第3話

 翌朝、僕は久々に父の顔をみた。退院の際に着替えや文庫本、そして車椅子も一緒にとりあえず帰宅する必要があったから、『会社に午前休を無理言って通してもらった』とを車内で愚痴られた。父にとって僕は退院しない方が都合が良かったのかもしれない。

「ありがとう、お父さん」

 僕の感謝は環境汚染排気ガスとエンジン音とつまらないラジオにかき消され、きっと父には届いていなかった。

 窓の外はたった数日では何も変わっていない。僕自身ですら、厭世えんせい的な、世捨て人的な生き方に進むというか、退こうと決心がついたわけでもない。ただ、これ以上病床を埋める価値が無かっただけ。

 音もたたないため息は、ほんの一瞬間しか窓を曇らせれない。


[おつ。退院おめでと]


 通知を切り忘れたせいで、わずかに父がいぶかし気な顔つきになったが、ビクビクしてメッセージを確認できないほど素直な幼さはもうない。

 椎名しいなはづき。高一のとき、席が隣だったから、話し出すようになった。同じ中学の知り合いの居ない僕らは、部活動にも所属していないのもあって、ややクラスに馴染めずにいた。良くも悪くも浮いてすらおらず、言わば同盟的な利害と現状の一致で、僕らは話し出した。

 今となっては、それなりに僕らはクラスでの立ち居振る舞いも身につき、二年になってからはクラスも別にわけられたけど、こうしてメッセージのやり取りは続いている。

 というか、去年からも対話より文面の方が回数が多い気がする。それは椎名が寡黙だからに尽きるのだが。とは言え『陰キャ』というものでもない気がする。ボーイッシュ?というかグレテないヤンキーというかクール。とにかく椎名は孤高なタイプなのだ。


[おつ。そっちは元気してる?]

[全然。早くいつもみたいに日本史助けて]

[あぁ、テスト前だもんな]

[赤点だったらきょーやのせい]

[そんな理不尽な結果をこれ以上、歴史に刻むわけにはいかんな]

[そーだよ]

[来てくれるならいつでも教えるぞ]

 男女の駆け引き、というものなど僕らの間にはない。だから互いに基本的には即返信。だが、ここで2分ほどレスポンスが途切れる。ちなみに僕は『椎名』と呼ぶし文面でも変換させているけど、椎名は僕を京谷と呼び、いつからか『きょーや』と書いている。

[そうだったね。何かいる?]

[サンキュー。コンビニの唐揚げでよろしく]

[おー]


「あとで友達が勉強しに来ることになったから」

「そうか。お母さんにも言っておきなさい」

「うん」

 報連相は既に飽き飽きって感じだな。部長ともなれば既に脳内は午後からの出勤だけ。それでいいんだけどさ。


 そうして車に揺られ、久々にみた我が家は、病室にあったあのベッドと同じような感じがした。

「それじゃあ、仕事に戻るから」

「うん、ありがとう」

「無理はするな」

「はい」

 言葉のチョイスをミスってるよ父さん、余計なことはするな、だろ。

 自分から鳥籠を行き来する飛べなくなった鳥。

「ぴよぴよ」

「なにそれ」

「し、椎名!?もう来たのかよ!」

「あ、ごめん」

「いやいいけどさぁ」

「鳥フェチ的な?」

「黙って早く上がれ」

「おじゃまします」

 再度、玄関に母の靴が無いことを確認し、車椅子をとりあえず置く。できるだけ松葉杖を使わずに済むように、家の中を懐かしむこともなく二階の自室へと進もうとする。

 けれど手すりを用いて、実質、腕力で階段を登っているようなものだ。なかなかどうして重労働で、これならもう少しリハビリに専念しておくべきだったと今さら後悔。


「あっ!?」

 比較的、後遺症の少ない右足を軸に、何とか三段目に進もうというときに、肩にかけたボストンバッグがずり落ち、そのせいでバランスを崩し――――


「ご、ごめん。すぐ起きるから」

 僕は椎名を押し倒すようにして階段を落ちた。

 この心拍数の上昇は、とっさの事故と、こんなにも近くで椎名を見たことが一度も無かったという二つ、白状すると特に後者のせいだった。


「大丈夫。大丈夫だから」

「お、おう」

「だから、きょーやもため込まず発散しなよ」

「誤解招くようなこと、言うなよ………」

 本当なら思春期の男として赤面してたのだろうけど、僕の中にもやはり鬱屈したものがあったのだろうな。

「ありが、とう…………」

 僕はしばらく起き上がらずに、彼女に覆いかぶさって、そして泣いた。

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