第6話
気づけばもう深夜、というか早朝3時。既に椎名の姿はどこにもなく、窓の外には暗がりと、数個の街灯、そしてそれにぼんやりに照らし出される父の車。
起こしてくれてもいいのに。起こさなかったのは、足に気を遣って世話するのが面倒だったから?
そんな子どもじみた
あと数時間もすれば学校だ。まだテスト本番には二日ある。目が覚めたからとて、体験版一夜漬けみたいな真似はしなくてもいいだろう……と思う。
だからといって当然、登校時間まではまだまだ猶予、いや余裕がある。ネットサーフィンや様々な動画を見ても、結局は手持ち無沙汰なままだ。
この足では散歩することもできないので、仕方なしに音楽でも聴くことに。アニメのオープニング曲や親の影響で聞きだした『懐メロ』の他、実はクラシック音楽も好きだったりする。と言っても幅広く聴いてはおらず、その時々でよく言えば嗜むように、悪く言えばつまみ食いのようにして関心を広げているのが、いかにも僕らしい。
中学のとき、ベートーヴェンの曲、というよりはその人となりにどこか惹かれた。その次にバッハとか、少しずつ古典的な世界観に閉じ籠っていった。
そんな調子だったのが、今、案外初めてまともにショパンを聴いている。内面は自分で思っている以上にセンチメンタルな感じなのかも。
だからこそ、椎名や結城先生が気を遣ってくれたのだろう。朝に備えて、今だけは浸っておくとしようかな。
******
「今日は早起きね~」
母さんはこれまでと変わらない様子で忙しそうに弁当のおかずを詰めている。
「あぁ、先生が迎えに来てくださるそうよ」
「え!?」
「悪いと思ったんだけどね、実は出勤するとき通るらしいのよ。だから京谷が慣れるまではお願いしたの」
昨日はそのまま寝たのだから、母には先生から電話が来たことを伝えていない。となると、改めて先生の方から再び連絡がきた、そして今度は母が電話に出たということ。
そして極めつけは一見、特別待遇のようにも思える出迎え。
「顔色良くないけど、痛み止め飲んだの?」
「大丈夫」
別に僕、無免許運転とかで事故ったわけじゃないのに……何か言われるのか?
変に母さんに悟られては困るので、極力顔を合わせないようにしつつ、そそくさと用意をする。
来た。
「おはようございます、本当にご迷惑をおかけしまして」
「いえいえ、本当にお気を遣わず。あ、京谷君、おはよう。忘れ物ない?」
「………おはようございます。はい、大丈夫です、お願いします」
結城先生の車は白の乗用車で、扉を開けるといい匂いがした。
担任として今年に入って早半年ほどほぼ毎日過ごしているが、病室と今の他に、これほど身近に居た試しは一度もない。歩くのが痛くなった時にこうして近くに誰かが居てくれるのは嬉しいけれど、やはり懸念は晴れない。
「そんなに緊張しなくていいのに」
「あ、あの!僕、何か問題でも…………」
「うん、問題ありだよ」
頭の中で今更ながら必死に探るが、やはり思い当たることはない。問題ありという先生の方はクスクスと笑っているので、深く考え過ぎなのかもしれない。
「双葉君は無防備すぎる」
親の前では『京谷君』だが、二人になるとこの呼び方に戻る。
どこがだよ、なんて思いつつ、先生の顔が存外に真剣なので戸惑う。外の景色が少しずつ学校へと近づいていくのに、その意図はどこまでも遠いままだ。でも、父の運転と違って乗り心地はいい気がする。
「ほら、自分では気づいてないということは、懐柔策って訳でもないんでしょ?」
「そんな策士じゃないですしね」
「でも世間は策士で溢れているのよ。お人好しなのはとってもいいと思うけどさぁ。それに轢いた相手のこともそれほど憎んでないでしょ」
「そう……かもしれませんね」
「教師の口から憎みなさいなんて言えないけれど、それにしてもその寛容さは、魅力であると同時に、付け込まれる隙にもなる」
「き、気をつけます」
「でもいきなりは無理だろうし、疑心暗鬼になり過ぎて人間不信になったら、その時こそ先生、君に責任を取る必要が出てくるから。だから、高校生の内に、君の助けと一緒に、悪い人の特徴とか、将来悪くなりそうな奴らのこと、しっかり教えてあげるね」
願ってもないことだ。クラスメイトとは利害が一致しているから、いかに軽薄な関係性であっても、僕の中では何とか消化できるけれど、世間の大半はそうではない。
それらを回避する術を、あの日―――そして今、親身になってくれている先生が教えてくれるというのだ。
「はい、着いたよ。それじゃあ、先に『宿題』ね」
僕が扉を開けつつ聞こうとしたとき、結城先生はネクタイを引っ張ってそれを制し、癖なのだろうか、あの時みたくそっと耳元でささやいた。
椎名はづきさんには気をつけなさい、と。
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