違和感

第13話

 安藤は再度、何かあれば連絡してほしいという旨を伝えた。形式的なものではない、重要な喚起として。

 兵士のときの声に他ならぬ凄みがあるように、現職の刑事より受ける本心からの頼みにも少年に過ぎない僕には重々しく両肩に乗ってきた。

 経費が出るのだろうか、僕の分まで先に支払いを済まされ、ただ二つ並んだコーヒカップを友に、文字通り途方に暮れてひと時を過ごしてしまった。


 ……こんなにも椎名は僕に笑顔を、日常を、そして無気力とをくれていたのか。

 今の僕にはそのいずれも欠けている。椎名という一点を除いただけでだ。

 窓ガラスに映った僕の顔は辛気臭く、非日常をなんとか気を張って進もうとしているのだ、それらを支える『歯車』というものは自嘲すらさせないほどに間抜けな機関に思えてくる。

 いくつもの問題の中で、僕にはひとつ引っかかったままのものがある。

 結城先生の腕の話だ。

 もちろん、あの華奢な腕に引っ張られて胸を触らされた一件ではない。いや、問題ではあるが。

 それよりも今気にすべきは、あのリストカット痕。

 教師が非常に過酷な職業なのは聞いているが、それにしてもなぁ。固定観念に過ぎないし、ともすれば教師への非人格化かもしれないけれど、教師であるからには、リストカットはするものではなく、止めるものであって然るべきだ。

 それでもなお、袖で隠れるかどうか怪しい位置に、スパスパと数本の傷跡を残した訳とは。そしてその傷を見たとき、つまり僕が入院したときにはまだ比較的新しい傷跡だったこと。

 不可解とも言いたくなる結城先生の言動を解するには、ぶしつけであろうとも、この辺りの事実関係を自分なりに整理しておくのがいい気がする。

 それで椎名が見つかるとは別であろうとも。

 それで結城先生の精神的負担をほじくり返すこととなろうとも。

 真実の追求は往々にして人間関係を破綻させる。だが、不幸中の幸いなのか、僕の人間関係は既にあって無いようなもの。真実の代償に、僕の学生生活を賭ける決断は整ったのだから。


 喫茶店を発ち、いずこへか。三文芝居のように、雲のあいだから陽が射してきたために、僕は右手で目の上を軽く覆う。為せば成る、為させなば成らぬ何事も、成らぬは人の為さぬなりけり、という上杉鷹山の語呂の良い金言を思い出した時、なぜだか目の前に沙紀先輩が居た。


「やめなよ」

 第一声は思ってもみなかったフレーズ。『偶然だね』か、逆に『運命だね』とでも言ってきそうなものなのに。それも表情は今にも泣きそうで、それでいて痛いものをみるような目で。

「最終的に苦しむのは京谷、君なんだよ」

「何か知ってるんですね」

「多少はね。なんたって君はほとんど知らないんだもの」

「留学してた先輩に何が分かるんです」

「君がこのままだと確実に、そうだよ、確実に不幸になる未来が。そしてそう決定づけた過去を、私は断片的であれ、知ってるよ。君が失ったその断片を」

 訳知り顔でとうとうと語る沙紀先輩に、僕は初めて腹が立っていた。


「ね、やめなよ。壊れるのはいつだって京谷。そんなのもう嫌だよ」

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