期待感

第5話

「……そ、それが今から勉強教わるやつの言葉かよ」

「たしかに」

 とことこと僕の前へ駆け抜け、先に置いてあったカバンから教科書を取り出す。

「きょーや、早く」

「うん」

 思い返せば彼女が僕と仲良くなったのも、人間関係のなかであまり上手く立ち回れなかったからだ。そんな彼女が本当に同情を示そうとすれば、ああいった素振りになってしまうものなのかもしれない。

「考え過ぎだよな」

「きょーや?」

「いいや、何でも。さ、猛特訓だぞ!」

 脈絡を伴わないこの現実からしばしの逃避。因果応報という言葉が相応しい事件の連鎖によって成り立つ物語。それが歴史。賢者は歴史に学び、愚者は経験に学ぶ、なんていうこともあるけど、賢者は時として夢想家でもある。

「それにしても、ホント苦手なんだな」

「辛辣」

「むしろ現状が深刻なんだよ」

「うぅ」

 いつものクールな眼差しが今ではページを右往左往していて何だか面白い。あまり根を詰めすぎると彼女の場合、目に見えてメンタルが不調になってゆくので、ここは一つ、お互いの利益を尊重しよう。


「椎名、一つ頼っていい?」

「なに」

 凄い勢いだ。声こそ荒げていないものの、身はテーブルから乗り出して、今にもこっちになだれ込んできそうな感じ。

「はは、そんなに難しいことじゃないから。足の痛み止め飲みたいからさ、悪いけど水道水入れてきてくれる?」

「うん」

 スカートがひらめかんばかりにテキパキと動く様はなるほど本人の思惑通り『頼られがい』のある姿でもあり、失礼かもしれないけど、どこか幼げにも思えた。

 一生懸命でカワイイ、みたいな?

「いやいやいや」

 これは双方にとって単なる息抜きだ。別に深い意味など。


「おまたせ」

「ありがとう」

 それなりに来慣れているから、僕がよく使うコップの見分けもつくらしい。

「副作用」

「え?」

「眠くなったら勉強できない」

「あ、ごめんホントだ」

 懇切丁寧に処方箋を見せてくれたが、その時にはすでに二錠飲んでしまっておりどうしようもない。

「問題なければ、寝るまで勉強してていい?」

「あぁ、うんごめんね」

「謝るのは私。退院してすぐに押しかけてごめんなさい」

 ペコリと頭を下げる姿はいつもの椎名らしくない。もちろんそれは、謝るところが珍しいみたいな批判的な指摘ではなく、むしろセリフがかっている、彼女らしくない謝り方だったからだ。

 あれ、意外と眠気が早く来るな…………


「おやすみ、きょーや。もう少ししたら私も帰るから」


 ******


 ふぅ、案外まだこっちは暖かいかも。暦の上だといわゆる晩秋Spätherbstなのだから、もう少し装いの方も冬っぽいかと思えば、まだまだこれからといった感じ。


 それにしても帰国するとなると、やっぱりそれなりに理由がいるし、手続きも面倒だったなぁ。

 それでも、彼を放ってはおけないものね。きっと去年のあのままの彼だもの、私が今、そばに居ないと将来に関わってしまうはず。

 あぁ、早く録音じゃなくて本物の声で『沙紀先輩』って呼ばれたいな。


「Warte einen Moment.[ちょっと待っててね]」

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