第16話
「やっぱり気づいてなかったのね。いいえ、双葉君、あなたは見て見ぬふりをしてたのね」
確かにおかしな話ではある。記憶を喪失したと思われる入院時から何日経っているよいうのか。それでいて一度も視界に入らない部分ではないのだから、無意識下であったにせよ、僕はこの
「だったらこれはどう?」
知らぬ間に僕は握る力を弱めていたらしく、暗がりの車内でするっと白い先生の腕が動いた。そして先生は、ゆっくりと服のボタンを下から外していった。こんなときでも、『僕は上から外すけどな』というくだらない指摘が思い浮かぶが、そんなことよりも、どうして僕は
そしてその自己弁護もまた、完全なる問いではなかった。
僕は見るべきものを見たに過ぎなかったのだ、僕が付けたその胸元の傷を。
「ヘぇ、見覚えありって感じかな」
眩暈がする。吐き気も少し。
同じリストカットの痕があり、そして一生徒であれば一生知るはずのない、胸にある一筋の傷。
ただ確かなのは、その胸の傷は僕が付けたという一点だ。それだけは憶えていないのにも関わらず、断言できる自信がいずこからか湧いてくる。
*****
「おはようございます」
私はいつしか、彼の挨拶を一日のささやかならぬ愉しみであることを自覚していた。運動部の男の子と比べれば決して朗らかではなく、女子のような繊細さもない、儀礼的なその一言に、どうして私は狂ってしまったのだろう。
高2ともなれば、ちょくちょく面談が催される。思春期のラストパートのような彼らにとってそれは、無難な選択肢を、親も含めて互いに言語化するという時間でしかない。なのに私は、双葉君の面談時間をあえて最後にまわした。
通例、最後の方の生徒は、部活動がひと段落ついてからようやく面談できる、というような比較的多忙な子専用で、帰宅部の彼は一般的に午前中に済ませておく傾向にある。
そして私は過ちを犯した。
決して普段はオドオドするタイプではないのに、こういった行事で緊張すると、わずかに震えてしまう彼をみて、とても愛おしく感じてしまった。
そして私は遅くなったのを言い訳に、彼を自宅に送るといって、親もろくに乗せたことの無い自宅と勤務先を往復するためだけの乗り物に魔法をかけた。
そのとき私は、カボチャの馬車にのるお姫様の気分。運転手も兼ねているが、それは主導権という大人の事情で、自分をより鼓舞した。
………キスをしたときも彼は震えていた。きっと良くないことだと、自分を責めていたのだろう。そう、彼は一度も私を非難することはなかったのだ。
断れなかった自身の責任のように考え、そしてクラスメイトが徐々に離れていくほどに、彼は暗くなっていった。
もちろん私も何度も後悔した。
でも。でも、あの子の眼差しを受けた時、そんな思いはどこかに消えてしまうの。
もっと、もっと、もっと、彼を
教師としての
わざわざ舞踏会に行く必要はない。その時にはもう私は魔女そのものだったのだろう。
時々、彼は私のアパートへ来るようになった。最初の頃は私が誘わないと来なかったのに、どうやらこの頃は両親ともあまり上手くいっていないらしい。彼には居場所と理解者と愛が必要であり、私は彼に居場所と理解と愛を惜しみなく与え続けた。
けれど、彼の中で苦悩が晴れることはやはりなかった。
******
「全部終わりにするって言って、双葉君、ううん『京ちゃん』は私に向かってステーキナイフで切ってきたの。服の上からだったから、こんな感じで、ちょっと痕が残る程度に済んだのだけれどね………京ちゃんは自分の行いに驚いていた」
相も変わらず先生は僕をまっすぐに見つめているのに、いつしか僕の向こう側を見ているかのような視点の遠さを感じさせた。
「それでそのときに、君はリストカットをしだしたから、私もその苦しみを半分引き受けたの」
話を聞いた影響によるイメージなのか、それとも記憶なのか判別できない。
だけど、映像として浮かぶのは、どっちにしても確かだった。
「だったら………どうして僕を轢いたんですか」
焦点が一瞬でこちらに戻り、そして必死に告げた、『私じゃない!』と。
「で、でも」
「ねぇ、どうしてそんなこと言うの?覚えてないのはショックのせいかもしれないけれど、流石に酷いよ。私の知ってる京ちゃんはそんなこと言わなかったよ」
ただでさえ至近距離にいるのに、より距離を詰められ、肩を掴まれ、下着は目の前に。
「そう………これ!これだよ!やっぱり京ちゃんは憶えてくれてたのね」
パニックの末に、僕は結城先生の胸の傷の辺りを押して、引き離した。
…………だがなぜか、血が出ている。
「これに、書いて」
「は、え?」
「私の血で君のサインが欲しいの」
助手席側にあったバッグからスケジュール帳を無造作に取り出し、白紙のページを手荒く探す。
僕が胸元から手を放し、そのスケジュール帳を受け取るとすると、いつの間にか僕の右手には椎名のあの万年筆が握りしめられていたのだ。
この血は、キャップの外れた万年筆のペン先によって引っ掻かれたことによって滴ったのだ。
「どうして」
素手のつもりだったし、それに。
それにどうして今思い出すんだ。
この万年筆は、告白しようと思ったけれど、先生とのこともあって、誕生日プレゼントという体に変えて、僕が椎名にプレゼントしたものだったのだ。
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