劣等感
第17話
不幸中の幸いか、さほど深く刺さった訳ではなかったため、わずかに血がにじみ出ただけの軽傷であったが、むしろインパクトを受けたのはこちらの方で、物事の秘めたる場所に近づけば近づくほどに、どんどん僕は自分を見失いだしていた。
自分を温厚とまでは言わないが、まさかとっさにペンを持ち、それで抵抗するなど。
こちらに非が無いなどと、どの口が言えるだろうか。
「ごめんなさい、僕………」
当然ながら先生の申し出『血のサイン』を断る冷静さは保っていたが、その反面、ろれつまで怪しくなってきており、いよいよ過去が現実に近づきだしている、いいや、無理に過去を引き寄せた代償というものを実感していた。沙紀先輩には顔向けできない。
それどころか、結城先生、沙紀先輩、そして椎名。この三人の誰に対して、いけしゃあしゃあと僕がそれまでと同じ面構えで会えるというのか。軽薄な日常に背を向けた途端、残酷な真実と直面するなんて、まるで映画のキャッチコピーさながらじゃないか。
「まさか思い出したの?」
アドレナリンがまるで車内に昇華して充満しているのか、先生は流血だけで、痛みを認識したいないのかもしれない。だけども気は互いに張っているからか、一言一言が耳に残る。まさか。まさかというのはそのまさか、という言い回しがあるが、つまるところ、さきほど尋ねた事柄――僕を轢いたか否か――を言っている気がする。
「本当にうっすらと」
これは嘘じゃない。轢いた相手も車種も依然として覚えていない。
けれど、意識を失う直前、女の人が僕の安否を確かめに来た。その人が車を運転していた人物かどうか、それは定かではないけれど、僕の脈をとり、そして救急に電話してくれた人ではある。
その手は真っ黒な革手袋で覆われていた。
「もう一度聞きます、先生は本当に、僕を轢いてないんですか」
「この
僕の右手には、先生とお揃いのリストカット痕と、椎名へ贈り、そして先生を疑うに至ったメモの仕込まれた万年筆が握られているのだった。
もし先生の言葉を信じるならば、それはすなわち椎名の言葉に抗うこととなるのと同義だ。
だが雲隠れしている現状と、かつて先生が言った『椎名はづきには気をつけなさい』という旨の言葉がまたしても僕を惑わせる。
ダメだ。
「先生、僕の為にも手当しててくださいね」
「どこに行く気なの!?」
結果を観測して戸惑うなんて当然だ、なんせ諸元たる僕が今もあえて先生を弄ぶかのうようなワードを選択しているくらいなのだからな。原因である僕は諸悪の権現という訳か。
通り雨だったようで、ひと悶着あった間にやんでおり、ここが正確にどこかも分かっていないというのに走り出す。
「走れてる………?」
医者はもう走れないって言ってたよな?
何が何だかもはや分からない。
ゼンマイは何者かによって回され、既に動き出しているというのに、矛盾だが、歯車が狂っていることがハッキリと分かる。
つまりそれは僕が理解できていない機構があるから。人体の謎とやらも
車の発信音はまだしない。
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