巻きがずれたまま、親戚の仕出し屋で腹を壊した者が多数出て、にっちもさっちもいかないという。頼る者もいないから、手伝ってほしいと言われた。
約束があるからと断る内容ではない。困った時はお互い様だ。
八百屋と入れ替わるようにして来た杏に克哉は頭を下げた。
「克哉さまは、悪くない……ので、謝らなくて、いいです」
非難の目を向けられるかと思っていた克哉に返ってきたのはそんな言葉だ。てっきり克哉は杏を悲しませると思っていた。
克哉の予想とは裏腹に、杏は残念がってはいるが、仕様がないという顔をしている。
杏は、謝ることなんてないから、何かと思いましたと呟いていた。
確かに、謝ることがないが、謝ることがあっただろうかと克哉は頭をひねる。心当たりが一欠片も見つからなかった。
「行かなくて、いいんですか?」
杏の言葉で我に返った克哉は、恩に着ると屋敷を飛び出した。
日、月と目まぐるしく働いて、問題が起きたのは火曜日だ。つまり、昨日である。
卵がニ百個、入ってきた。料理長は青い顔をして、間違えて注文したものは目を見開いたまま固まってしまった。
仕出し屋は注文を受けてから、その日に合わせて料理を作る。あいにく、卵焼きも茶碗蒸しも両の手で間に合うほどの注文しか受けていない。大々的な宴会の予定もない。
いつも世話になっていると出すには値が張りすぎる。
何か良策はないかと克哉は考えを巡らせた。要は無駄にしなければいい、買い取ってもらうか、売り払うか。卵をニ百個も買えるような資産家は限られている。買えそうな家を頭の中で数えて、はたりと止まった。
簡単なことを難しく考えなくていいじゃないか。本条家が買えばいい――そう、本条克哉は思い付いた。克哉自身、小遣い稼ぎに翻訳の下請けもしたので金もある。だが、あくまで名義は本条家にするのだ。今からすることで恩を着させて、菓子作りにいい顔をしない父の口を出しにくくしてやる。
したり顔の克哉は卵を買うと手を上げた。
次の日の水曜日はもう手伝いに行かなくてよくなったので、学校に使いを出し、早速作業に取りかかった。
昨日、仕込んでおいた卵液を取り出す。昨夜はよく冷えていたので、寸胴の鍋を持ち上げれば、ひやりと冷たさが伝わった。卵を割りいれ、泡立て器で白身と黄身が塊がなくなるまでかき混ぜたものだ。砂糖と、バニラビーンズを入れて人肌程度にあたためた牛乳を入れ、菜の花と白の間、クリーム色だ。
満足げに笑った克哉は腕まくりをして、砂糖と水を入れた小鍋を火にかけた。ここからは時間との勝負だ。十分の一秒でも狂えば、カラメルはカラメルではないと師匠は豪語していた。色、香りを見極め、火から外す。鍋の熱でまだ色の濃さが進むのを水を加えて止めた。満足はできないが、これが今の自分の精一杯だろう。完璧にはまだまだ先は長いと項垂れながら、ケーキの型に流し込んだ。いくつか繰り返し、茶色の円が五つ、同色の四角が五つ、それから仕出し屋にありったけ借りてきた茶碗蒸し茶碗の分もできた。数えてはいないが、茶碗蒸し茶碗は本条のものも合わせて、百は超えている。
卵液の分離した上澄みと下に沈んだ淀みをかき混ぜ、それぞれの型に流し込む。急いで
完成した物をたずさえ学校につけば、太陽は真上だ。昼の時間に間に合った。すれ違う生徒は甘い香りに目を瞬いている。
克哉は職員室で振る舞い方を教えた後、三年の教室を請け負うことにした。組までは覚えていないが、杏は三年生だったはずだ。
一組、二組と給仕をしてやれば、我先にと手がのびる。先生が生徒の興奮を抑えるのに必死だ。克哉は苦笑して、最後の教室で杏を見つけた。
予想通り、目を白黒させる少女に、克哉は笑いを噛みしめて包丁を構える。包丁のは刃のない方で型にそうようにして側面に切り込みを入れた。切り分けて配れば、いくつもの双眸が輝いている。
「メリークリスマス! 諸君、カスタードプディングはご存知かな?」
克哉は本場仕込みの発音で、にっこりと笑った。
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